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だいたいのことは、どうしようもないかもしれない(仮題)

『優れた知性とは二つの対立する概念を同時に抱きながら、その機能を充分に発揮していくことができる、そういったものである。』 
-スコット・フィッツジェラルド

 いつだったか、どうしようもない学生時代に講義をサボって大学近くのカフェでグレート・ギャツビーを読みふけり、著者のスコット・フィッツジェラルドについて調べる中でこの文に出会った。いつだったっけ。いつだっていいか。とにかく、この言葉はぼく自身の知性に対するスタンスの一つとして有効に機能していて、それでいて充分に処理しきれていない。

 当時よくサボった「人材マネジメント論」とかなんとかいう授業はとにかく退屈で、配られたレジュメを順番に読み通して行くような類のものだった。しかも、90分かけて丁寧にレジュメを読み通すのにも関わらず、得られるものは一人で黙読して得られる情報と全く変わらない。「レジュメを一言一句漏らさずに正確に読め」と教務課からミッションを課されたかのような無機質な授業だった。

 一度、その教授が食堂で昼食を取っているのを目にしたが、食べ方まで無機質だった。「仕方なく食べているんだ」とうっすら主張するかのようなうんざりとした表情。授業に出なくても単位が取れるから、学生からは好かれていた。嫌われていなかった、という方が適切かな。だいたい、どうしたら数式で人材をマネジメントできるっていうんだと、今でも疑問は残る。畑が違うと、答えとして実る果実も異なるんだろうか。

 今、昭和風を吹かせたどうしようもない喫茶店にいる。学生時代にスコット・フィッツジェラルドを読んでいた気の利いた内装のカフェとは全く異なる、なんの特徴もない喫茶店。煙草の煙で黄ばんだ壁。エアコンが効きすぎていて、乾いた埃の匂いがする店内。夏間近にも関わらず、客は全員雁首を揃えてホットコーヒーだ。抗おうと思ったが、辞めた。冷房であまりにも寒かった。意志を通してもどうにもならないことが、世の中にはたくさんある。もっとも、意志を突き通すことは、結果とは無関係に本人にとって価値のあることなのだが。

 限界集落みたいな平均年齢の喫茶店のマスターは、仕方がないという佇まいを貫いている。仕方がないからオーダーを取り、仕方がないからコーヒーを淹れ、仕方がないから会計をする。「いらっしゃいませ」まで仕方なさをどことなく孕む物言いだ。乾いた冷房の風と一緒に店内を循環する仕方なさが、人材マネジメント論の教授を思い出させた。かけらもぼくの人生に影響を与えない、ただ通り過ぎて行くだけの人間だと思っていたが、しっかりと記憶のフックに残っていた。何か意味があるのかもしれない、とぼんやり考えながらアークロイヤルに火を点けた。

 ふと煙草の箱に目を落とす。アークロイヤル・スウィート。オレンジ色の大きな箱。チョコの味がするから喫茶店で大活躍する。居酒屋では申し訳なさそうに机に座っている。それくらい、コーヒーと一緒がよく、ビールとはあまり仲良くない。誰かと極端に仲良くすることは、誰かとは仲良くできないことを意味する。

 白のアークロイヤルと違って、スウィートはボックスで売っている。やはりオレンジ色のボックスの側面、広い面積を活かしてこう書かれている。

本パッケージに記載されている、製品名の「SWEET」の表現は、本製品の健康に及ぼす影響が他製品と比べて小さいことを意味するものではありません

 全く、どんな使用者を想定して記載しているのだろう。スコット・フィッツジェラルドが見たらなんて言うだろうな。彼が語る知性以前の問題だな、と投げやりな気持ちになる。でも彼は死んでいるから何も言えないか。どうしようもないから、2本目に火を点け、煙と一緒にどうしようもなさ吐き出す。でも、喫煙者は例外なくどうしようもないから仕方がないか。アークロイヤル・スウィートはいつも通りチョコの香りがした。

