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分断と区分-分断とは何か-

 「分断」という言葉はここ数年でよく聞くようになった言葉の一つだと思います。「分断」は特に「社会」という言葉と並べられることが多く「社会の分断」という問題提起は頻繁にされます。

 アメリカではバイデン大統領が昨年の大統領就任演説で、アメリカ社会の分断を修復するという内容の発言をしていました。こう聞くと私たちの住んでいる社会は分断されていて、分断された対象同士が対立し合っているという印象を持つかもしれません。

ですが果たして私たちは分断されているのでしょうか。

今回はこの「分断」についての所感になります。

・「社会の分断」の意味

 何気なく「分断」という言葉は使われますが、言葉というのは使用頻度が増すごとに意味合いが変化してくるものですので、時に整理する必要があります。

「分断」という言葉について、デジタル大辞泉で調べると「一つに繋がっているものを分かれ分かれに切り離すこと」とあります。

 すなわち、「社会の分断」というのは社会が二つに分かれてしまったことを意味するのです。だけど、私たちは同じ一つの日本社会に住んでいます。

日本社会が分断して「日本社会a」と「日本社会b」があり、そのどちらかに所属しているわけではありません。ここに「社会の分断」という言葉は大袈裟な表現だということがわかります。

 ですが、社会構成員である個人間における社会的性格の差はあります。そしてその差に基づいて、同一の性格を持つ人による集団が生まれます。

この集団同士の対立は社会の中で存在します。これをメディアは「社会の分断」と呼ぶのです。

 「社会の分断」とは元々一つだったものが分かれたのではなく、一つの社会というステージの上に対立する集団がそれぞれ生まれて「分断」を演出しているのです。

ですがそれは「分断」というよりは単なる「対立構造」に過ぎません。そして、私はこの社会における対立構造は「社会の分断」というよりも「社会の区分」であると思うのです。

・区分は問題の解像度をあげる

 「分断」という言葉は二項対立に依存した表現であると思います。社会をAとBに分けることであらゆる存在を、そのどちらかにあてはめて、ものを考えるのです。これは状況を簡単に理解させますが単純化しすぎて混乱する場合もあります。

 二択のアンケートのようなもので、問いに対する回答が提示される二択にない場合、回答者は自身に近い内容の回答を選択します。ですが、それは無理矢理自身を回答に当てはめた結果です。正確な回答とは言えません。

この強制される二分化(=分断)は事実把握を間違う可能性を含んでいるのです。ゆえに、私は「区分」という表現の方が適切であると思うのです。

 メディアのいう「社会の分断」には当てはまらない存在を区分なら網羅することができるのです。

例えばアメリカにおける「分断」の表現の一つとして、「白人と黒人」という人種問題があります。ここで気になるのは「黄色人種」の存在がないことです。アメリカにおいて白人と黒人の対立は建国当初からあったのは歴史をみれば明らかです。この溝は今に至るまであります。

ですが、この対立構造には黄色人種が抜け落ちています。コロナの影響でアジア系のヘイトクライムがアメリカで発生していることが話題になりました。これは白人・黒人関係なくアジア系(=黄色人種)を攻撃しています。

 このような見落としは「区分」という視点を持てば解消されます。社会や街という環境(ステージ)の中を特徴ごとに分けて考えるのです。

人種であれば「黒人」「白人」「黄人」で分けるのです。そうすることで各集団について理解が進みます。個人は様々なアイデンティティーやペルソナを持っていますから、内容事に区分すれば問題の誤解が少なく、精微にわかります。

二項対立による無理矢理な理解は問題の解消よりも、新たな問題と見落としによる社会の歪みを生むのです。

・私たちはどう区分されるのか

 社会とは個人の連携によって成立しています。ですが、私たちは時に自分の居場所がわからなくなることがあります。「孤独感」や「疎外」の概念はそれを象徴するものだと思います。

私たちは社会において区分されたどこかにいるのですが、それがわからないのです。

 これは自分のアイデンティティーや身体・世代・所属業界(=空間)などの特徴をリストアップしてみるとわかります。Z世代という言葉もありますが、あの区分けは生まれた年齢によるものです。

