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後継者にふさわしい人物とは 【マキャヴェッリ著『君主論』に学ぶ】

ローマ皇帝コンモドゥスは、強欲で残虐な人物として知られていました。
映画「グラディエーター」では、彼の時代が描かれていましたので、その暴虐ぶりをすぐに想像できる方も少なくないでしょう。
『君主論』の著者マキアヴェッリは、その第19章の「軽蔑と憎悪をさけるべきである」という部分で、彼のことを取り上げています。

彼はマルクスの息子であったため、相続権によって帝位を獲得したので、それを守るのも極めて容易であった。
父の足跡を辿り、兵士と民衆を満足させるだけで十分であった。
しかし、残酷で野獣のような人間であったので、民衆に対して強欲ぶりを発揮しようとして兵士の歓心をかい、彼等を放縦にした。
他面、自らの尊厳を保つことなく、しばしば闘技場に降りていって剣闘士と闘ったりし、その他極めて品の悪いことや皇帝の地位にふさわしくない行ないだったので、兵士の目にも軽蔑すべき存在と映るようになった。
一方では憎まれ、他方では軽蔑され、陰謀が企てられて、彼は殺されたのであった。

『マキアヴェッリと「君主論」』佐々木 毅著(講談社学術文庫)

コンモドゥスの父親は、ローマの五賢帝の一人でもあるマルクス・アウレリウス・アントニウスです。
彼はストア派の哲学者としても有名で、彼の残した『自省録』は今でも世界中で愛されている名著です。
彼の行っていた政治は、まさにプラトンが理想とした「哲人政治」そのものと言えるでしょう。
なぜ、このような名君が、コンモドゥスのような人物を後継者としたのでしょうか。
このような一見不思議とも思える世継ぎは、洋の東西を問わず、幾度となく行われてきました。
日本の江戸時代、八代将軍徳川吉宗の場合を見てみましょう。
吉宗には、4人の息子がいましたが、後継者には長男の家重を選びました。
家重は暗愚で病弱であったため、周囲からは将軍に相応しくないと思われていましたが、結局、後継者となりました。
次男の田安宗武は学問にも武芸にも秀でており、臣下の信望も篤く、誰が見ても、彼こそが将軍に相応しく、名君になれる器に違いないと思わせるだけの人物でしたが、吉宗は宗武を選びませんでした。
それどころか、臣下の位におとして奥州白河藩の藩主としてしまいます。
このような措置には、吉宗の深謀遠慮がありました。
そもそも、「学問に秀でる」とか「武芸に秀でる」といった判断は、極めて相対的で曖昧なものです。
誰かしらが「すごい」「すばらしい」と言った評価が、噂となって拡がり、それがその人物の評として定着する場合が多く、誰もが納得できるものとは言い難いものです。
このような基準で後継者を選んでしまうと、必ずと言って良いほど、お家騒動が起きます。
臣下が次々に自分が推薦する人物の優秀さをアピールし、それが跡継ぎ争いとなってしまうのです。
吉宗が行った後継者指名の方法=「長男を後継者とする」は、後継者争いの可能性を完全に断ち切ったものです。
生まれ順というのは覆らないものだからです。
このような「長男」という絶対基準であれば、誰も反対できないため、後継者を誰にするか迷うことがなくなるのです。
統治していくためには、「内乱をさけること」と「外敵の侵入を防ぐこと」が大事な要素となりますが、吉宗は内乱が起きないようにするために、このような基準を示しました。

ローマ時代、皇帝は優秀な部下を養子とし、その養子を後継者とするという伝統がありました。
しかし、後継者争いが何度も起きてしまい、自国民たちが互いに闘うという事態に何度も陥っていました。
マルクス・アウレリウス・アントニウスは、これを避けるために、唯一の実子であるコンモドゥスを後継者にしたのかもしれません。
マルクスは夫婦仲もよかったので、多くの子供に恵まれました。しかし、そのほとんどが病死してしまい、生き残った男子はコンモドゥスだけでした。
そのような選択肢が無い中での決断だったこともあり、「内乱をさける」という意味では、その選択は成功だったのですが、ローマの栄光をより輝かせるためには、まったく不十分なものでした。
作家の塩野七生さんは著書『ローマ人の物語』の中で、この時代のことを「終わりの始まり」と言っています。

後継者問題というものは、いつの時代でも、為政者など組織の長を悩ます難問です。
現代の会社組織においても、それは同じでしょう。
しかし、歴史が教えてくれる教訓として、一つだけ確かなことは、「能力を評価基準として後継者を選ぶことは争いを招く」と言うことです。
皇帝や将軍などのように、実子や長男を後継者にできる場合は、それほど考えなくてもよいのですが、現代の会社経営においては、頭の良さや学歴などといった能力以外に、何を基準にすればよいのでしょうか。
ここで参考にすべきは、孔子が唱えた「徳のある統治者がその持ち前の徳をもって人民を治めるべきである」という統治論=「徳治政治」なのかもしれません。
今風に言えば、「篤実で手堅い人物」による経営や政治というものが、結局は一番うまくいくということです。
そのような人物であれば、自分の判断を過信することなく、周りの人たちの意見に耳を傾け、自分だけでは何もできないことを痛感しているので、人を活かすやり方を率先して採り入れ、とても風通しのよい、働きがいのある会社を作り上げていけるでしょう。

徳治政治を目指し、それが古くから行われてきたのは、日本と言えるのかもしれません。
六国史の中でも、天皇が真摯に国民の幸せを願い、自らの徳が至らなかったことで災いが起きてしまったことを嘆かれている様子が幾度となく描かれています。
古事記や日本書紀といった国史を読むことで、このような良き見本となる例を学ぶことができる幸せを静かに噛みしめています。



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