【小レポート】日常の場面における道徳的判断の動機付け

Think about everyday cases in which the moral judgement by you, or someone you know, is largely driven by emotion. Again, think about everyday cases in which the moral judgement by you, or someone you know, is largely driven by reasoning?



 

 夜、ほとんど車の往来のない交差点、目の前の信号は赤を点している。しかし、左右を注意深く確認しても、こちらへ向かってくる車は一切なく、赤信号を無視して横断歩道を渡ったところでまったく危険はない。

 このような場合、信号が変わるのを待つ、あるいは、信号が赤でも渡るといういずれの判断を下すにせよ、われわれは、なんらかの理由付けを行っているように思われる。たとえば、待つ場合であれば、「交通ルールは、社会で定められたものだから、いついかなるときも守るべきだ。だから、信号には絶対従わなければいけない。」また、渡る場合であれば、「交通ルールは、安全のために定められたものだ。この場合、安全は完全に確保されているのだから、渡ってもなんら問題はないだろう。」といった具合に、待つことも、渡ることも正当化できる。前者は、社会という権威にしたがった判断であり、後者は、個人の考えの正当性に基づいた判断である。また、これらはともに、早く目的地にたどり着けるか、といった時間の観点から、個人の損得に還元される判断であるし、同時に、事故の可能性を考慮すれば、社会に還元される判断でもある。

 われわれは、信号を待つ、あるいは、渡るという判断をするとき、それを正当化された判断だと考える。しかし、これらには、実は感情的な動機のほうがより大きく働いているのかもしれない。たとえば、待つ場合、「ルールを破ることがなんとなく怖い。」「ルールを守る自分を偉いと思いたい。」など、渡る場合では、「早く帰りたい。」「待つのがいやだ。」などの感情が、最終的な判断の大部分を占める要素となっていて、理由付けは判断を正当化する後付けのものであるかもしれない。



 ポイ捨て。その街中にゴミを捨て去るという非道徳的な行為は、まったく感情に基づくようにみえ、反対に、それらを拾う道徳的な人たちは、なんらかの理由をもってその活動に参加していると思われる。

 ポイ捨てを行う判断は、間違いなく社会を汚すけれども、だからといって社会からその罰を課せられるケースはほとんどない。ポイ捨てをする人は、それが悪い行いだと知っていながら、遡求されることのない悪行を遂行する。この場合、ポイ捨てが悪い行いだと言えるのは、それが罰せられる対象になるがゆえに悪いためではなく、おそらく、倫理的に社会の迷惑になるがゆえに悪いためであろう。したがって、ポイ捨てをする人は、倫理を犯し、また、倫理を犯すことを知っている。倫理的行為の動機は、行為者の意志によるから、倫理を犯すことは、自分自身の内面を汚すことである。だから、多くの人は、自分自身に悪の意識が生まれるという損失を考えれば、倫理的な悪行を犯したくないものだと思われる。特に、ポイ捨てという些細な事柄においては、ちょっとゴミを正しい場所に捨てるという手間を省けるだけで、自分が倫理的に悪い人だと気づくことになるというのは、得に対して損があまりに大きい。そのような行為を、人は考えて行うものであろうか。このように、ポイ捨ては、常習化、あるいは、ちょっとした気のちがいによる判断なのではないだろうか。

 反対に、ゴミ拾いは、ただなんとなく、というだけで進んで行いたいものではない。「ゴミを拾うことで街がきれいになるから」「自分の気持ちも清々しくなるから」など、なんらかの理由を考えて、参加する慈善行為のように見える。

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