日の名残り第57話1

「こんなことになるとは思いもしなかった…(It Never Entered My Mind)」~『夜想曲集』#2~カズオ・イシグロ徹底解剖・第57話


それにしても、あのジャズのスタンダードナンバー『Here's That Rainy Day』の「出自」には驚いたな。

ホンマややこしい歌やった。

いよいよ、イシグロの短編集『夜想曲集』の第2話『Come Rain or Come Shine/降っても晴れても』の「冒頭で提示される4曲」の最後の1曲『It Never Entered My Mind』の解説だね…

曲名やタイトルが混在するとややこしいな。

現時点までをまとめると、こういうことだ。

おお!わかりやすい…

じゃあさっそく『イット・ネバー・エンタード・マイ・マインド』を聴いてもらおうか。

Siri Vikの素晴らしすぎるバージョンでどうぞ。

Rodgers & Hart《It Never Entered My Mind》
by Siri Vik

シリ姐さん、カッコいい!

雰囲気といい、後ろの壁に飾ってある「刺青の女」の写真といい、シリ姐は間違いなく岩下志麻を意識しとるで。

酸いも甘いも知り尽くしたような熟女に「私にこんなことが起きるなんて考えてもみなかった…」って歌われると、何とも言えないよな…

カヅオ!お前熟女マニアやったんか!

だからいつも「姉さん姉さん」言っとったんやな!

言ってないし…

てか、俺には姉さんなんかいないって何度も言ってるだろう…

バカどもは放っておいて、話を進めようぜ。

何やとォ!

おまんら許さんぜよ!

それは鬼龍院花子だ。


ねえねえ、おかえもん…

この歌にも「カラクリ」があるの?

「ある」どころの騒ぎじゃない。

カラクリ「ありまくり」だよ。

ありまくり?

この歌は、表向き「男と別れ、ひとりぼっちになった女が、みじめな自分をさらけ出す」体になっている…

だけど本当の意味は全然違うんだ。

ある種、壮絶な歌だよ…

マジで!?

ホンマかいな?

どう聴いても、ただの失恋ソングやんけ。

またワイらを担ごうっちゅう魂胆やろ!

相変わらずの節穴っぷりだな、お前の耳は。

どう考えても不自然な単語がいくつか出てきただろ?

不自然な単語?

あったか、そんなん…

「フェイスパウダー」とか「泥パック」とか…?

普通はあまり歌詞に出て来ないよね、こういう化粧用語は…

あと「オレンジジュース」もそうだよな。

洋物のオトナの失恋ソングにおいて、女がひとりで飲んで淋しさを感じるのは「カクテル」か「ワイン」と相場は決まってる…

「オレンジジュースを1つオーダーする」ことで寂しさを表現するなんて、初めて聞いたぞ。

生ビール大ジョッキとかやったら笑えるけどな。

いつも「とりあえず生2つ!」ってオーダーしとったから、1つだけ置かれた大ジョッキを見ると何だか淋しい…とか。

どんな女だよ。

この歌にも凄い仕掛けがあるんだよね…

歌詞を見てみることにしようか…

まずは普通に訳してみよう…


『It never entered my mind』

written by Lorenz Hart,  Richard Rodgers
日本語訳:おかえもん

(verse)
I don't care if there's powder on my nose
I don't care if my hairdo is in place
I've lost the very meaning of repose
I never put a mudpack on my face
Oh, who'd have thought that I'd walk in the daze now ?
I never go to shows at night, but just to matinees now
I see the show and home I go

私、全然気にしない
フェイスパウダーが鼻についてても
私、全然気にしない
髪型がずっとオカシナことになってても
泥パックなんてやるもんですか
私が今ボンヤリ歩いていたって
いったい誰が気にするというの?
夜のショーなんて絶対に観に行かない
行くのは今みたいにマチネーだけ
観終ったら、真っ直ぐ家に帰るのよ

痛い女やな。完璧なイタジョや。

なんで「夜の観劇」はダメで、「マチネー(昼の部)」だけOKなの?

オペラとか夜のショーというのは「男女同伴」が基本で、内容もカップル向けなんだよね。

だけど「マチネー(昼の部)」は女性の「おひとりさま」向けに作られていて、出演者も女性が好む「イケメン俳優」が多かったんだ。

なるほど!