私たちは相当な努力をしないと、孤独になれない社会にいるのです。ですが、盲目であるがゆえに自分の立ち位置を見失うのです。

 ではどのように私たちは区分されているのでしょうか。これは「法=ルール」「空間=所属機関・国籍など」で見るのが分かりやすいです。「法」は特にわかりやすいものです。

あなたを縛る「法=ルール」を示している機関はどこか。「日本法=日本」「校則=学校」「社則=会社」「契約=契約主体(内容)」どのルールに従っているかは、私たちに自分の広い居場所を教えてくれます。

 ルールの外にいる者は最初からルールを守る主体ではないと区分されます。次にルールを破った者は違反者に区分されます。このようにどの「法=ルール」の制約にあるかは自身を区分するのに適しています。

 空間については言うまでもありません。部屋のドアを閉めた瞬間から空間は区分されます。国境を越えたら自身の所属する空間は区分された別の空間の所属に変わります

 言葉もわかりやすい区分の対象です。日本語を使える人は日本語の集団に所属できますし、英語ができる人は英語の集団に所属できます。言葉も自身の区分を明らかにします。

利用できる言葉が多ければ多いほど、他集団との接触もでき区分された区間を横断できます。

 挙げた例は全て広い範囲を持つ例ですが、環境によってはより狭い区分で共同体(=居場所)を発見できると思います。

自身の持つアイデンティティーを確認して、同じ性質を持つコミュニティを探せば所属は可能であり、孤独になることはないのです。

社会における対立の焦点をあてる「分断」に対して「区分」が対立ではない個人の居場所について焦点をあてています。そして「分断」よりも対立構造について精微な説明を可能にするように思います。

・横断可能な区分/横断不可能な分断

 「分断」の二項対立はそれぞれの集団の凝集性を誇張しています。そこには集団構成員が集団から離脱する可能性を表現として見落としているように感じます。

対立する集団の構成員が意見の変更によって他集団に移動する可能性は実際問題多くあります。人の考えなど移ろいやすいものです。

 凝集性の高い集団は往々にして精神・肉体の双方に作用する内容を持ったものです。例えるなら宗教教団のようなものです。社会的対立においてそこまで自身の政治思想に信心深い人は多くないでしょう。

分断による社会問題解説は基本的に対立を前提として、最も対立している主役を基軸に話すのですが、それが全てではありません。

「分断」の主体となる集団同士は最初から会話が不可能なくらい別世界の人たちなのです。共産主義と資本主義くらい世界観が違います。市場経済に対する彼らの価値観は真逆で話ができません。

共通見解がなければ話は進まないのです。分断とはこの共通見解すらない別世界観の集団においてはじめて言えますが、社会においてそんな極端な集団はごく少数です。

 大体の分断の例としてメディアが挙げる課題において対立している人たちは共通見解が作れるのに作る気がない人、要は会話する気がない人たちなのです。こんなヒステリックな集団が「分断」の主体であり、この対立構造の外部にいる人はこのような集団に「区分」されない普通の存在なのです。

 「区分」というのはこの二項対立の外部性を捉え、問題に熱中する集団以外の集団の認識を捉えることができます。また区分された集団間を横断する存在についても確認できます。

マーケットにおいてこの「区分」にあたる「セグメント」は常識的な概念なのですが、政治・社会で自己主張する集団にはこの観点が欠けています。

「分断」に象徴される二項対立、単純化は問題の本質を捉えられてないのです。

 「区分」は対話不可能な集団だけでなく、それ以外の集団も見ているので対話可能性のある他集団と連携・交流させて、共感による集団範囲の拡大を戦略として考えることができます。要は視野が広いのです。

こういう視点が「分断」を誇張する人には足りてないのかもしれません。それかわざと行って支持者の視野を意図的に限定しているかのどちらかですね。

・終わりに

 政治・社会分野の人の中にはやはり視野が狭く、二項対立による単純化した理解をしたがる人が多いのですが、社会はそんなに単純ではないですし、また複雑化を続けているのが現状です。これも単純化した視点で問題の解決を図ってこなかったからだと言えます。

「分断」ではなく「区分」による自身と社会の理解の方が視野が広く、自身のできることや居場所、アイデンティティーの発見などを助けると思います。そういう試論でした。


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