室町時代は、北斗の拳の世界

室町時代と聞いて皆さんはどのような時代とイメージするでしょうか?

北山文化や東山文化が栄えた政治より文化の時代?
南北朝の動乱から始まって、応仁の乱も起こる戦乱の時代?
足利将軍家がだんだん公家化していき、日本史上最弱の武士政権?

地味で空気なイメージがありますが、室町時代って実は北斗の拳みたいな時代。具体例やエピソードを通してみていきましょう。
ヒャッハー!!!


【殺し合いが日常茶飯事】

「看聞日記」(かんもんにっき)という、伏見宮貞成親王の日記があります。この日記は6代将軍:足利義教時代の世相や文化など、親王が見たり聞いたりした話が約30年分書かれています。そのエピソードの1つを紹介

ある日、北野天満宮の社僧7,8人(神仏習合していた時代なので神社にも僧侶がいた)が稚児(雑用係の子供)数人を率いて金閣寺を見に行った。
すると一人の僧侶が金閣寺で立ちションをしてるではないか!
それを見た北野の一行は
「プーッ!w 牛みたいだなぁ!? テラワロスwww」
と言って指さして笑った。
それにキレた立ちション僧侶。稚児一人を捕まえてボコボコにした。しかし「おい!仲間がやられたぞ!」と北野のヒャッハー!共は立ちション僧侶を袋叩きにしてしまった。
殺されかねんということで金閣寺内に逃げ込んだ立ちション僧侶だったが、北野のヒャッハー!共は門をも打ち破り、抜刀しながら襲い掛かってきた。
金閣寺側は緊急を告げる早鐘を鳴らして、金閣寺周辺に住む住民を呼び集めてそのまま大乱闘ムロマチブラザース!になってしまった。
結果、北野側2人、金閣寺側1人が死んでしまう大事件になってしまった。怒りが収まらない金閣寺は更に僧兵を雇って北野天満宮を焼き討ちする準備にとりかかっていたが、将軍:足利義教が奉行を派遣し、仲裁したことでこの騒動は収まった。
この事件を聞いた著者である親王は
「不思議なことよ。天魔の仕業かもしれん。」
と言っている。


【室町時代の喧嘩は大規模】

室町時代はこういうのが日常茶飯事でした。

他には立ちションを発端に喧嘩した二人の武士がその結果二人とも相打ちになって死んでしまう話とか、酔っぱらった挙句に人を斬り殺すとか、治安が今と違ってめちゃくちゃ悪いです。

そしてこの時代の喧嘩の特徴は、すぐに規模がデカくなることです。

北野天満宮vs金閣寺のエピソードを見てもそうですが、例えば殺されたり恥をかかされた側の人が何らかのコミュニティ(寺、神社、村など)に属していたら、やられた人のメンツを守るためにコミュニティごと報復してきます。だから「村vs村」とか「神社vs寺」という喧嘩が日常茶飯事で起こっていたんですね。今で言ったらヤクザの抗争みたいなもんです。

逆に言えば一人で生きていくことはこの時代では自殺を意味します。誰も助けてくれないし、半殺しにされようが、殺されようが無視です。だって自分達(コミュニティ)に利益が無いんだもん。人一人の命の価値が軽い時代です。

これだけでも応仁の乱がなぜあそこまで拡大したか、想像に難くないと思います。(まぁ応仁の乱は拡大しすぎて何と戦ってるのとかなんで戦っているのとか本人達にも分からない状況までになってますがw)

そして室町幕府にもこういう喧嘩や訴訟を取り扱うことが出来ませんでした。というのも、今と情報の伝達速度も違うし金も無いしで、気づいた頃には喧嘩の規模がデカくなっていて、複数人死者が出た後で情報が入って仲裁に入るというのがほとんどでした。というか「関わりたくないし…」というのが透けて見えることもありますw

ここから応仁の乱から戦国時代に入っていきますが、豊臣秀吉が行った刀狩令を代表する兵農分離政策や、江戸幕府訴訟は必ず奉行所に届け出ろとしたことも、室町時代の日常を知っていれば、なんて合理的な政策だったんだと感心せざるを得ません。

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