1番
Once I laughed when I heard you saying
that I'd be playing solitaire
uneasy in my easy chair
It never entered my mind

2番
Once you told me I was mistaken 
that I'd awaken with the sun
and order orange juice for one
It never entered my mind

前に私、あなたの言うことを
笑ったことがあったわね
「そのリクライニングチェアで君は
 淋しくひとり遊びをする羽目になるぞ」
そんなわけないでしょって思ったの

前にあなた言ってたわよね
私が過ちを犯したと
ひとりぼっちのベッドで目を覚まし
自分の分だけのオレンジジュースを
オーダーする羽目になるだろうって…
なぜか私に限って大丈夫って思い込んでたの

忠告されとったっちゅうのに、聴く耳持たんかったんやな…

自業自得やろ、この女。

だね。

Cメロ
You have what I lack myself
and now I even have to scratch my back myself
3番
Once you warned me that if you scorned me
I'd sing the maiden's prayer again
and wish that you were there again
to get into my hair again
It never entered my mind

あなたが居ないと私はままならない
今じゃ背中も自分で掻かなきゃいけないし

前にあなた、このままじゃ私を
軽蔑するかもって言ってたわよね
だから私、もう一度《乙女の祈り》を歌うわ
あなたが戻って来ることを願って
また私のことウザいくらいかまってほしい
こんなこと考えたこともなかった

『乙女の祈り』っていったら、バダちゃんだよね!

一発屋一発屋って可哀想だよな、彼女。

日本以外ではそんな風に思われていないのに。

だけど裏の意味があるんだよな?

隠された本当の意味が…

その通り。

この歌の「you」とは「イエス・キリスト」のことなんだ…

えええ~~~!?

って驚いてはみたものの、毎回そのセリフを聞いてるような気がする。

そういえば、そうやな。

だいたい聖書か中東問題や。

だが今回は一味違うぞ。

へ?

「I」、つまりこの歌の「私」とは…

「イエスを磔にしたユダヤ人」のことなんだよ…

ふぁ!?

ユダヤ人が「後悔」する歌なんだよ…

かつてイエスを処刑したことについて…

ど、ど、どうゆうこと!?

てか、何で…?

理由は後でゆっくり説明することにして…

まずは歌詞に隠された本当のストーリーを聞かせよう…

(verse)
I don't care if there's powder on my nose
I don't care if my hairdo is in place
I've lost the very meaning of repose
I never put a mudpack on my face
Oh, who'd have thought that I'd walk in the daze now ?
I never go to shows at night, but just to matinees now
I see the show and home I go

鼻のことを笑われたって気にしない
髪の毛のことを言われたって気にしない
安息の本当の意味なんてとっくに失われた
自ら辱めを受けるなんて有り得ない
誰が過越の日に仕事をしようというのだ?
日没を越えたらいけない、昼の間に終わらせろ
この見世物が終わったら、さっさと家に帰るんだ

な、なんじゃこりゃ!?

ヴァース部分は、「ゴルゴダの丘」でイエスの磔刑を執行してるユダヤ人たちの様子だね。

ああ、そうか!

最初の4行は、ユダヤ人の特徴のことなんだ…

かつて「鉤鼻・ワシ鼻」は俗に「ユダヤ鼻」と言われていた…

髪の毛も特徴的やったな。

正統派の男はモミアゲ伸ばしとるし、女は頭を剃り上げてカツラを被っとる…

「安息の本当の意味は失われた」って?

旧約聖書の《ゼカリヤ書》からの引用だね。

預言者ゼカリヤは、こんなことを言った。

かつての断食の日々は「歓喜と歓びに満ちた良い祭りの時節」に大きく変わるだろう

ちなみに《マラキ書》では、堕落したユダヤの民が神を「鼻であしらった」ために、神が「鼻白む」場面がある。

そして、正しいスタイルで「捧げ物」を行わなかったので、神は彼らの顔に「糞を塗る」とマラキ書は言う。

糞!?

また、3,4行目は、イエス教団から見た、パリサイ派などユダヤの民のことでもあるよな。

安息日の本来の目的を履き違え、完璧に律法を守っている自分たちは絶対的に正しいと考えていた。

そして「who'd have thought that I'd walk in the daze」が実に素晴らしい。

表向きの意味では「walk(歩く)」+「 in the daze(ぼんやりと)」だった。

だけど本当は「walk in(仕事に就く)」+「the days(とある日々に)」なんだ。

「一切の労働が禁止されている過越しの日々に仕事をする」という意味になってるんだね。

そっか!