 昔、2つ歳が上の女性と付き合っていた。人材マネジメント論の教授とかなんの特徴もない喫茶店のオーナー同様に、その女性も「どうしようもない」という表情を携えて生きていた。幼くして父親が蒸発し、母親と妹を支えて生きてきた苦労人としてぼくに話していた。どうしようもないことが重なって、いつもどうしようもない表情をしていると、素顔もそれに固定されるのだろうか。彼女は初めて抱いた時すらも、どうしようもない顔をしていた。彼女のどうしようもないといった佇まいを、ぼくは嫌いではなかった。もちろん、好きとは大きな隔たりがあるのだけれど。

 そうして、どうしようもない佇まいのしっかり者との恋愛は、たった2ヶ月程度でどうしようもなく終わった。彼女のどうしようもなさをシェアするにはぼくはまだ子どもすぎたし、ぼくの中に残る好奇心やあどけなさを満たすには彼女は大人すぎた。彼女のどうしようもなさは、「知性」があるというよりは諦めに映った。諦めでは「有効に機能すること」はあり得なかった。あるいは、諦めの中に香る春の日の出みたいな淡い希望を見いだせる知性は、ぼくにはなかった。

 終わり方も思い出せない。今となってはあのどうしようもなさを奏でる表情すらも鮮明に思い起こすことはできない。過去は思い出となり、絶えずその輪郭が崩れて行くものだのだ。だから思い出は郷愁を与えるし、それはぼくらを感傷的にさせる。なんにせよ、もはや連絡をとる術すらこの世界には存在しない。終わり方も、どうしようもなかった。どちらのせいでもなく、蓋然的などうしようもなさだけが残った。そういう恋愛だった。

 具体的にどこに行ってデートをしたとか、どんなセックスをしたかとかもおぼろげな記憶しかない。むしろ、ほとんど思い出せない。唯一具体的で鮮明なことと言えば、「君は、一緒にいるのにいない感じがする。何を話していても何をしていても、半分はどこか別のところにいる気がする。」と夜の神社で言われたことだった。その時の彼女の表情だけは鮮明に思い出せる。やはりどうしようもない表情。もしくは、ぼくがどうしようもない表情をしていて、それをトレースしていただけかもしれない。ぼくの精神的な欠損の象徴として存在していたのかもしれない。だから、彼女の記憶は捨象され、抽象的なシンボルとしてぼくをどうしようもない気持ちにさせる。シンボルとしての夜の神社のエピソードだけが、明確に表情を思い出させる。

 いずれにせよぼくの人生において、通り過ぎて行く類のシンボルだったのだろう。その後4人の女性と付き合ったが、どの恋愛を抜き取ってもどうしようもない関係性だった。

 一つだけ、ピュアな恋愛というか、どうしようもなくない代物があった。片思いだった。片思いとは、ある意味でもっとも純粋な恋の形式かもしれない。それは、幼稚園年中のときだった。

 何組かも思い出せない抽象的な幼稚園に通っていた。年少から年中に上がるタイミングで転入してきた子がいた。たかが4歳の記憶なので確証はないが、アニメから出てきたみたいな可憐な女の子だった。確証がないなりに、先に話したどうしようもない2つ上の女よりも記憶が鮮明だ。時間は、個人的な観点では不平等に過ぎて行くのかもしれない。その証拠に、高校生の時と大学時代の一部の記憶をほとんど失っている。

 幼い恋心を傾けた女の子は、卒園と同時にどこかへ引っ越してしまい、無力な5歳の初恋は簡単に終わった。はじめからそうして終わる設定だったかのような、特に語る価値も起伏もない話だ。

 しかし、実はぼく達はそれで終わりではなかった。高校生になり、SNSで彼女とつながることができたのだ。全くの偶然。オンラインでのやりとりを重ね、いつの間にか電車で会える距離に引っ越してきていた彼女と10年ぶりの再会をした。ふたりで、こっそりと。別に誰かに秘密にしていたわけでもないのだが、お互い誰かに話すほどのことでもなかったので、密会のような空気に自然になっていた。それは、16歳にとってはくすぐったすぎたし、16歳の割にもくすぐったかった。

