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アマニタ・パンセリナ

昨日から中島らもの「アマニタ・パンセリナ」を読んでいる。アマニタ・パンセリナは、ハラタケ目テングタケ科テングタケ属のキノコの学名(Amanita pantherina (DC. : Fr.) Krombh.)である。冒頭のメキシコ北部やアメリカ南西部に分布するコロラドリバーヒキガエル(Incilius alvarius)の分泌液に含まれる「5-メトキシ-N,N-ジメチルトリプタミン(5-MeO-DMT)」は、南米では伝統的な儀式に欠かせない幻覚剤として用いられているという話から、睡眠薬、シャブ、アヘン、幻覚サボテン、咳止めシロップ、毒キノコ、有機溶剤、ハシシュ、大麻、LSD、アルコールなどあらゆるドラッグについて語られているドラッグ・エッセイ。中島らも自らが体験したリーガルなものもあるし、話に聞いただけのイリーガル・ドラッグもある。古今の作家の生活や名著などもひきながら、話は「人は何のためにドラッグを求めるのか。その行き着く先はなんなのか。」へと進む。
このうち、私が実際に体験したのは、睡眠薬、LSD、アルコールだけである。
「アマニタ・パンセリナ」で語られている睡眠薬のうち、ハイミナールは、バルビツール酸系の致死性や依存性といった副作用を改良しようと合成された非バルビツール酸系トランキライザー(精神安定剤)の一群のうちの一つであり、依存や乱用や催奇性の副作用が問題となり市場から消えていった。
私が初めて服用した睡眠薬は覚えてないが、いつの間にかべゲタミンA、プロバリン、サイレースを常用するようになっていた。このうちサイレースは今も処方されて飲んでいる。
ベゲタミンは、抗精神病薬の成分クロルプロマジンと、バルビツール酸系のフェノバルビタール、抗ヒスタミン作用のあるプロメタジンを含む合剤である。塩野義製薬から1957年から2016年12月31日まで販売された。処方箋医薬品であり、世界でも日本でのみ流通して小里、劇薬、習慣性医薬品、麻薬及び向精神薬取締法における第三種向精神薬の指定があった。ベゲタミンの薬効分類名は精神神経用剤で、適応は各種の精神障害の鎮静催眠に用いられる。フェノバルビタールは、過量投薬のリスクが高く、治療薬物モニタリングが必要である。バルビツール酸系は薬物の離脱時の痙攣大発作に注意が必要である。2005年から2010年までの5年間でも、不審死からのベゲタミンの成分3種の検出が増加しており、オーバードース時に致死性の高い薬の2位の薬だと同定されていた。ベゲタミンは外来患者には用いるべきではない、極力処方を回避すべき、いかなる場合にも処方すべきではない医薬品、飲む拘束衣と言われていた。ベゲタミンA・Bは、2016年12月31日をもって、供給停止となることが塩野義製薬から発表された。日本精神神経学会から「薬物乱用防止の観点からの販売中止」の要請を受けたことによる。ちなみに、私はこのベゲタミンAを30錠ビールで流し込んだことがある。その時は、部屋で倒れているところをアパートの大家に発見されて救急車で運ばれて胃洗浄され、そのまま精神病院に入院となった。胃洗浄されている病院の寝台の上で気がついたのは、薬を飲んだ時から1週間後のことである。発見されなかったら死んでいただろう。
ブロバリンは商品名で、正式にはブロムワレリル尿素と呼ばれる鎮静催眠作用のあるモノウレイド系の化合物で、過去に自殺に用いられ、過量服薬や乱用の危険性があるにもかかわらず、2009年現在でも日本でなぜ用いられているか理解に苦しむ、という専門家のコメントがある。連用により薬物依存症、急激な量の減少により離脱症状を生じることがある。日本では「乱用の恐れのある医薬品の成分」として、含有される一般薬の販売が原則で1人1包装に制限され、若年者(高校生、中学生等)については、身分証等により、氏名及び年齢を確認する。日本では、ブロムワレリル尿素の催眠鎮静剤は習慣性医薬品、劇薬である。
