「再考」中の目標 その11

 先の「つぶやき」と重複しますが、最近、Twitterでいじめに関するアカウントに接する機会が増えてきました。読んでリプしたり等意見交換しながら、子どもは大人を見ているなあと妙に感心しました。大人には会社や家族等で様々なハラスメントや性暴力、DV等の「暴力」が存在していて、それを子どもは感知していていじめという「暴力」をやってもいいと考えているでしょうから。しかも、子どもも大人も関係なく、加害者側は上手く立ち回り何事もなく楽しく毎日を過ごすのに、被害者側は精神的に立ち直れないほどの傷を負ってしまい、しかも社会や世間等の被害者有責論により過大な責任を背負わされてしまうのです。
 本来は逆のはずですが、現実はそんな状況です。でも、私は「暴力」はいかなる理由や事情があれど許すことはありませんし、被害者には何も責任はないと考えています。ただ、そういう現実を少しでも減らすためには何をすればいいかを考えてみたいのです。
 そこで唐突ですが、保育のことが思い浮かびました。私は現在、保育士登録申請中です。もし、保育士として支援業務をした場合、「暴力」に相当する場面に遭ったらどうするか。被害児がいるわけですから、子どもだからと言って加害児を許すわけにはいきません。そこで「暴力は否定するが人格は尊重する」という加害者臨床の考えを応用すると、加害児に対しては「暴力」そのものはいけないけれど、それ以外は尊重し「暴力」によらない別の望ましい言動を一緒に考えていくという対応になるでしょう。加害児の保護者にもそのような説明をしていく方向になると思います。
 現役の保育士や保育経験者の方々の中には何を言っているのかと批判したくなる人が一定数いることを否定はしません。保育未経験の私が書いているのですから。ただ、子どもは大人を見て育ちますので、大人がハラスメントや性暴力等の「暴力」を容認していれば、子どももそうするでしょう。また、被害を受けた子どものトラウマを考慮すれば、「暴力」を保育という早期の段階で防ぐことは最重要課題の1つになるのではないでしょうか。
 繰り返しますが、私は保育士登録中の身であり保育未経験です。ですので、保育現場のことはよく分かりません。でも、子どものいじめや大人のハラスメントや性暴力等の「暴力」を見ていると、そういう事態が保育にまで及んでしまうのではと懸念しています。だからこそ、保育という早期の段階で防いでいきたいと考えるのです。そのためには、大人が率先して「暴力」を少しでも失くしていく必要もあります。
 いじめやハラスメント、性暴力等の「暴力」は本質的にはつながっています。それはいずれも力関係の問題だからです。それは力ある立場としての加害者と力ない立場としての被害者による対等ではない(非対称的な)関係です。だとすれば、力ある立場が責を負うことが理にかなっているはずです。保育士として業務をするならば、そのことを常に念頭に置いた言動を心掛けたいと考えています。
 いつものことですが理屈っぽい書き方になってしまいました。ただただ、ここまで読んでいただいた方に深く感謝申し上げます。


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