 彼女の地元のショッピングモールにあるクリスピークリームドーナツでたわいもない話を重ね、「ぼくがどうやら幼稚園の時好きだったらしいよ、親から聞いたんだけど」と覚えていないフリをしながらそれとなく伝えた。彼女はまんざらでもない面持ちをしながら聞いていて、その表情は幼稚園時代を思い起こさせる可憐さが充分に残っていた。

 少し嘘をついた。記憶がないフリをして過去の告白をしたのは大学時代だった。16の時に再会したときには、もっとどっちつかずな話をして、お互いそれほど覚えてもないけれどなんとなく感傷的になって、世界の秘密をふたりだけで共有しているような神秘的な気持ちになって、それでもどちらが攻めるでもなく帰路についた。初恋の綺麗な思い出を崩し得る行為は、若干16歳のぼくにはできなかった。初夏に食べるスイカみたいな甘酸っぱい余韻だけが残った。

 過去の告白をしたのは大学生の時で、20を超えてもやっぱり可憐な彼女とは、高校時代と変わらずにクリスピークリームドーナツで話した。再会のショッピングモールにはお互い思い入れがあったからだ。君が初恋相手らしいよという話や、再会するときは胸が張り裂けそうな緊張で変な汗をかいたよ、みたいな話をぼくがした。

 彼女は「幼稚園の初恋相手と10年ぶりに再会って、青春ドラマみたいな設定でずるいよね。もしかすると、もしかしたかもね」と、4歳のようなあどけない表情で返した。元カノとふたり思い出を語るとしても、これほど爽やかで神秘的な情動が起きることはないだろうと思った。日曜日のクリスピークリームドーナツはほどほどに混雑していたけれど、ふたりは確実にふたりだけの世界を構築して話し込んだ。夜の教室にふたりきりでいるかのような切なさと儚さがドーナツと一緒にあった。

 彼女とどうにかなりたいとは思わなかった。というと嘘になるが、どうにもならないこの関係性のまま上書き保存をすることがもっとも美しいことのように思えて、コントロールとSキーを押した。便利な時代だ。もっとも「戻る」のショートカットキーは人生にはないけれど。そういう意味で、純粋だった。必ずしも恋人になることだけが関係性の成就ではなく、あくまで「初恋相手で10年越しの再会をし、逢瀬を重ねる関係」のほうが美しいんだ。あらゆる個性が一人ひとりにあるように、関係性にもあらゆる個性が尊く存在し得る。

 しかしこういう風に振り返ると、純度100%に思えたこの初恋も「どうしようもないもの」の一貫だったかのように思える。彼女が今どこで何をしているかは知らない。しかし、またどこかで出会って、どうしようもない話をして、どうにもならずに終わるのだろう。そういうフォルダに入ってしまった思い出だから。どうしようもない。

 ぼくはまだ喫茶店にいる。今日最後の客になってしまったぼくとマスターだけが不自然に時間を共有している。文章を書くためにキーボードを叩く音だけが店内にぱたぱたと響く。マスターは店じまいしたそうになんども時計に目をやるが、ぼくは意に介さない。そういう保留ばかりをうまくやってきた人生だった。ぼくが何か判断をした瞬間に、本当に重要なものが手からこぼれ落ちてしまいそうな気がして、あらゆる局面で保留せざるを得なかった。

 結果として、得たものより失ったものの方が遥かに多いように思う。A4用紙を横向きに置き、中央に線を引く。左側に「得たもの」、右側に「失ったもの」とタイトルを付す。おそらく、本格的に書き出すとほとんどペンは右側にわがままに居座るだろう。あるいは、右側のせいでA4では足りないかもしれない。

 マスターが舌打ちを始めた。ぼくは抗うようにアークロイヤルの新しい箱のフィルターを炙って開封する。今度は白。とんとんとソフトの包装紙を叩いて、茶褐色の煙草を取り出し火を点ける。文章に認めたどうしようもない記憶とともに、煙を吐き出す。マスターも、半ば諦めたようにため息をついた。

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