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「つみびと」を読んで感じたこと

★はじめに


2010年7月、大阪で起きた幼い子ども二人がマンションの一室で餓死した凄惨なネグレクト事件をモチーフにした小説。当時は犯人となった若い母親が風俗店勤務であったことや、ホストクラブに出入りしていて、事件当時も男の人と出歩いていたことから、彼女のことをセンセーショナルに書き立てるマスコミも多かったし、ひどい母親がいるという感情的なフレーズばかりの論調だったと記憶している。

でも、私の心の中では何かが違うとずっと感じていた。犯人である母親「だけ」を責めても、この事件から学ぶことや教訓は得られないと思っていた。児童虐待やそのまま死に至らしめる事件は残念ながらその後も何度も目にする。やはりもっと構造的な何かがあるのではないか、そしてそれはたまたま私や私の周りで起こらなかっただけで、実は誰にでも起こり得ることなのではないかというある種の危機感のようなものだ。


小説は犯人となった蓮音とその母の琴音、そして亡くなった長男の桃太がかわるがわるその時の心情を吐露する形で進行していく。事実をモチーフにした小説だからノンフィクションではない。本当のところ彼らがどう思っていたかは小説を読んだからと言ってわかるわけではないが、様々な発見があった。この先は内容のネタバレがありますので、小説を読む予定の方は、ご遠慮していただけるとありがたいです。

★あまりにも貧弱な人権意識

主人公蓮音に限らず、小説の中にでてくる登場人物のほとんどが「人権意識」という概念を持ち合わせていない。男性は家庭内暴力を当たり前のようにするし、継父は平気で母親の連れ子を犯す。地元の男性たちは性のはけ口として見ていい女性認定をすると簡単にレイプする。その結果妊娠しようが、堕胎しようが当人でさえ、あまり意に介していない。これが私には衝撃だった。江戸時代ならあったかもしれないがこれは平成の世で起きている事実なのだということが今一つ理解できない。

あとがきにあった地方の既婚者男性になぜ結婚したかと問うと「結婚すればただでセックスできるし、家事も育児もしてもらえる。周りから変な人と見られることもない。」という証言があったが、私も実は全く同じセリフを聞いたことがあるのだ。10年ほど前にボランティア活動で知り合ったバツイチ50代男性が全く同じセリフを言っていたので本当に驚いた覚えがある。

彼らにとってセックスはお金を払ってするもので、お金を払いたくないから結婚するのかと正直に思った。また件の50代男性は家事は女がするものと頭から決めつけているようで、バツイチとなった今、掃除や炊事を仕方なくやっているがそれは本来おかしいのだとも言っていた。私にはもう「この人たぶん一生再婚できないだろうな。」としか思えなかった。

そもそもの思考回路が違いすぎるのだ。好きな人ができて、その結果、体の関係も結び、少しでも長くお互いに一緒にいたいから結婚する。結果として子どもに恵まれる。子どもは二人の宝物なのでできる限りの努力や経済的支援をして心身共に健やかに育てる。ざっくり言うとこんな感じが一般的に結婚や出産のモチベーションになるのかと思うのだが、どうも小説に出てくる登場人物はそうは思っていない。たとえ結婚したとしても、夫には夫の、妻には妻の、そして子どもにも皆一人一人の異なる人格や尊厳があり、それはいついかなる時でも尊重されるべきなのに、どうも皆そのあたりの境界があやふやなのだ。まるで自分の家族を所有物のように扱うきらいがある。私はこの本を読んでいる間中、この「所有物感」が胸の中でザワザワして、ゴツゴツしていていたたまれなくなった。

