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一人の起業家で独りの文筆家の「絶望」について

0:「起業」あるいは「夢追い」の絶望

 世界は幾分キラキラしすぎている。そこに、文句を垂れようと思う。もちろん狼ダヌキ個人にとってという注釈が付くが。「そーしゃるねっとわーくさーびす」のせいだろうか、日本人の満たされない尊厳欲求は、インフレを起こしている。オンラインサロン加入だって、リクルートの内定だって、なんならタピオカだって、全部虚構なのに。

 今、夢を語ることは尊いとされている。教養と思慮の深い一部の起業家によって、夢を追うことは実は泥をすするようなものだという認識も広まってきた。いい傾向。大きなリターンには、呼応する対価が求められる。等価交換。覚悟ある者だけが、夢を追い続ける。夢を見るだけだと、しんどい。理想と現実の乖離が不幸であるならば、「夢を見させる」ことは不幸を増やすことに繋がり得る。そういう意味ではSNSも悪くないな。

 一方で夢は、消費されるコンテンツの一つにもなってしまった。自己実現的な純度100%の夢を抱く人はもちろんいる。しかし、一部の覚悟ある者の「夢の果実」を何倍にも希釈した「本当は承認欲求に塗れた夢」の蔓延が目立つようになった。ロジャーズが提唱したイノベーター理論の残酷な側面。教養と想像力がないと、理論はがらんどうな結果しか生み出さない。あるいは、集合的無意識は、そもそも浅はかなのかもしれない。


1:一人に起業家の絶望から独りの文筆家の絶望へ

 狼だぬきのプロフィールには、「日中は起業家」と書いている。たぶん、流行りの起業家界隈の例に漏れず、夢を追うタイプのそれだ。(少なくとも、周囲にそう思われてはいるだろう)しかしこの数日、無気力だ(あるいは数週間か数ヶ月。もっと長いかもしれないが)夢を追うために定期的に補充していた燃料が、ガス欠した。自己実現的なエンスト。アクセルを地面までベタ踏みしても、うんともすんとも言わない。何ならベタ踏みしたくもない。誰にも会いたくないし、何もする気力が起きない。ようやく、文章に書き始めた。原因は不明。だから困る。

 あるいはエンストを受けて、自分なりの補充作業として文章を書き始めたのかもしれない。それもつい数週間前のことだった。無生産で浪費的な日々の中で、文章を書くことである意味で自分を赦してきた。キーボードに文字を打って文をつくり、うまく組み立てて文章へ練り上げ、生命を吹き込み、一つの作品へ昇華させてきた。

 1Kの小部屋で独り、文章を書くことで、自分の中にも小部屋をつくってきた。処理も対処もしきれない欠落を、部屋へと整理した。漠然とした部屋をまずつくり、記事を重ねるごとに自己の中の部屋を少しずつ整理し、分割してきた。人生で初めて、椎名林檎の『罪と罰』にある歌詞「小部屋が孤独を甘やかす」が腑に落ちた。物理的にも、精神的にも、小部屋は孤独を甘やかす。善悪の判断はつけられない。つけたくもない。一般社会通念上は、悪だろうか。わからない。それでも、今は孤独を甘やかすことでしか生きながらえることができない。そういう直感。善悪の判断は、直感に対しても保留。やだなあ、みんな判断を迫るんだ。

 また当然のことだが、世界はたった一人が欠けたところで無傷で動き続ける。「具体的な一人」が「匿名の独り」になったところで、地球は地軸を中心に無機質に回転し続ける。同じく、社会も回る。物理法則は、匿名の孤独となんの相関関係もない。「社会」という一つの生態系でも、匿名の孤独は大した変数ではない。社会の歯車になりたくない、なんて脱サラするのは勧めない。より巨大でどうしようもない歯車の前に打ちひしがられる結末しか待っていないから。無力感を歓迎する物好きでないなら、勧められない。大手商社でのコピーとお茶入れの仕事に自分なりの意味づけをする方が、生の実感は得られる。とにもかくにも、そうして絶望は深まる。


