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知恵の輪が歪んでいる

自作の自由律俳句を表題に短編を書く。
七作目。約2400字。

「知恵の輪が歪んでいる」





目が覚めた。
開けっぱなしのカーテンの外は真っ暗で、手探りで掴んだ目覚まし時計の針は寝入る前に確認した時間から三十分しか進んでいない。
進まない時計に怒りが込み上げてくる。身体を起こし、渾身の力でその憎らしい物体を握りしめてみても、秒針が無神経な音をたて続けるだけだ。
カチ、カチ、カチ、電池が切れるまで途切れることなく続く一秒の連続、その音に身体の力が抜けていく。一緒に抜けていく憎悪の、その力を吸い取ったのは絶望感。


枕元に手を伸ばして電気スタンドのスイッチを入れる。ボウ、とオレンジの光が狭い範囲を円形に照らしだす。煙草を取り出してマッチで火をつけるその指先が、情けないほど震えていることに気がついて、煙草を咥えた唇が歪む。マッチ独特のきな臭い匂いと共におもいきり煙を吸い込んで、はぁーと声に出して白を吐きだす。閉め切った部屋の空気に白い煙が淀んだ層を作りだし、ゆっくりと消えていく。吐きだすたびに空中に浮かぶ複雑な模様を努めてぼんやりと眺める。


煙草を吸い終えてしまうと、もう、どう頑張ってもぼんやりはできない。震えが治まっていない指先は、更に汗で湿り始めている。震えも汗も放置して、ipodを探し、ヘッドホンをつける。もう眠れなくていい。
自分の膝を抱き抱えた姿勢で目を閉じて、朝まで音の海を漂った。

近頃、うまく眠れない。ベッドに横になったまま細切れの睡眠を繰り返すうちに朝が来てしまう。昼間は眠い。一日中身体がだるく、頭痛がする。
食欲がなくなり5kg瘦せた。それを喜んでいられた頃は、まだ余裕があった。
朝、意識はあるのに起き上がれず、大学へ行けない日が増えた。それまで一度も講義をサボったことなどなかった真面目で小心者の私にとって、それは異常事態だった。それでも、『ちょっと調子が悪いだけ、きっとすぐ元に戻る』と自分に言い聞かせ、不安に蓋をした。自分の身に何が起きているのか、怖くて直視できなかった。そうやって数ヶ月をやり過ごしたけれど、『調子』は良くなるどころか悪化し続けた。
バイトでも遅刻や欠勤を繰り返すようになって、自己嫌悪で毎日泣いた。ある日、泣きながら「消えたい」という言葉が自分の口からこぼれて、ぎょっとした。もう、蓋なんて粉々だった。

自分の弱みを見せられる相手がいなかった私は、インターネットの質問サイトに自分の状態を書き込んだ。
何人かが返信をくれた。

『それは病気です。病院へ行ってください。』

『ストレス発散すれば??』

『ちゃんと起きようと思ってる?気持ちの問題じゃない?』

『精神科へ行きましょう』

画面に並んだ文字を眺める。『病院』『精神科』の言葉に、呼吸が浅くなるのを感じた。本当は、うっすらわかっていた。でも怖くて、大丈夫だと思いたかった。しかしどうやら私は、大丈夫ではないらしい。

大学に近いという理由で選んだ心療内科は、美容室や雑貨店が入っているビルの3階にあった。受付の女性は金髪で、濃いアイメイクに見つめられて不安に拍車がかかる。緊張で震える声で予約した自分の名前を告げて、待合室のソファに座った。

待合室には私一人だった。雑誌が並んでいるラックがあったけれど手を伸ばす気にはなれず、うつむいて、膝の上でぎゅっと握った自分のこぶしをただ眺めていた。どうしようもなく一人ぼっちだった。これから、初対面の医者に自分の異常事態について話さなくてはならない。うまく説明できるだろうか。逃げ出したくなるが、もう後戻りは出来ない。

どんどん浅くなる呼吸を整えようとして深呼吸を繰り返していると、診察室の扉が開いた。うな垂れた中年男性と、彼に寄り添う奥さんらしき女性が出てくる。
「忙しすぎたのよ。しばらく会社を休みましょう。大丈夫、きっと大丈夫だから。」
女性が声をかける言葉が、否応なく耳に飛び込んでくる。男性が力なくそれに頷く気配がする。
「大丈夫じゃないです、あなたのこと知らないけど、私たち、大丈夫なんかじゃないです」と心の中で呟いたところで、私の名前が呼ばれた。


診察室は作り付けのカウンターで区切られていて、そのカウンターの向こうに白衣の男性医師が座っていた。患者用の椅子に腰掛けて、促されるままに自分の身に起きていることを話す。
眠れないこと、食欲がないこと、学校やアルバイトに行けない日があること、消えてしまいたいと思うこと。


カウンターのせいで胸から上しか見えない初対面のおじさんに向かって、私の内面の、本来一番触れられたくないところを自ら開示する。私は何故かずっと半笑いだった。
無言で聞いていた医者が、私の言葉が途切れたところで口を開いた。

「では、うつ病の症状が出ているということですね?」

なんだそれ。それは私が決めることなのか。
思ったが、私はやっぱり半笑いで、そうなんですかねぇと返事をした。


結局私はうつ病と診断され、気長にいきましょうということになった。
待合室に戻り、さっきと同じソファに座る。なんだか頭がふわふわして、思考は完全に止まっていた。ぼんやり雑誌のラックを眺めていると、端の方に何かが置いてあるのに気がついた。なんとなく手にとったそれは知恵の輪だった。誰かの忘れ物かな、と思いながら触ってみる。よく見ると、それは無理やり外そうとしたような形で歪んでいた。
歪んだ丸みを、人差し指でなぞる。こんなに固い金属の形を変えるには、一体どれくらいの力が要るのだろう。


不意に、知恵の輪を必死に解こうとして、解けなくて、怒りと憤りのあまり変形するほど力を込めて引っ張った誰かの気持ちが、私の身体の中に流れ込んできた。
きっとその人も、一人ぼっちだ。待合室の不安を紛らわせるための知恵の輪に感情をかき乱されて、悔しくて、悲しかったんだろう。
変形してしまったそれを、そのまま置き去りにするくらい。

涙が出そうになった瞬間、受付で私の名前が呼ばれた。とっさに知恵の輪をポケットに滑り込ませ、金髪の受付嬢に診察費を支払い、処方箋を受け取る。無感情な「お大事に」を背に受けて、外に出た。
やっぱり一人ぼっちな私に向かって風が吹く。ポケットの中の知恵の輪がカチリと音を立てた。



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