イエスの磔は「過越の本番」が始まる前日だったんだよね!

日没で本番の日になっちゃうから、それまでに終わらせなきゃいけなかったんだ!

だから「I never go to shows at night」だったんだな…

日没から過越しの儀式が始まるから…

そして当時の処刑は「見世物」でもあったから「matinee(昼興行)」なんだ…

そしてヴァースは「I see the show and home I go」と締め括られる…

処刑場にいたユダヤの民たちは、日没後のことで頭がいっぱいだったわけだ。彼らにとって非常に重要な祭りが始まるから…

誰や、こんな歌詞書いたんは!?

切れ味鋭すぎるやんけ!

Lorenz Hart だよ。

ろれんつ... はあと...?

どっかで聞いた名前だな。

ロ、ロレンツ・ハート!?

映画版『日の名残り』で使われた名曲『ブルー・ムーン』や…

ジュディ・ガーランドの『スタア誕生』の劇中劇メドレーで使われた『You Took Advantage of Me』の作者…

そして『マイ・ファニー・バレンタイン』や『The Lady Is a Tramp』など、数々のスタンダードナンバーを世に出した天才作詞家じゃないか!

『ブルー・ムーン』も「ややこしい歌」やったな。

エルサレム旧市街地の「神殿の丘&岩のドーム」の歌やった…


その通り。ハートについては、あとでゆっくり話そう。

「本当の意味」バージョンでの翻訳を続けるよ。

1番は、こんな意味になってるんだ…

1番
Once I laughed when I heard you saying
that I'd be playing solitaire
uneasy in my easy chair
It never entered my mind

イエスがこんなことを言った時
我々は耳を貸さずに笑い飛ばした
いつか我々が、なすすべもなく
ワンサイドゲームを演じるだろうと…
こんなことになるなんて思ってもみなかった

そういえば、これっていつの歌?

「ソリティア」って昔からあったの?

『It Never Entered My Mind』は、1940年に発表された歌だよ。

「ソリティア」っていうのは、今では「暇潰し系」コンピューターゲームの代名詞のように思われているけど、元々の意味は「ゲームをひとりで進める」という意味の言葉だった。

だから対戦型のゲームでも、自分に有効な手が無くて、相手だけが一方的にゲームを進める「ワンサイドゲーム」になった場合、それを「ソリティア」と呼ぶんだよ。

せやったんか。

そういえば、堕落したユダヤの民に対してイエスが「再びエルサレム神殿は崩壊する」と予言しよったよな。

そんでその通りに、ローマ帝国に破壊されてもうた。

一方的に攻め込まれ、なすすべもなく…

それだけじゃないよな。

この歌が発表された1940年頃、欧州においてユダヤ人は「ワンサイドゲーム」で一方的にやられていた。

まさに「なすすべもなく」…

ああ!

19世紀末頃から、ヨーロッパでユダヤ人の迫害「ポグロム」が深刻化していたことは何度も話したよね。

ロシア帝国西部、現在のウクライナ・ベラルーシ・リトアニアあたりでは、ユダヤ人に対して大規模な虐殺が行われ、ほとんど「民族浄化」の域だった。

ウィーンなど大都市でも「反ユダヤ主義」が巻き起こり、商人や医師、芸術家など比較的裕福なユダヤ人に対して「排斥運動」が起こったんだよね…

いわゆる「世紀末ウィーン」の時代に「反ユダヤ主義」を掲げ、過激な「ヘイトスピーチ」でウィーン市民の絶大な支持を得て、4回も選挙で勝利した市長もいたんだよね。

カール・ルエーガー市長だね。

Karl Lueger(1844 - 1910)

「多民族国家」を標榜するオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、カール・ルエーガーの当選を承認せず、市長に任命することを拒否した。

だけどいくら選挙のやり直しをしてもカール・ルエーガーが当選するので、4回目の当選でついに承認せざるを得ない状況に追い詰められた。ユダヤ人に寛容だった皇帝に対し、市民が「ドイツ人・ファースト」を叫び始めたんだよね。

