見出し画像

私たちは不自由の選択をする

記念すべき令和元日はキャンプをしていた。

昨今のキャンプブームで

キャンプ場は大賑わい。

私たちはわりと早めの予約をしていたので

ゆったりとできるサイトを貸切にできた。

キャンプは「不自由」を楽しむものだと思う。

何もない野原にペグを打ち

テントを建てる

薪を割って

火を起こす

焚き火をして

暖を取る。

当たり前にある生活を

1から作っていく。

自分たちで作っていくからこそ

面白い。

キャンプは「不便さ」や

制限のある「不自由さ」を楽しむ。

では、自由とは何だろう?

私は、『自由』とは

''自分で終わりが決められること''だと思う。

連休中のキャンプ場は

所狭しとテントが張られる。

その光景を「難民キャンプのようだ」と

揶揄する人もいる。

「隣の家族と肩を並べてのテント生活」

という点で言えば同じようなものかもしれない。

先進国の人々はこぞって不便なキャンプを楽しみ



途上国の人々は難民キャンプから脱出したいと心から願う。


私たちがキャンプを楽しめるのは「自由」があるからだ。

好きな時におわりに出来る「自由」がある。

もし、「このキャンプに終わりは来るかわからない」と言われたら

ちょっと待ってよ..家に帰らせて...(涙)

となるだろう。

もっと言えば、

人間には絶対的な自由がある。

''自分で終わりが決められる動物''であるからだ。

「自由」とは''自分で終わりが決められること''だと思う。

先進国では約6割の人が「不自由さ」を感じるとされている。

この6割の人々は難民キャンプにいるわけではない。

私たちが感じている「不自由さ」とは、

「自由」があるからこそ感じれるものなのかもしれない。

もっと言うと、

先進国の人々がするキャンプと同じように

その「不自由さ」を自ら選択しているのかもしれない。

ならば、私たちはより「自由であること」を

意識するべきではないだろうか。

私たちの「不自由さ」は

自分でおわりにできると思う。

私たちは「自由」だから。

★ブログ
全開の私を生きる♡~変態と呼ばれてもいいじゃない♪

この記事が参加している募集

noteでよかったこと

こんな私をサポートするなんて、そんな変態な人がいるのですかっ?!