2:しかし、出口は見えない

 「虚無主義」、あるいは「ニヒリズム」という言葉がある。ニーチェが言うには「神は死んだ」ことによって、本質的な価値判断軸が消失した。信じられる共通善なんてものは消え去り(神は死んだし)、二つの選択肢が残った。一つは、絶望の中で疲れ果て、どうせ虚無だからと世界の流れに身を任せる「弱い虚無主義」。もう一つは、本質的な価値がないからこそ、自己定義し虚構をつくり、その虚無を信じ抜き生きる「強い虚無主義」。狼だぬきは、強いニヒリズムで生きている。正確に言うと「強いニヒリズムで生きてきた」。実存に悩まされた末に、使命を見出してエネルギーを傾注させる強きニヒリズムへの到達。時に絶望に明け暮れながらも、「それでも生きるなら、進もう」と自らを鼓舞してきた。あるいは励まされてきた。

 「生きてきた」というくらいだから、この文章を書いている今は強い虚無主義を採用できていない。いまだに原因が特定できないのだが、強さへ回帰することができなってしまった。絶望の果てから、抜け出すことができない感覚がある。自らつくった小部屋が孤独を甘やかしているからだろうか。小部屋から出れる気配や予感が、一向に滲み出てこない。水脈が尽きてしまった泉のように、そこにあるのは「無」だけだ。

 水が乾ききった、からからの穴ぼこだけが心の奥深くで発見された。もう、水は出ないのだろうか。あるいは、小部屋をつくることで自ら水脈を立ってしまったのだろうか。小部屋以前に、永続的な水脈ではなかったのだろうか。そもそも、永続的な水脈なんてなくて、一つの人生の過程を通過しつつあるだけなのだろうか。原因が特定できないせいか、仮説は定まらない。不安定な仮説が前提となり、もっと不明瞭で信用できない仮説ばかりが出来上がる。強い虚無主義であれば、その仮象を信じることで乗り越えるのだろうが、どうも強くなれない。「選択を正解にする」ためのエネルギーすら枯渇してしまったのだ。少なくとも、これまで自分自身の由来とさせていた炭鉱は尽きてしまった感覚がある。


3:絶望の中でこそ、希望の星空を見いだせるらしいが...

 『宇宙兄弟』という漫画がある。宇宙飛行士として日本人最年少でムーンウォーカーとなった南波日々人は、月面の巨大なクレーターに不慮の事故で落下する。酸素残量が底を付きそうで、連絡を誰とも取れないという想像してもし切れない絶望の中で、落下したクレーターから空を見上げる日々人。皮肉にも、これまで見たどんな夜空よりも満天。銀色の大小の様々な光線は、ほんのり死を予感させるほど美しい。日々人はそこから、クレーター脱出に万策を尽くす。

 思うに、美しさはある種の儚さなのだろう。終わりがあるから美しい。刹那的だから重く胸を締め付ける。高校のサッカー部時代に思いを馳せ感傷的になるのは、それが人生の中では刹那的であるからだ。100年間、死ぬまで続く部活動はエモさを与え得ない。

 仮に、自分が一時的に巨大なクレーターの中にいるとする。日々人のように。つまり、絶望の穴ぼこの底に自分がいると仮定する。この絶望も、終わりがあるなら美しいし、永遠であれば美しくない。一時的なものだと思いたいし、できれば美しく処理したい。もちろん極端な比喩ではあるが、復活の兆しや選択肢が見つからない現状を鑑みると、さほどズレてもいない気がする。とにかく、そういう仮定を置く。

 しかし、このクレーターは空を見上げても満天どころか星一つない。絶望の穴ぼこの果てにいれば、希望のある星空が広がるものだとばかり思っていた。実際には、そうは言えない。上を見ても真っ暗だ。見渡す限り、闇。孤独は上下左右へと均質に広がっている。あるいは4次元以上にまで。星のない宇宙に放り出されたような無力感。そこに美しさはない。時に何かとぶつかる感覚はある。とすると、惑星はあるが恒星がないのだろうか。強いエネルギーで光を放つ恒星がなければ、反射によって光る「星」は存在しない。どうやら、今の狼だぬきの周りには恒星なるものがないらしい。一点のか細い光すら見出せない完璧な闇が、それを証明している。日々人が羨ましい。あいつには星空が見える。ブライアンがいる。ブライアンが、恒星なのかな。