ここで「多民族による共存社会」という国是が崩壊し、帝国内のハンガリー人やチェコ人の反発を招き、第一次世界大戦の敗北を受けてハプスブルク家の時代が終焉する。

ユダヤ人の詩人ハイネを愛し、マジャール文化を愛した皇后エリザベートは、スイスで民族主義者に暗殺されたんやったな…

ロミー・シュナイダーが皇后エリザベートの生涯を演じたシリーズ映画『シシィ』は、そこまで描く前にロミーが降板したんや…

そういえばロミーとアラン・ドロンの映画『Christine(恋ひとすじに)』の原作者アルトゥール・シュニッツラーも、元ユダヤ人だったから軍医の資格を剥奪され、ウィーン大学医学部から追放されたんだ…

そしてナチスは、シュニッツラーの作品を「焚書」にした…

その通り。

だけど何でそこまで嫌われなきゃいけないの?

別に何も悪いことしてないのに、ユダヤ人は…

まあ、様々な理由があったんだけどね…

例えば、ヨーロッパ文明の土台であるキリスト教文化とは異なる「独自の文化風習」を維持していたこととか…

だけど一番「キャッチー」に使われた迫害理由は「イエスを殺したから」というものだったらしい。

「ユダヤ人に、イエスを殺した報いを受けさせろ!」ってね…

せやけどイエスは「救世主の預言」を成就させるために、わざと逮捕されるようなことを行い、自ら死刑になることを望んでたわけやろ?

ユダヤ人のせいとちゃうやんけ。

むしろ「あんた無罪や」って言われたらイエスも困ったんとちゃうか?

そんな論理的な考えを、熱狂した大衆が冷静に聞くと思うか?

わかりやすくてスカッとする「ワンフレーズ」に人は熱狂するのだ。

2番の歌詞は、まさにこのあたりのことが歌われている。

2番
Once you told me I was mistaken
that I'd awaken with the sun
and order orange juice for one
It never entered my mind

かつてイエスはこう言った
我々は過ちを犯していると
我々は大切な夜に惰眠を貪り
主に赤い衣を着せて
「ユダヤの王、万歳」と辱め
死刑を宣告してしまったのだ…
まさかこんなことになるとは

朝起きることが過ちなの?

そもそも「過越」とは、モーセによる「出エジプト」を偲ぶものだ。

あの時、深夜から明け方にかけて様々な出来事があった。

神がエジプト中の初子を殺したのは「真夜中」のことで、モーセたちが出発したのは「夜明け前」だったんだね。

だからイエスは「最後の晩餐」の後に、使徒たちを連れてオリーブ山の麓のゲッセマネに行き、夜通し祈りを捧げようと言った。

だけど使徒たちは眠ってしまった。

他のユダヤの民も、長老たちも、大事な夜にぐっすり眠っていた。

だからイエスは夜明け前に逮捕されてから、長老たちが起きてくる時間まで待たされることになったんだ。

そんで裁判が始まったんやったな。

そこに偶然ガリラヤ領主のヘロデ・アンティパスがエルサレムにおるって情報が入り、イエスをヘロデのところへ連行した。

ヘロデはガリラヤ人イエスの監督責任者やさかいな。死刑にしていいものか確認させたんや…

そしてヘロデは、イエスに王のしるしである「赤紫の衣」を着せて、「ユダヤの王、万歳!」と馬鹿にして、「死刑で当然」とローマ帝国ユダヤ属州総督ピラトのもとへ送り返した。

なんでセシリア婆ちゃんの修正版やねん。

こっちやろ!

《この人を見よ》
エリアス・ガルシア・マルティネス

ああ!

「オレンジジュース」って、まさか…

そう。その「まさか」だ…

「赤紫の衣を着せられたユダヤの王」って意味なんだね…

マジかよ…

「オレンジジュースを1つオーダーする」が…

「自称《ユダヤの王》に死刑を宣告する」になってたなんて…

ロレンツ・ハート、げなパネェ…

そしてCメロは、こうなっている…

Cメロ
You have what I lack myself
and now I even have to scratch my back myself

あなたたちにはメシアがいる
それは我々に欠けている存在
そして今、我々は罰を受け
自ら過去を掻き消す必要に迫られている

なんだか「空気」が違うね、Cメロは…

こういう暗号ソングって、Cメロにヒントを入れることが多いんだよね。ちょっとしたネタバレのヒントをね。

『ワン・フォー・マイ・ベイビー』でも、そうだったでしょ?