私のLSD体験はそんなに多くはない。初めて使用したのはいつかは忘れてしまったが、東京・青山の骨董通りにあったマニアックラブというクラブでハウスのニック・ジョーンズのパーティーがあり、その時に当時一緒にクラブに入り浸っていたプッシャー(売人)の友達から手にいれた。初めに手渡されたのは、吸い取り紙のような紙にLSDをスポットしたペーパー・アシッドだったが、おそらく当時すでにアル中だった私はアルコール漬けの状態で、全く何の効果も感じられなかった。それで友人は仕方なく、LSDの結晶をカプセルに入れたマイクロドットを私に手渡し、私はそれを服用した。期待したようなサイケデリックな幻覚はなかったが、胃の中で打ち上げ花火が上がっているような感じが続き、目の前で赤い薄着で踊っている女の子がヤケにセクシーに見えたのを覚えている。その後、友達が先に帰るといっている幻覚を感度も見て、クラブから出たあとに、トリップ状態から帰られなくなったとパニック状態になり、バッドトリップになって、しきりに自宅の鍵を何度も確認する行動をとった。LSDでトリップしたのはその1回限りである。ペーパー・アシッドはその後も多摩川の花火大会の時に使用したが、横にいる友達は効いているものの、私は何の効果もなかった。多分その時もアルコール漬けだったからだろう。花火大会が終わってから私はペーパー・アシッドを追加して、一人でマニアックラブに踊りに行った。何かあったら電話するようにと心配していた友達であるが、何も起こらなかった。多分、ペーパー・アシッドでは効かない体質なのだろう。
「アマニタ・パンセリナ」の中で咳止めシロップとして紹介されているのはブロン液で、60mL中成分は、ジヒドロコデインリン酸塩30mg、グアイフェネシン170mg、クロルフェニラミンマレイン酸塩12mg、無水カフェイン62mgである。この中で問題になるのはコデインである。また、かつてはエフェドリンも含まれていた。
コデインは1832年にアヘンから単離されたμ受容体アゴニストのオピオイドであり、代謝産物の約10%がモルヒネとなる。オピオイド (Opioid) とは、ケシから採取されるアルカロイドや、そこから合成された化合物、また体内に存在する内因性の化合物を指し、鎮痛、陶酔作用があり、また薬剤の高用量の摂取では昏睡、呼吸抑制を引き起こす。このようなアルカロイド(オピエート)やその半合成化合物には、モルヒネ、ヘロイン、コデイン、オキシコドンなどが含まれ、また合成オピオイドにはフェンタニル、メサドン、ペチジンなどがあり、これらは本来的な意味で麻薬(narcotic)である。ジヒドロコデインリン酸塩は、モルヒネの約1/3、コデインの約2倍、精神機能抑制作用・催眠作用及び呼吸抑制作用はモルヒネの約1/4、コデインと同等といわれる。延髄の咳嗽中枢に直接作用し、鎮咳作用を現す。鎮咳作用はコデインの約2倍強力である。また、エフェドリンはアンフェタミンに類似した化学構造を持つフェニルエチルアミンである。違法ドラッグ製造者がメタンフェタミン(覚醒剤の一種)を生成する際には、エフェドリンを前駆物質として使用する。メトカチノンも同様に、エフェドリンかプソイドエフェドリンから作り出すことができる。含有量が10%を超えて配合されたエフェドリン、プソイドエフェドリン、メチルエフェドリンは、いずれも覚醒剤取締法の対象である。
ブロンではないが、市販薬でも薬物依存に陥ることはある。大阪ダルクの当事者の話として紹介されているのは、「銀のベンザブロック」というTVのCMでもおなじみの薬である。薬の量は朝起きる時に3錠をポカリで飲んで一度からだを横になって安静していると気がからだを貫通したような感じになって即効で眠気もなくなりハイパー元気になったそうだ。量も1錠2錠と増えていき、そのうちいわゆるところの「きれめ」が発症しだす。そして薬なしでは生活する事はできない依存症となる。
