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神の隣のシーレ -東京都美術館エゴン・シーレ展で、生と死の視点を考察する-

2023年3月、晴れた日の午前11時。
山手線に乗り、上野駅で下車。上野公園の東京都美術館まで歩き、エゴン・シーレ展を見る。

会場の客の大半は、50代以上の日本人。チケットは時間制で、入場の人数制限を行っている。平日のわりに入場者は多いようだ。


1階。10代の頃に描かれた絵画を見る。19歳に描いた絵は、描くことへの確信に満ちている。森の中で迷いなく道を作る人のように。

2階、3階へと進み、28才までにエゴン・シーレが描いた絵を見る。

23歳に描かれた絵は、意志を含んでいる。自分のためだけのテーマを握りしめ、カタチにするための意志を。

26歳の絵は、洗練に向かう。
同時に、死を多く含み始める。


絵画の撮影許可されたスペース。ほとんどの人々がスマートフォンを持ち、画像や動画を撮っている。彼らは少し興奮しているように見える。

ぼくは疑問に思う。
2023年の日本人は、1918年に亡くなったオーストリア・ハンガリー青年の絵に、何を見ているのだろう?


エゴン・シーレは、1890年、オーストリア・ハンガリーに生まれる。1918年、スペイン風邪に罹り、28歳で亡くなる。世界中の若者が、若者のまま病死する時代のひとりとして。

彼の絵のほとんどすべては、ぼくに死のイメージを与える。複数の死がひとつの生を取り囲んでいる。

1.死の側から生を定義する
2.生の中から性を選ぶ
3.結果、死の側から性を描く

そういう作業をしているように見える。


エスカレーターに乗る直前、ある写真が目にとまる。28歳でスペイン風邪に罹り、ベッドの上に座るエゴン・シーレ。彼がこちらを見ている。

もし彼が「死の側から生を定義し、生の中から性を選び、死の側から性を描こうとしている」場合

1.描くことで、何を達成したかったのだろう?
2.それはなぜだろう?
3.彼の絵に、当時15歳のぼくは何を見ていたのだろう?


1995年、ぼくは中学生2年生で、エゴン・シーレの絵が好きだった。画家になりたいと考えていて、彼のように生きたいと思っていた。28歳で亡くなったことを含め。

同時にぼくは、aかbのどちらかを選ばなければいけなかった。
a. 自分を選ぶ – 家族から離れる
b. 家族を選ぶ ‐ 自分から離れる

そしてbを選ぶ。
破損した日常を、家族とサバイブし続ける選択肢bを選ぶ。結果、自分と乖離することを知りながら。

机の引き出しに大事にしまっていたエゴン・シーレのポストカードを捨てる。日時は思い出せない。


あれから25年以上が経過し、ぼくはエゴン・シーレの絵を初めて見ている。年老いた生き残りとして。


かつて彼の絵画は、未来の自分だったかもしれない人物の象徴として、生きることの価値を示していた。でも今、彼の絵が与えるものは、当時のぼくが与えられたものよりはるかに小さい。

なぜだろう?

しばらくして、納得しうる仮説にたどり着く。


仮説:今のぼくの日常には、すでに生きる価値があまねく存在している

根拠1:経過した25年のなかで、生きることの具体的な価値を、ひとつひとつ育ててきた

根拠1-a:ほとんどそのためだけに生きてきた


展示会を出ると、エゴン・シーレの絵がマグカップにプリントされ、Tシャツになり、マスキングテープになり、陳列されている。人々はグッズに群がり、購入し、退場する。グッズは、山手線から日本中に拡散する。


ふと、あるイメージが浮かぶ。
彼は1918年の死後すぐに、道端で神と出会う。彼は神の隣に座り、今に至るまでずっと満たされている。

ただ、ぼくがそれを認知できなかっただけなのだ。


そのようにして、ぼくは彼と和解する。


東京都美術館の外へ出る。上野公園には、世界中から集合した人々が歩いている。春の光は、桜のつぼみを包み始めている。


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