 もしくは、本当は星空は広がっているのかもしれない。本当はあるのに、自身がつくりあげた小部屋によって、視界が遮断されているのだけかもしれない。想像していたよりも大きくて、大きすぎて認知できない部屋を拵えてしまったのかもしれない。分厚い壁を何層も立ち上げ、小部屋の周りにまた小部屋をつくったせいで、その外側にある希望を確認できないのかもしれない。そういう仮説も、可能性としてあり得る。本当は恒星も惑星も存在していて、多方面から大小/強弱様々な光が放たれているのかもしれない。それを自ら拒否して、嘆いているだけなのかもしれない。馬鹿みたいだけど、あり得る。


4:星一つない暗闇から抜け出すには

複雑になってきた。整理をすると、今の状況には二つの仮説が考えられる。

仮説1:いま狼だぬきがいるクレーターには恒星が存在せず、希望も完璧に存在していない
仮説2:いま狼だぬきが認識しているクレーターは自ら拵えた小部屋の内側にすぎず、外側には希望が自然に存在している

という仮説。であるならば、それぞれの仮説への対策もまた二つある。

対策1:恒星が存在しないことを受容し、自ら恒星になり希望を生み出す
対策2:自ら作り上げた小部屋を解体か脱出し、外側にある希望を確認する

 書く中でかなり整理されてきた。小部屋をつくる作業も悪くないな。しかし、この解決策は「解決策というタグ」をつけて処理できない。つまり、自ら恒星となり、主体的に人々を照らそうという決断はできないし、小部屋を抜け出して外側で強く生きることもできない。なぜなら、この解決策はどちらも強いニヒリズムを土台とするからだ。今の狼だぬきには、強いニヒリズムの水脈が絶たれている。だから実行できない。実行できない解決策は、物事を解決しない。機能しない解決策は、「策」にすぎない。絵に描いた餅。なんだか、堂々めぐりになってきた。原因がわからない以上、どうしようもないのだろうか。原因と結果がぐちゃぐちゃに絡まっている。この塊を解く糸口は見つからないままだ。ただ、塊を観察して終わっている気がする。どうしようもないのか。そうか、絶望はそもそもどうしようもないものだった。馬鹿みたいだな。無駄なことをしてしまった。打ちひしがられるしか選択肢ないのだろうか。弱い虚無を受容するしかないのだろうか。


5:ほんの、ほんの小さな糸口

 途方にくれる中で一つ、宇宙兄弟のあるシーンを思い出した。新田零次が、流星群が大好きだった引きこもりの弟へ間接的に投げかけたビデオメッセージの一説

 ここまで4000字以上綴った。それでも、かなり省略して4000字だった。なにせ具体的なことを書かない4000字なのだから。

 この4000字分の孤独が、小さな世界へ閉じこもる小部屋づくりが、もし外へ飛び出す原動力であるのならば、実は準備はできているのかもしれない。少なくとも宇宙兄弟の新田はそう言う。しかし、椎名林檎は「小部屋が孤独を甘やかす」と歌った。甘やかした孤独は原動力になるのだろうか。今のところ、そんな気はしない。この矛盾しているように思える二つの言葉が、さらに狼だぬきを混乱させる。何か指針を求めてふと空を見上げるも、やはり星は見えない。完璧な暗闇。完全な絶望。糸口は見えない。出口らしき光はどこにも刺していない。

 やるせなさの中、気づく。星の光も月明かりもないクレーターの中にあっても、絶望の穴ぼこの中でも、自分が「何かを探している」という事実に気づく。もう一度、一滴の水もない水脈の枯れた泉に目をやる。ただの穴ぼこ。直感で場所を選び、あたりをつけて手で土を掘る。その部分が、じんわりと湿る。持ち上げた掌に、泥が残る。

 水脈とは言えないかもしれない。ただ、探すことはできる。まだ枯れていないかもしれない。可能性として。もしくは、枯らさないという選択ができるかもしれない。クレーターの、小部屋の、小さな泉の、ささやかな湿り気を信じられるのであれば。椎名林檎と宇宙兄弟の、一見した矛盾を受容できるのであれば。

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