このCメロでは「scratch」が、出血大サービスのヒントになっているんだ。

そうなん?

旧約聖書には、数多くの預言が存在する。

中でも『ゼカリヤ書』は、来たるべき「メシア(救世主)」到来の様子が事細かに書かれていることで有名だ。

そしてイエスは、この『ゼカリヤ書』の預言を次々と成就させた。

どんな預言があったんや?

『ゼカリヤ書』には、メシアに関して次のように書かれている…

「シオンの、義にかなった謙遜な王は、ロバに乗ってエルサレムにやって来るであろう」

イエスのことやんけ!

「ロバに乗って入城」して「ユダヤの王」と呼ばれたやろ!

「民は働きに支払いをする機会が与えられ、その働きを銀30枚と評価する」

報酬が銀貨30枚!?

イエスを裏切ったユダの報酬と同じじゃないか!

「エルサレムは重荷の石となり、それをみだりに動かそうとする者は背中にひどい《掻き傷》を負うであろう」

わお!

歌詞の「scratch my back」は、これの引用だったんだな!

こんなのもあるよ…

「攻撃して来る諸国民のうち、残されし者たちは毎年仮小屋の祭りを祝い、主である神の御前に身をかがめるであろう」

「残されし者たち」って「サザレェ・イシュノ」だったよね。

これが《君が代》の歌詞になったり、某国民的アニメの主人公の旧姓になったという説もある…

そんなこと言ってると、オカルトサイトだと思われるぞ。

ほ、他にも「エルサレムを敬う者には恵の雨が降り、そうでない者たちの国には雨が降らなくなる」なんてのもある。

これまで何度も解説してきたよね、古い洋楽で「雨」が歌詞に出て来たら、裏には「雨が降る=ハッピー」という意味が隠されているということを。

まあとにかく、この『ゼカリヤ書』に書かれてることを、イエスはことごとく成就させた。

正統派ユダヤ人の多くはそれを認めないけど、クリスチャンにとっては重要な書なんだよね。

「そこには長い連続した日がある。昼もなく、夜もない。夕暮になっても、光があるからである」なんてのもあるぞ。

まるで『日の名残り』みたいだよな。

さらに「その日には、生ける水がエルサレムから流れ出て、その半ばは東の海に、その半ばは西の海に流れ、夏も冬もやむことがない」なんてのもある。

日本人として27年間生きて、英国人として35年間生きているカズオ・イシグロに通じるものがあるって感じがしないか?

夏と冬をよく間違えるし。

へえ、面白い!

そしてさっき僕は、

「and now I even have to scratch my back myself」

の部分を、

「そして今、我々は過去を掻き消す必要に迫られている」

と訳した。

「scratch」には「引っ掻く」の他にも「掻き消す」って意味もあるもんね!

だけど何で「自分の手」で「過去を掻き消す」必要に迫られたの?

アドルフ・ヒトラーが「ホロコースト」の実行をほのめかしたからだよ。

1939年1月30日、ナチスの政権獲得6周年記念イベントという公の場で、総統アドルフ・ヒトラーは次のような発言をした。

「たとえ国際ユダヤ資本が再び世界大戦を起こしても、それはユダヤ人の勝利に終わるのではなく、奴らの絶滅で終わるのだ!」

第一次世界大戦の原因は、国際ユダヤ資本の陰謀になってるんだね…

これまでもドイツ圏では、ユダヤ人の資産を没収し、ゲットーに閉じ込め、彼らを強制労働に駆り出していた。

それを恐れたユダヤ人の一部は、名前をドイツ風に改め、出自を隠して当局の目を逃れようとしていたんだ。

そしてこれはドイツだけに限らなかった。

昔からヨーロッパではユダヤ人差別があったので、名前を変えることが少なくなかった。

迫害を逃れて渡ったはずのアメリカでもそれは変わらず、多くのユダヤ人が名前を変えて生活していたんだ。

映画『紳士協定』やな。

アメリカ人はナチスを鬼畜扱いしとったけど、自分たちもユダヤ人を差別しとった。

それが1960年代もまだ残ってたんだよね…

だからダスティン・ホフマンの『卒業』は、あんなエンディングになったんだ…

アメリカ史上最高に愛された音楽家アーヴィング・バーリンも、ユダヤ人であることを理由に結婚を反対された。

先方がカトリックの家庭だったんだよね…

そして激怒した先方のお父さんによって娘さんはヨーロッパ送りになり、バーリンと離ればなれにしてしまったんだ…

この『It Never Entered My Mind』という歌は、自分たちの出自を隠し続けなければいけないという、1940年頃のユダヤ人を「自虐的」に歌ったものなんだよ。

