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ひどく静かな家の中

 午後3時ちょうどの便で、妻と娘が福岡に帰って行った。

 羽田空港は来るたびに少しずつ新しくなっているような気がする。訪れる人に常に新しい印象を残すためにアップデートし続ける必要があるのかもしれない。新しい店、新しい工事、新しいエレベーター。まるで最新であることが善であるかのように。

 空港までの見送りは、とにかくバタバタしている。バタバタしないように早めに空港に到着するバスに乗っているのにも関わらずだ。もしかすると、子連れで移動すること自体がバタバタするものなのかもしれない。そこに落ち着きはないし、自分の時間などという高尚なものは存在しない。常に何かに振り回され、それに対応することを迫られる。その連続だ。

 妻と娘が搭乗する前、地下1階のうどん屋で明太釜玉チーズうどんを妻と分け合って食べた。娘は1人で釜玉うどんを頬張っていた。店員の数がとても多く、客の数と同じくらいに感じた。分業制が進みすぎていてそこにやりがいなどなさそうだった。きっと働いている人たちは無の境地に至っているに違いない。注文を聞き、茹でられた麺を戻し、いくらかのトッピングをし、提供する。そこに何らかのオリジナリティーは存在しない。むしろ、存在してはいけない。クオリティーに直結するからだ。客はいつも同じ味に安心する。

 搭乗前、保安検査場を通る時に、娘は何度もこちらを振り返り、手を振ってくれていた。妻はそんな娘を眩しそうに見つめ、とはいえ何度か急かしていた。娘はリュックサックがうまく背負えず、妻に手伝ってもらってなんとか背負った。それから、距離にして20mくらいだろう、また私に手を振った。背伸びをしているのが遠くから見てもわかった。私も背伸びをして手を振り返す。そんな光景が空港ではあちらこちらで繰り広げられていた。

 帰りのバスでは、当然だけれど1人だった。平日にも関わらず往路のバスは満席に近かったけれど、帰りは半分ほど席が空いていた。飛び立っていく飛行機に妻と娘が乗っていることを想像する。娘は空港の書店で買ってもらった本をさっそく広げているかもしれない。妻はようやく一息ついてうとうとしているかもしれない。そんな飛行機を横目で見ながら、私は利きすぎているバス車内の冷房の風向きを変える。外の景色を呆然と眺めながら、頭の奥のほうに眠気を覚える。

 気づけば、もう自宅がある駅の近くだった。夕方になり、道は混雑している。喉が渇き、ビールか何かを買っておくべきだったと後悔するが、もうすぐバスを降りなければならない。バスの中がそわそわしはじめる。後部座席の方から小さな子どもの泣き声が聞こえる。ああ、娘はもう隣にいないんだということを認識する。娘はもう物理的に手の届かない距離にいる。そのことにふと、手持ち無沙汰を覚える。

 駅近くの駐輪場に停めてあった自転車で帰宅した。自転車の後輪が空気が足りないようだった。娘は自分の自転車にも乗るようになったが、まだ親が運転する自転車にも乗っていた。ちょっとした段差で思ったより大きな衝撃を尻に感じる。妻と娘が不在の間に、自転車屋に行ってメンテナンスをすることにする。

 自宅のドアを開ける。全身が汗をまとっているのを感じる。玄関のライトは自動的に照明をつける。いくらか汗ばんだ感じのするスニーカーを脱ぎ捨てる。玄関には私のスニーカーしかない。ほかの人間の靴は出かけているし、あるいは靴箱にしまわれている。いつもの玄関がいつもより広く感じる。

 窓を開け、換気する。ブラインドを回し、電気をつける。干されていた洗濯物を室内にしまう。私自身のものは少なく、娘の洋服が一番多い。ほかには妻の下着やベッドのシーツなどがあった。冷蔵庫のジャスミン茶でいったん喉を潤し、洗濯物を片付ける。いつもは妻がやってくれていることに、意外と時間がかかることがわかる。一枚一枚畳んでいくと、不在が少しずつ私を押し込んでくる。

 テレビをつけようかとも思ったが、その手を止める。家の中はひどく静かだ。その静けさは数年わが家に訪れたことがないように感じたものだった。外からは車の走行音などは聞こえる。けれど、家の中は決定的に静かだった。私は茶色の革のソファに腰を下ろし、そのまま少しの間、じっとしていた。ありふれた孤独だったけれど、それは私を少し痛めつけた。

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