8000軒の家を訪問した結果

1日に数軒、多い時は10軒以上ものお宅に足を踏み入れること10数年。

その末に辿り着いたひとつの真実がある。

家の通路や階段に不要なモノを置く住人は、その量に比例して精神に異常をきたしている。

これはもう間違いない。

極端な例を挙げるとゴミ屋敷の住人だ。

ゴミ屋敷の住人はモノを増やすばかりで減らすことができない。モノを減らすことができないため、不要なモノが積み上がる。
これが精神状態とリンクしている。

具体例を挙げよう。
私の叔母だ。

叔母は都内に立派な戸建てを構えて家族5人で暮らしているが、家の中はとんでもないことになっている。

まず玄関を上がってすぐの壁には胸の高さくらいの採光窓があるのだが、すでにこれが用を成していない。
窓の9割近くがダンボールで隠れてしまっており、木漏れ日情緒程度の光しか入ってこないのだが、そのわずかな光でさえダンボールを温める役割しか担えていない。
もちろんその調子で廊下や階段が続いている。食卓のテーブルの上にも謎の荷物が積まれている。ひどい有様だ。

ではそこに住む住人はどうかというと、ほぼ全員が病んでいる。

まず長男と次男は引き篭もりだ。
長男は自室に美少女エロフィギュアを飾っているが、これがとんでもない数に及ぶ。

一瞬、仏像千体が立ち並ぶ蓮華王院三十三間堂に迷い込んだかのような錯覚に陥るが、そこにあるのは十一面千手千眼観世音菩薩(じゅういちめんせんじゅせんげんかんぜおんぼさつ)などではなく、年柄年中千摺官能陰茎薩(ねんがらねんじゅうせんずりかんのうおちんぼさつ)の仏像(エロフィギュア)で溢れており、そこでは神に弓引く愚か者(無職、デブ、童貞)が息を潜めている。

彼の年齢は30後半だ。
童貞が30を迎える頃には魔法を会得し、荒廃した世を照らす光になるという古からの言い伝えがあるが、彼を見ていればそれがウソであるということがよくわかる。

そう。彼は社会のクズだ。

次男も彼ほどではないにしろ、それに比肩する器をもっている。

親が死んだらどうする?という質問に対しては、「そしたら自殺する」と答えていた。

彼らの父親は無口で、他人と5秒以上喋っているところを私は見たことがない。

叔母は逆に饒舌だが、残念ながら頭が悪い。20年以上前から旦那への殺意を口にしている。
そして昔は事あるごとに小さい子供たちの頭を殴る癖があった。我が子が成長し、社会のクズに成り下がった今こそその剛腕を唸らせるべきだが、それをしない。
自分が子供たちにしてきたことがただの暴力で、教育にはなんの効果もなく、無能な母親であったことを自ら証明し続けているというわけだ。

唯一の良心が末の娘だが、彼女に最後に会ったのはもう5年ほど前の話だ。
すでにパパ活に味を占め、それと同時にホストの沼にハマる悪循環に身を投じていたとしても不思議ではない。

なにせコミュ障の父親と、頭の悪い母親、引き篭もりの兄2人の4人と汚い家で生活しているのだから、まともに成長したのならそれはもう奇跡だろう。

私はなにも叔母が嫌いなわけではない。
叔母には可愛がってもらったし、子供たちが小さい時は一緒に遊んでやったりもした。大人になってから会ったのは数える程度のせいもあり、可愛らしい子供だった彼らの印象の方が強い。

ただ縁もゆかりもない他の家族を見てきたというだけで悪く言うのは気がひけるため、身内を客観的に紹介しているだけだ。

そして今まで見てきた中では叔母の家はまだマシな方と言わざるを得ない。
ヤバい家は腐るほどあり、ヤバい奴は掃いて捨てるほどいる。

ヤバい原因は言わずもがな捨てられないことにある。

モノを増やし、捨てられなくなった結果、スペースに本来の用途以外のモノを置かざるを得なくなる。
通路に、階段に、生活スペースに、モノを積み上げていくが、これが精神のバロメーターと一致する。

これはちょうど脳梗塞に似ていて、本来血液の通り道である血管にアテロームが形成されると脳に血液が回らなくなる。
脳にじゅうぶんな血液が行き届かなくなると人体は故障する。呂律が回らなくなったり、手足が動かなくなったりだ。

便宜的に家梗塞とでも言おう。
家梗塞は精神の故障に繋がる。
そして家梗塞の原因はなにもモノだけではない。

引き篭もりの子供、頭の悪い親、ネガティブな感情、これらは梗塞をきたすアテロームとなる。
ただちに排除すれば健康を取り戻せるかもしれない。だがゴミ屋敷の住人は必ずこう言う。