ロレンツ・ハートもユダヤ人だったからね。

ドイツ人、いや、西洋人はユダヤ人を「イエスを殺した奴ら」だと考え、長きにわたって差別してきた。

それがついにナチスによって大規模な「民族浄化」にまで発展する勢いになっていた。

そして恐ろしいことに、イギリスをはじめ他国はそれを「黙認」していた…

・・・・・

そして歌はこう締め括られる…

3番
Once you warned me that if you scorned me
I'd sing the maiden's prayer again
and wish that you were there again
to get into my hair again
It never entered my mind

かつてあなたは私を軽蔑すると言った
だから私は《アヴェ・マリア》を再び歌おう
あなたが再び地上に降りて来ることを願って
また私たちに厳しい言葉をかけてください
こんなことになるとは思ってもみなかったのです

「the maiden's prayer」は、バダちゃんの『乙女の祈り』じゃなかったの!?

この流れで、なんでバダジェフスカになるんや!?

空気読めや。

空気?

イエス・キリストが本当に救世主なら、恥を忍んで「おすがりします」ってことなんだよ…

多くのユダヤ教徒はイエスを救世主だと認めていないからね…

そして、ユダヤ人の中にはキリスト教に改宗した者も多かった…

『日の名残り』の執事スティーブンス父子みたいに…

厳格なユダヤ教徒からは「恥知らずの裏切り者」とされることもあった…

でも、たとえ自分は「恥知らずの裏切り者」でも、この悪夢のような現実を止めて欲しいと願わずにはいられない…というメッセージも歌詞には込められているんだ。

もしかしたら、アメリカの非宗教的なユダヤ人や改宗者の思いかもしれないよね…

だから、ここでの「the maiden's prayer」は『乙女の祈り』じゃなくて『アヴェ・マリア』なんだよ。

《Ave Maria》by Olga Szyrowa

う、美しい!

歌もオリビア・ハッセ—も!

この『アヴェ・マリア』は、ポーランドの作曲家Michał Lorencによって割と最近作られたバージョンだけどな。

だけどロレンツ・ハートは、こんな歌詞を書くくらいだから、よっぽど複雑な思いがあったんだろうね…

そうなんだよ。彼にはいろんな事情があったんだ…

そしてこの歌の出自も、ちょっと「いわくつき」なんだ…

またミュージカル絡みなんだけど…

来ました!

おかえもん得意の「いわくつき」ミュージカル案件!

ちょっと今回はテーマがヘビーだったんで、回を改めてゆっくり話そうかな…

まったくカズオ・イシグロも、ややこしい歌ばっかり出しやがって。

俺たちがこの伏線を拾わなかったら、いったいどうするつもりだったんだ?

僕らがやらなくても、いずれ誰かが書いたでしょう…

あれだけの大作家ですから、本格的に研究する人も現れるでしょうし…

じゃあオイラたちはイシグロ研究の「Forerunner」ってわけだな!

たった2作品だけで、もう57話も書いてるもんね!

こんな濃厚なブログ書いてる人、見たことない(笑)

イシグロにかこつけて、好きな歌や映画やミュージカルの話をしとるだけっちゅう説もある。

そうかもね。

それぐらいイシグロ作品は、思わぬ想起を引き起こし、様々なインスピレーションを与えてくれるってことだよ。

イシグロ様様だな。

でも僕も、正直言うと、こんなことになるとは思ってもみなかったな…

自分でここまで書いてても信じられない…

まさに…

ハイハイ、『It Never Entered My Mind』ってことね。

別に無理して毎回オチをつけなくてもいいと思うんだが。

冒頭の枕とオチを無くせば、もっと話の進行が早まるぞ。

でも、なんだかそれでは味気ない気がして…

芸がないっていうか…

さすがは元・落語家志望だっただけあるな!

意味不明の使命感だ(笑)


——つづく——



『夜想曲集』(@Amazon)
カズオ・イシグロ著、土屋政雄訳



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