★「所有物感」は社会全体が持っている


私をざわつかせるこの「所有物感」は今日の日本が抱える大きな闇といっても過言ではない。司法とて犯人である母親だけに量刑を科し、生物学上のすでに離婚が成立した父親や、犯人の交際相手には何のお咎めもなしだ。そもそも当たり前のことだが子どもは女性一人で生むものではない。そこには男性も含まれているはずだ。まして出産後子供を育てていく過程で、たとえ残念ながらお互いが「離婚」という形をとったとしても、父親の養育責任は少なくとも子どもが成人するまでつきまとうものなのではないか。養育費の不払いが横行しても結局誰も責任を取ろうとしない教育、保育行政、社会全体の空気が「母親ならどんなことがあってもしっかり子育てすべき」みたいな変な精神論だけに頼っているから悲しい事件が後を絶たないのだ。

母親は皆最初から完璧な母親ではない。でもなんとか踏ん張って子どもを死なせない程度にお世話をしている。本当は生物学的には母親にはなったけれど、幼い子どもの相手が死ぬほど苦手な母親もいるだろう。あるいは肉体的、精神的疾患を持っていて十分に子どものお世話や養育ができない女性も多くいるはずだ。そこにいる女性たちに私たちの住む社会が差し伸べる手があまりにも薄く、細い。彼女のようにあまり世の中の仕組みをしらないまま、母親になってしまった人たちにそのか細い支援の手はもう見えていないのに等しいのではないかと思う。事件の犯人となった母親は実際、引っ越してきてから一度もゴミを出していなかったという。もう、その時点で彼女は精神的に病んでいたのだと思う。それを「母親なんだから自分でなんとかすべき」というのはあまりにも酷ではないだろうか。


★あるいは私だってそうなっていたかもしれない


これは、子育てを経験した人ならかなりわかっていただける感覚だと思う。もし、子育てを経験して彼女のことを全く違う星から来た「宇宙人」のように感じる人がいたとしたら私はその人が相当恵まれた環境にいることを再認識するべきだと思う。私も子どもが一歳になるまではほとんど夜は熟睡できなかった。私には夫がいたし、その時は経済的に追い詰められてもいなかったし、子どもは幸い一人だけだった。それでも私の心の中にはいつも悪魔が潜んでいたように思う。どうやっても夜泣きがやまない時、何度寝かしつけてもすぐに泣いて泣いて大号泣されるとき、睡眠不足の頭の中はいつもいつもこの赤ん坊をこのマンションの7階の窓から放り投げたらどんなに楽になるだろうと思った。そんな考えがよぎるのは一度や二度ではなかった。

それでもなんとかしのいだのだ。自分をだまして。言い聞かせて。皆子どもを虐待する人は自分とは別のどこか遠い存在だと思っているかもしれないが、そんなことはない。人間はそんなに強い生き物ではない。睡眠不足が続いたり、風邪を引いたり、手が腱鞘炎になったり、子宮の戻りが悪く貧血になったりすると途端に途方に暮れる弱々しい存在なのだ。そんな時に、悪魔はふっと囁いたりする。

「もう、この子の世話なんか放っておいて逃げたらいいよ」

とか、

「そんなに泣き止まないんだったら口を塞いでしまえばいいよ」

とかだ。

私はたまたまいろいろと恵まれて彼女にならずに済んだ。私が恵まれていたのは私の実力ではない。単にめぐりあわせがよかっただけだ。実際「母性っていったい何だ?」と悩んだことも数えきれないほどある。そしてその答えは子どもが成人した今でもうまく持ち合わせていない。私だって一歩間違えば彼女になっていたのかもしれないと思う。本当に掛け値なしに「人ごと」とはどうしても思えないのだ。私と彼女を隔てる膜はあまりにも薄く、壊れやすい。そして今、この瞬間にもその膜を右往左往している母親たちがたくさんいることを忘れてはならない。


あの事件から10年以上の歳月が経った。でも私の胸の中のザワザワした感覚、ゴリゴリと何かを削り取られているあの嫌な感じはいまだにリアルに感じる。大きな悲しみ、焦り、あるいは絶望、怒りが混然一体となって私の胸をえぐっている。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。



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