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◆掌編小説.《親父がイタリア人に見える時》


――ナポリタン!

 言ってから、はっと慌てて口に手を当て、辺りをきょろきょろと窺った。

 帰国してきたときにはもうすでに、親父はイタリア人になっていたのではなかろうか――?
 店の棚の整理をしていたとき、そんな、あまりに突拍子もない疑問がふいに沸いてきたので、俺はたまらず叫んでいたのだ。

 もちろん俺の勤めている古本屋でも、一般の本屋と同じように、店員はレジ内と休憩室以外では「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」「少々お待ちください」の三言の他は決して口にしてはいけない決まりになっている。この鉄則を守らないと重いペナルティを科せられるのだから、新人店員などは、どの仕事よりもまず自分の口の自由を機械のように制御することを必死になって覚えるのだ。

 それほど厳しく叩き込まれた古本屋の規則を、うっかり破ってしまうほど、俺の疑問は破壊的だった。

 幸い、その日は客入りもまばらだったし、この周囲にも人の気配はないので、俺の叫びが他人に聞かれることはなかっただろう。

 額に吹き出た冷や汗を袖でぬぐうと、俺は本の充填と棚の整理の作業を再開した。

――前々から何か変だと思っていたのだ。

 オリーブ・オイルを見た途端に上機嫌になったかと思えば、トマトケチャップを妙に気にかける親父――以前はほとんど和食しか食べなかった親父が、どういった風の吹き回しか。外国に行って、とたんに西洋かぶれにでもなったのか? それだけではない。最近、風呂上りの親父が、自分の全裸を鏡に映し、ちょっとポーズなどとっているのを良く見かけるが、あのポーズは確か、イタリアの芸術家ミケランジェロ――今整理している本にミケランジェロがあるから間違えない――その代表作「ダヴィデ像」にそっくりではなかったか――?

 そして、今朝のナポリタンだ。

 あれほどあからさまなのに、何故気がつかなかったのか。いや「親父にかぎってそんなことは」などと、自分でわざと気づこうとしなかったのではないか。自分にそんな甘さはなかったか。

 今ごろ自宅では、家族全員が碧眼になって肩を組み、陽気に歌など歌って、ボーノボーノと叫びながらピッツァをワインで流し込んでいる――そんな場面を想像し、俺はひとつ嫌な身震いをした。

「お仕事中、すいません。ちょっとお聞きしたいことがあるのですが――」

 誰かがふいに話しかけてきたので、思わず「はい?」と返事をしそうになったが、すんでのところで言葉を飲み込み、代わりに「いらっしゃいませー」と口にした。見ると、ラフな格好の中年男性二人組が立っていた。

「ああ、すいません。突然お声をかけるのはマナー違反ですね。私どもはこういうものです」

 黒革の手帳。じゃあこいつら――、古本屋本部に属してる店舗内警察か。それにしても私服ってのは、ちょっと穏やかじゃない。

「ちょっとある人物を探していましてね。今われわれが担当している事件の重要参考人なんですよ。ご協力願いますか。あ、何なら休憩室で話をしましょうか。『はい』なら『いらっしゃいませ』と、『いやです』なら『ありがとうございました』とおっしゃってください」

「いらっしゃいませ」
「じゃあ、休憩室に移りましょうか」

 古本屋警察たちと一緒に休憩室に入ると、彼はさっそく質問を始めた。
 どうもまたこの迷宮のように途方もなく巨大で入り組んだ店内のどこかに、無許可の古本屋内店舗を開いていた人物がいるらしい。
 今度の違反古本屋内店舗は、店員の誰かが協力者となって転売で荒稼ぎをしていたのだそうだ。
 違反店舗の店主はすでに捕らえたらしいが、店内警察が知りたいのは、その内通者の心当たりであった。

 俺にその心当たりはなかったが、尋問中、ずっと家のことが気になって仕方がなく、刑事さんの質問に答えるときも、生返事と問い返しばかりになってしまった。そのため、相手からずいぶん胡散臭い目で見られてしまったのはちょっと失敗だったが、今の俺はそんなこと気にしている余裕はなかったのだ。

 俺は刑事さんが店内に戻るとすぐに休憩室に置いてある電話に飛びつき、家の番号にかけた。

「もしもし親父?」
『ボンジョルノ』
 勢い良く受話器を置いた。イタリア語。――手遅れだ! 今頃、母も、妹も、日本人ではいれなくなっていることだろう。何でこんなことに……。

 俺は店内の、俺の持ち場に戻り、仕事を再開した。仕事中は、いかなることが起きようと、早退することは許されない。それが例え家族の危機であろうとだ。それが何よりも優先される当店の鋼鉄の規律なのだ。

 もう家には帰れないだろう。帰ったところで、俺の居場所はない。言葉さえも通じないのだ。

 いっそのこと、この広大な店内のどこかに住み着いてしまおうか。店員が店内に居を構えることは、それほど珍しいことではない。店のどこか、もう忘れ去られて誰も足を踏み入れなくなった寂れた一角にテントを張って……いっそのこと、今問題になっている、古本屋内店舗のテンバイヤーとの内通で生計をたて暮らしていくというのはどうだろう。

 そんなことを考えながら作業を続けていたら、店内のどこかから男たちの怒号と女の悲鳴が聞こえてきた。どうやら、捕り物があったらしい。
 作業する手を一旦とめ、音のあったほうの本棚の区画のほうを覗いてみると、先ほどの刑事二人組みが、店員を一人取り押さえていた。

 俺は危うく叫び声をあげそうになった。捕らえられていたのは、俺が密かに思いを寄せている、同期入社の女の子だったのだ。

 彼女は古本屋警察に連行されながら「少々お待ちください! 少々お待ちください!」と悲痛な声をあげている。ああ、犯罪者の末路――なんということだろう。悲しいことだが、彼女はこのあとこの区画の店長によって、厳しい刑に処されるのだ。

 一瞬、泣き叫ぶ彼女の姿と未来の自分の姿が二重写しになって見えた気がして、俺はますます暗澹たる気分となった。俺は、同情と哀れみをこめ、連れて行かれる彼女に「ありがとうございましたー」と声をかけた。

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