それは大切なモノだ。触るな。捨てるな。

叔母にこう言ったことがある。
「息子2人を家から追い出せば?」
それはできないと叔母は言った。
あんなんでも可愛い息子だから、家に置いておきたいんだそうだ。

スネかじりの息子はもちろん親を捨てる選択はとれない。

相互に不要なモノであるにも関わらず、捨てることができない。

それは大切なモノだ。触るな。捨てるな。

手足を不自由にしながら、呂律も回っていない状態で、そんなことを口にする。

捨てられないことが原因だが、そこから更に皮を一枚一枚剥いていくと、そこから出てくるものは不安だ。

私は20歳の時に親を捨てた。
親を捨てるという選択をとるまでだいぶ時間がかかった。不安で仕方がなかったから。
そのまま親と暮らして怒りや不満、ネガティブな感情を持ちながら生きることは容易かった。ずっとそうしてきたからだ。
私のスペースには不要なモノが積み上がっていたが、それを捨てることができず、それでいいとも思ってしまっていた。

なぜなら親を捨てた経験なんてないからだ。
たった独りで生きた経験もない。
親を捨てて独りで生きることはどうなるか予想もつかない不安なことだが、今まで通り生きていくことであれば簡単だ。これまでと変わらない不幸な人生、被害者としての人生を生きればいいだけなのだから。

根底にあるものは不安
それを一枚一枚皮で包んでいくと、それはすっかり大切なモノ、必要なモノとなり、捨てられない状態になる。
つまり私達が捨てられないものは不安なのだ。
捨てれば不幸から抜け出して今より身軽になり、人生のパフォーマンスは向上する
それなのに捨てることができない。

ついには不安を捨てることが不安という最悪の状態に陥り、不安は大切なモノだと詭弁にはしり、不安を積み上げ、不安に梗塞されて病んでいく。
なんとも滑稽じゃあないか。

私が30代の頃に、路上で仰向けになっている同年代くらいの男がいた。
そばには母親らしき高齢の女性がおり、しきりに狼狽えていた。
男は体が動かないと大声をあげていたが、明らかに体は動かせている。体が動かないのは全部こいつのせいだと母親を指差していた。母親を睨みつける目には憎悪が宿っていた。母親は狼狽えながら謝っていた。
そして男が横たわる道の目の前にはメンタルクリニックがあった。

憎むなら捨てればいいのに。手がつけられないのなら捨ててしまえばいいのに。
不要なモノ同士がお互いを捨てられず、お互いを呪い合う。
それが捨てられない人間の末路なのだろう。

私はなんでも物事に対して、それは大切か?必要なものか?と自身に問いかけるようにしている。
大切に決まっている。絶対に必要なものだ。という答えが出ても、それを疑り、皮を剥いていく。大抵の場合はそこに不安が隠れている。

大切でないならそれはゴミになるもの。必要でないならそれは不要なもの。どちらも捨てるべきものだ。

私の職場では年に1回の催しがある。
各グループが同じお題目に対して研鑽を積み、発表する。審査員かそれに点数をつけて順位を競うものだ。
毎年毎年やり過ぎな傾向にある為、私はうんざりしていた。じゅうぶん練習して90点のものができたのに、終業後にひたすら残業して120点のものを作り上げようとする。しまいには個人個人がこだわりの5点を肉付けして150点で当日を迎えようとする。
その結果、当日はグダグダとなり70点で終わる。
何度も見てきた光景だ。

これもやはり皆の根底にあるのは不安だ。
これは大切だそれも必要だと毎日何時間も残って不要なモノを積み上げ、当日のパフォーマンスをどんどん下げていく。

やんわり練習量を抑えようとしても彼らの不安は止まるところを知らないため、私は強硬手段に打って出た。

本番前日に休んだのだ。

そのおかげで私はいい口撃の的にされ、練習だけでも出てこれないかと言われたがきっぱり断った。

発表当日、私たちは良い成績をおさめ、優秀賞をとることができた。
本来私たちより優秀なグループはいくつもあったが、根を詰め過ぎたのだろうか。あるグループは審査員のせいにして憤っていたりした。

結局のところ、行動の動機に不安があるものはロクなものにならないのだ。

コロナ禍のマスクやワクチンもいい例だろう。
私にとってマスクは大切ではないし、ワクチンも必要ではなかった。
あるのは安心でも安全でもなく、不安だ。だから選択肢からは捨てていた。本当にただそれだけのことだ。

しかし先にも述べたように、不安が行動原理になっている人は、得てして他人を攻撃してしまうようだ。

人生を不自由にするもの、パフォーマンスを落とすものは捨てていかなければならない。

あなたが大事そうに抱えているそれは、本当に大切なものなのだろうか?

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