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弔電を打ちながら

矢印にみちびかれゆく夜のみち死んだ友とのおかしなゲーム

これは、「かばん」の大先輩である杉崎恒夫さんの短歌。
今は彼自身も鬼籍に入っている。

8/13(木)の朝早く、秋田の父方の祖母が他界した。
正確には5時6分だったらしい。
満97歳、数えで98歳だった。

助産師として長年病院に勤め、退職してからも風邪ひとつひかず、自宅で祖父を看取ってからも15年一人暮らしを続けた。

秋田のおばあちゃんと聞いて浮かべるイメージとは、ちょっと違うかもしれない。

白髪をこまめに染めてきれいなダークブラウンに保っていたし、いつもおしゃれだった。
弱った両目を手術して眼球にレンズを入れ、「もう、あんたたちみたいにやったり取ったりしなくていいの。」と微笑んでいた。
結構ドライな性格で、余計なものを持ちたがらず、子どもたちのアルバムを作って送ったりすると、「ありがとう。でももう次からは要らないから」などと言うのだった。

それでも、本当にお世話になった。
何しろ生まれたときから両親が家を建てるまで共に暮らしたし、習い事の帰りには姉と共に祖母宅に寄って夕食をとって帰るのが常だった。
中でも親子丼と卵スープのセットが忘れられない。

うちの子たちを含め、曾孫は12人。弥栄である。
この数年帰省していなかったので、息子を会わせることができずじまいなのがなんとも心残り。

ずいぶん前からいろいろ覚悟して、自分の葬儀のことについてもあれこれ希望を伝えてあったそうだ。
それに従って、会食などはせず、15(土)の火葬の後は秋田の親族だけで簡単なお別れ会をする運びらしい。

両親の意向も確認し、やはり新型コロナを懸念して、わたしは帰省を断念することとなった。
祖母の葬儀に行けないなどとは、よもや思いもしなかった。
変な話、あと1年早ければ、参列できたのだ。

とりいそぎ、弔電を打った。
以前の職場で、業務として100回以上打ってきた電報。その経験を活かせることが悲しかった。
今はネットでも送れるけれど、土曜の葬儀に間に合う時間帯を選択できず、確実性を得るため電話にした。

定型の文例を使うのは絶対に嫌だったので「自分の言葉で……」とは言ったものの、頭が真っ白になった。
「ごめんなさい、文面考えておけばよかったんですが……とにかく急いでて……」としどろもどろになっていると、オペレーターさんが「大丈夫ですよ、ゆっくりで」と言ってくれて救われた。

電報の本文を伝えながら(結局よくある簡素な文面になってしまった)、ようやく悲しみが質感をもって押し寄せてきた。

弔電を打ち、少し気が抜けて、夫の焼いてくれたパンケーキをファンシーに飾りつけて食べた。
杉崎さんの短歌を何度も思いだしながら午後を過ごした。
いつでも鮮やかなまま思い出を取りだせる人については、生と死に実はそんなに大きな隔たりはなく、地続きなのかもしれないな、などと考えていた。

人生の終わりに食べるパンケーキほどのかたさのソファありますか    柴田瞳

生きているうちに第二歌集を出すために使わせていただきます。