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目前のことに集中する 【貝塚茂樹著『孔子』(岩波新書)に学ぶ】

孔子が十五歳で初めて学問に志した西紀前五三八年から、かれが三十歳になってようやく学問で一家をなしだした西紀前五二三年に至る、かれの思想の形成期は、中国の政治史あるいは思想史の上ではいかなる時代にぞくするであろうか。ちょうどかれが三十一歳に達した西紀前五二二年に、中原のてい国で賢人として名高い宰相の子産が死んでいる。このことはかれの修養の完成期を表徴する意義深い事件であるように思われる。(中略)
子産によって代表せられた賢人政治の時代は、中国において初めて合理主義が目覚めた時代であり、精神史的には一つの啓蒙主義の時代であった。孔子においてこの啓蒙主義はどんなふうに承けつがれたであろうか。
まず宗教にたいする孔子の態度を見よう。孔子は弟子の樊遲はんちから知とは何ぞと問われて、
民の義を務め、鬼神を敬して遠ざかる、知というべし(雍也篇)
と答えている。祭政一致の都市国家において、本来は民を治める政治と、神を祭る祭祀とは分化していなかった。孔子は民を統治する政治の方をば重要視して、神を祭る祭祀は、神を尊敬して祭ることは丁寧に祭るが、神の意志をきいて政治をする殷王朝以来の神政政治をば排斥したのである。宗教と政治との分化がここではっきりと意識されている。都市国家の伝統であった祭政一致が崩壊して、宗教からの政治の独立がここに確立されかけているのであった。そして、この政治と宗教との分離を認識することが知だというのであるから、知自体もまた宗教から解放されていなければならぬ。

『孔子』貝塚茂樹著(岩波新書)

歴史を学んでいると、庶民が怪しい風説やデマゴーグに踊らされて内乱や暴動を起こしてきたことを何度も知ることになります。
中国も例外ではなく、道教などのからんだ農民反乱が王朝を崩壊させた例も少なくありません。三国志でも、魏の曹操が黄巾の乱を鎮圧するところから建国に到ったことが記されています。黄巾の乱は道教系の宗教結社がおこしたものでした。
「鬼神を敬して遠ざかる」という孔子の姿勢は、秩序と規律を保つ為政者として賢明なものと言えるでしょう。
あからさまに否定してしまえば、それを信じている人々の怒りを買い敵対することになるので、崇敬の態度を保ちつつ、少し距離をおく姿勢を貫くのです。為政者は人心掌握するためにも、このような合理性と知性が求められます。

孔子は弟子の子路(季路)から鬼神につかえる心得を問われると、
いまだよく人につかうるあたわず、いずくんぞよくに事えん。(先進篇)
と、「生きている人間につかえることができないのに、どうして死んだ祖先の神につかえることができようか」と返事した。子路が
あえて死を問う。
と、「それならば、生と死とが問題だとすると、いったい死とは何でしょうか」と反問すると、孔子は、
いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん。
と、「生すらわからないのに、死のことがわかるはずがないよ」と答えたといわれる。

『孔子』貝塚茂樹著(岩波新書)

死後の世界や来世など、浮世離れしたことは一切口にしたり考えたりせず、今生を全力で送るという態度を終生貫きました。

がんらい子路は孔子の門下のなかでも、武勇をもって知られた男であって、とかく血気にはやる傾向があった。しかし求道心が熾烈なことは、子路に及ぶものがなかった。とくに孔子から教えられた訓戒は必ず言葉どおり実行しようとしたので、
子路聞けることあり、いまだ行うことあたわざるときは、ただ聞くあらんことを恐る。(公治長篇)
といったように、夫子から聞いた徳を行わないうちに、また別の徳を聞かされることを恐れて耳にふたをしたといわれる。このような熱烈な使徒であった子路は、いちずに高い理想に直進して、足下の現実を忘れる欠点があった。孔子は一日、子路に、
ゆう(子路)よ、汝に知をおしえんか。知れるを知るとなし、知らざるを知らずとせよ。これ知るなり。(為政篇)
と教えた。知ということは何であるか。知とは知を知として、不知を不知とすることである、可知と不可知とを分別することであると語った。孔子は子路の浪漫的な心情から、空疎な理論に走るのを戒めてかくいったのである。

『孔子』貝塚茂樹著(岩波新書)

人は未来に対する漠然とした不安などから、目の前のことに集中できなくなったり、やる気が失せてしまったりしがちです。
特に年齢を重ねると、それまでの経験から、ますますそのような傾向が強まってしまうものです。
しかし、そのような態度は「今を一生懸命に生きる」ということとは真逆な生き様と言えるでしょう。

孟子曰く、
仁は人の心なり。義は人の路なり。
其の路をててらず、
其の心を放ちて求むることを知らず。哀しいかな。
人は鶏犬の放たるること有らば、
即ち之を求むることを知る。
心を放つこと有りて、而も求むることを知らず。
学問の道は他無し。その放心を求むるのみ。

【現代語訳】
孟子は言う。
仁は人が本来持っている心である。義は人の行うべき正しい道である。
(ところが今の人々は)その正しい道を捨てて従わず、その心を放ち失っても、その心を探し求めることを知らない。悲しいことだ。
人は飼っている鶏や犬が逃げ出すようなことがあれば、すぐにその逃げた鶏や犬を求めることを知っている。
(しかし)本来の正しき心を放ち失っても、それを探し求めることを知らない。
学問の道というのは他でもない。その放ち失った本来の心を探し求めるだけのことである。

『孟子』告子上篇

将来のことが不安なため、目前のことに手がつかないような時、この孟子の言葉に触れると、本来の自分を取り戻すことができるでしょう。

孔子が貫いた現実主義の態度は、ソクラテスの「無知の知」という思惟構造と似ているところがあります。
ソクラテスも可知と不可知を峻別し、目前のやるべきことに全力を傾けていたと言われています。
ソクラテスは賢者としての評判が広まったことから、皆から意見を聞かれることが多くなったようですが、「未来はこうなる」などと言う人心を混乱に陥れるようなことは口にしなかったそうです。それでも、ソクラテスは若者たちの心を惑わしたという罪に問われ、裁判によって死刑を言い渡されます。彼が「無知の知」という結論に至るまでに行った問答によって、無知であることを指摘された人々などから恨みを買ってしまったからです。
ソクラテスに同情して牢番なども彼がいつでも逃げられるように鍵を開けていたそうですが、彼はそれを拒否しました。自身が持っていた知へのフィロソフィアと「単に生きるのではなく、善く生きる」という姿勢を貫き、票決に背いて亡命するという不正な道ではなく、甘んじて毒杯を飲む道を選びました。

孔子やソクラテスのように、常に冷静な心持ちで現実的・合理的な生涯を送るということは並大抵のことではありません。
只今のことに全身全霊を傾けて集中して生きるということが求められるからです。

至人の心を用ふるは鏡のごとし。
おくらず、むかえず、
応じてしかしておさめず

『荘子』応帝王篇

これが出来ている人こそが、真に知性のある賢者であり、大きなものを得ている覚者と言えるでしょう。
自分がいつそのような人物になれるのか分かりませんが、学問の道を志したものとして、修養の日々を続けています。

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