「アマニタ・パンセリナ」の咳止めシロップの章の最後にNAの紹介がされてあった。NAは、ナルコティックス・アノニマスの略で、ナルコティックス・アノニマスは薬物によって大きな問題を抱えた仲間同士が薬物問題を解決したいと願う相互援助(自助グループ)の集まりで、直訳すると「匿名の薬物依存症者たち」の意味で、NAはさまざまな薬物乱用の問題をかかえた人々のために開発・発展された伝統的な12ステップモデルを使用しており、12ステップを使用する団体の中では2番目に大きい規模を有する。 1953年、ナルコティクス・アノニマス(もともとはAA/NAと名乗っていた)がジミー・キノンらによってカリフォルニア州で設立され、それ以前の団体とは異なり、NAは相互支援グループを形成した。創設メンバーはほとんどがアルコホーリクス・アノニマス(AA)からの移行者だったが、議論の結果、AAの12の伝統を設定した。1953年9月14日、NAがAAの名称を使うのを止めることを条件としてAAの12ステップと伝統を使うことをAAが承認し、こうしてナルコティクス・アノニマスの名称の団体となった。私も一時期、大阪ダルクに通所していた頃、NAに通ったことがある。
中島らもはドラッグには貴賤がある、と述べる。ドラッグの貴賤とは、ドラッグの序列のことではなく、そのドラッグが愚劣なものであるか否かということを意味している。中島らもはシャブ、つまり覚醒剤を「愚劣なドラッグ」であると断言する。しかし、それは一般に言う「危ない」からというような安易な理由ではない。覚醒剤の生い立ちは太平洋戦争中、特攻隊員の戦意向上のために使われ、その後は市場に「ヒロポン」として出回った後、1951年に覚醒剤取締法ができたことでヒロポン中毒者は姿を消した。そして1970年代に警察がヤクザの壊滅に力を入れ始めると、資金源を断たれたヤクザは新しい資金源として覚醒剤を用い始め、それをドラッグとは縁のない人々に「疲労に効く薬」、「痩せられる薬」として売りつけた。殺人意欲向上剤としての使用から始まり、ヤクザの勢力拡大のために使われる。これが中島らものいうシャブの「生い立ち」と「社会のからみ」におけるいやしさだ。
「痩せられる薬」ではMDMAだろう。MDMAは3,4-メチレンジオキシメタンフェタミン(英: 3,4-methylenedioxymethamphetamine)の略で、アンフェタミン(覚せい剤)と類似した化学構造を持つ化合物である。俗にエクスタシーあるいはモリーと呼ばれている。1980年代初期には、アメリカでの娯楽的な薬物としての使用が広まる。スペインのイビザ島での使用から世界的に広がり、イギリスのクラブシーンやレイヴでは、若者の第一選択薬となった。80年代後半にイギリスで起きたダンス・ミュージックのムーブメントでは、60年代後半のヒッピー・ムーブメント「サマー・オブ・ラブ」に由来するセカンド・サマー・オブ・ラブが有名である。
その発祥は、スペインのイビサ島でプレイされていたマーシャル・ジェファーソン、フランキー・ナックルズなどのシカゴ・ハウスの楽曲群やその他のジャンルの曲を、そうしたジャンルを越えてプレイする自由なDJスタイルと言われる。そしてダニー・ランプリング、ポール・オークンフィールドらイギリスのDJがバカンスでイビサ島を訪れた際にそれをイギリスへと持ち帰り、世界的な流行の発端となった。
音楽のスタイルとしてはアシッド・ハウスと呼ばれるものが中心で、各地で大規模なレイヴが開催された。ドラッグ文化と強く結びついていることから、かつてのヒッピー・ムーブメントになぞらえられた名称となった。それまでのコンサート会場で演奏されていたロック、レコード会社の主導による商業的な音楽と異なり、人里はなれた野外や廃屋や倉庫で開かれるDJたちと参加者による非商業的な手作りのレイヴを中心としたシーンであった。
MDMAの思い出は、東京の麻生のクラブで踊っていた時に、白人の女の子に「エクスタシー持ってない?」と聞かれたことである。気持ちよさそうに踊っている私を見て、MDMAをキメているプッシャー(売人)と勘違いしたのだろう。

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