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「部分の集合」=「全体」ではない 【英文解釈で陥りやすい欠点とは】

中学受験に向けて算数を指導している時、子供たちに注意していることは、「細かい部分ばかりに気をとられるのではなく、全体を見なさい」ということです。
「算数=数的処理」と思っている生徒は、図形問題を見ても、そのクセが抜けず、問題に出てくる数字に着目してしまうため、図形の認識が欠落し、数の計算で終始してしまうことが多いです。
これは、図形を俯瞰で捉えることができないことが原因なのですが、一部分を細かく分析することを好む理系の人たちの特徴と言えるかもしれません。
細かく分析していくことは、非常に面白いものなので、その世界から抜け出すことができなくなってしまうのでしょう。

『思考の整理学』をはじめとする優れたエッセーで知られている英文学者の外山とやま滋比古しげひこさんは、「分析は破壊である」という言葉を残しています。
全体性の把握は、部分の集合体ではありません。
細かい「部分」をいくら集めたとしても「全体」にはならないのです。
英文解釈をする時、単語と文法にこだわることから、全体の主旨を気にしない受験生が大勢います。
英文の文脈contextを無視し、自己満足的な文法解析で終わっているのです。これでは単なる文法マニアと言われても仕方ないでしょう。

わたしが指摘したいのは、英文解釈という仕事を、原文の一語一句に何とかcorrespondする日本語の一語一句を見つけて来て、それを機械的に一見日本語らしくならべかえれば、それで終わりなのだ、と考えたがる傾向なのである。
要は原文の全体が何を言おうとしているかなのであって、全体が何のことやらわからない訳文を苦労してデッチ上げて見ても何にもならない。

朱牟田夏雄著『英文をいかに読むか』(研究社)P.17

60年以上前に朱牟田さんによって指摘されている状況が、現在にも当てはまってしまうことに驚かされます。
高校生になっても、単語集で覚えた訳を何の考えもなしにあてはめて、英文和訳をしたつもりになっている生徒が何と多いことか。
「ただ単語の意味を当てはめていても、英文解釈にはならない」と指導しても理解することができないのです。
これは学校での指導が、この作業で終わっていることが原因なのかもしれません。
文脈contextによって、その場にふさわしい日本語を考えるように指導していないことの表れなのでしょう。
英文を解釈する際、日頃から、文全体の思考性や哲学性を考慮していないことが、このような状況を生み出しているのです。
とりわけ文学によって英語を学んだ教師に、この傾向が見受けられるような気がします。英文の中で、主人公や作者の主観的心情ばかりに注目し、文全体が伝えようとしている思想性や哲学性にまで考えが及んでいないのでしょう。
自分の経験では、小説を好む生徒は、哲学を好まない傾向があります。
どうしても嫌いなことはやりたくないのが常なので、文学を題材として英語を学んできた人は、どうしても思想性や哲学性を培うような場面に余り遭遇してこなかったのでしょう。
それだけに、意識して積極的に英文の中にある思想性や哲学性に目を向けるようにしていく必要があるのです。

英文の全体性を把握するためには、著者の理念や思想性、哲学性にcommitすることが求められます。
著者の思想性や哲学性が、文脈contextを形成しているからです。
日本で未だに続いている「細部にこだわる英文解釈」から脱却することこそが、英語上達の早道であることを自覚すべきなのかもしれません。

「木を見て森を見ず」
これは英文解釈にもあてはまる箴言なのです。




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