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声を失って休職した話

1.声を失う

一月下旬、コロナ患者対応をした後、自らがコロナ感染してしまった。療養期間を経て、二月頭に職場に復帰した数日後、突然、声が出なくなった。それも全く。復帰後二日間くらいは掠れ声ながらも声を出してのコミュニケーションがとれていたのだが、完全に声を失ってからは筆談をメインとして、ジェスチャーや読唇術でコミュニケーションを取らざる得なくなった。その状態をみた上司から紹介された耳鼻科に受診し、診断名は機能性発声障害で、治療法はリハビリしかないとのことだった。仕事は休職するようにいわれたが、仕事が好きだった私はその指示を笑って濁した。その後、二ヶ月くらいは筆談メインでコミュニケーションをとりながら仕事を続けることになった。「仕事を続けたい」という意思を尊重し、上司も可能な限り声を必要としない業務配置にしてくれ、どうにかこうにか仕事を続けることが出来ていた。
しかし、その時にはまだ知る由もなかった。その二か月後、心身が限界に達してベッドから起き上がれなくなることを。そして今に至るまで自らの声を聞くことが出来ないことを。

2.目には見えなかった心労が顕在化する

四月上旬、急に自宅のベッドから起き上がることが出来なくなった。出勤日だったため職場に連絡する必要があるのだが、声が出ないということは電話が出来ないということである。そのため上司のLINEに休みの連絡を入れようとスマホに手を伸ばそうとする。しかし、重くなった頭はいつまでも枕についたまま。どれくらいの時間がかかったか分からないが、なんとかスマホを手に持つことが出来、連絡をした。その日はその連絡を最後に、正直、次の日の朝になるまで、どのように生きていたのか覚えていない。夢か現かも分からない狭間で右往左往する夜だった。
翌日になると、身体は動いてくれた。上司に連絡をし、勤務する病院を受診する手配をしてくれ、点滴をしてもらい、睡眠薬と安定剤が混ざったような薬と吐き気止めを処方された。そして、その後、一週間程度、休職をすることになった。
その休職中も声が出ることはなかったため、かかりつけの耳鼻科で紹介状を受け取り、大きな病院を受診した。カメラ等の検査を行った結果、やはりそこでも同様の診断名が下され、リハビリが開始となった。しかし、そこでの医師は「機能性」とは言わず、「心因性」のものだろうと説明をした。医師からの説明を受けた時、私はようやく自身が強いストレスの中で生きていたことを知った。これといって引き金になるようなことはないと思っていたが、コロナ感染、声が出ない状態での日々の生活や仕事、自身の性格や特性など、つもりに積もったものが溢れあがった結果だったのだと気がついた。

3.復職する

休職して間もないころは薬の影響が大きく出たため、寝ている時間が大半を占めていたが、次第に身体が目覚めている時間は長くなり、本来の日常生活を送ることが出来るようになっていった。
本を読んだり、動画を観たり、散歩に出掛けてみたりとそれなりに安定した状態でいられた。その期間運命としか思えない、私にとってこれからも支えになるだろう本にも出会えた。
しかし、食事だけがなかなか元に戻らなかった。一人暮らしの自炊なのでほかの住人のことは考えず、とにかくあっさりとしたもの、食べやすいものを食べられるだけ食べる生活を送った。
また、薬も手放すことは出来なかった。しかし、薬を飲んでいれば日常生活は送ることは出来る。そして自身の中で「仕事がしたい」という意欲が湧き出していた。そのことを上司に伝え、看護部長とも相談し、少しずつ仕事にも復帰できるよう準備をしていくことになった。
嬉しかった。また仕事が出来る、そう思った。

4.心身にとどめが刺さる

復職後、同僚は優しく迎えてくれた。久しぶりの勤務は体力の衰えを感じながらも、それなりにやれた。数日間は半日だけ出勤し、その後一日の勤務をすることになった。頑張っていたつもりはなかった。ただ、声は出せないため言いたいことは相変わらず言えなかった。勘違いされているような気がすると思いながらも、わざわざ筆談で伝えるほどではないと思えばぐっと飲みこんだ。何かケアをしながらだとなおさらだった。
休職する前となんら周囲の状況は変わっていないのに私は勤務をするごとに、まち針でさまざまなところを刺されていくような痛みを感じるようになった。人と話すこと(筆談すること)が億劫になり、恐怖を伴うものになっていった。自分でも分からなかった。それが不安なのか、焦りなのか、どんな言葉で表現することが適切であるかが。
休憩室に一人でいられる空間はなく、常に誰かの話している声が聞こえる。話しかけてくる人は誰もいなかった。きっと、ものすごく気を遣ってくれていたのだと思う。腫れ物のように、傷つけないように、と思いながらずっと影からみてくれている人もいたと思う。しかし、その気遣いすらも私はしんどくなってしまった。GW明けまでは頑張れた。薬も(勝手に)増やし、足元をふらふらにさせて、いろいろなところを鈍麻にさせて、好きな仕事をやりぬこうとした。けれど、訳も分からず涙が流れるようになった。それまでなら反面教師として聞き流したり、対応したりできていたスタッフの態度もすべて突き刺さった。胃痛は増し、眠れぬ夜が続いた。
限界だった。
仕事を終え、帰ろうとしたとき、私は子どものように声は出さずとも「えーん」と言わんばかりに泣いた。それをみた上司は一言、「もう頑張れるところまで頑張ったよ。そんな頑張っているところをみてくれていた人はたくさんいるから、ほかの人のことは気にせずもう休もう」と背中をさすりながら、そう言葉を添えてくれた。私はスマホのメモ機能に打ち込んだ。
「休みたい。休んで心療内科に行きたい」と。

5.本格的に休養生活に入る

その後、心療内科を受診した。勤務先の病院でお世話になっている先生が紹介してくれた病院だった。声が出せないのであらかじめ受診までの経緯や困りごとなどをまとめ、筆談での問診となった。発声が困難であることが根本の要因にあることは明確であったが、食欲不振の影響で体重が急激に減少したこと、不眠、不安感の出現という状態から、今後はまず、休職し休養をとること、内服薬の調整で経過をみることとなり、今後も継続的な受診が続くことになった。
私はてっきり適応障害と書かれると思っていたのだが(無駄に知識だけはある職業病)診断書はうつ病だったため、目に見えない疾患は難しいものだなと思った。
しかし、私は心療内科受診後、これで休むことが出来る環境が整ったと安堵した。そして、少しだけ晴れやかな気持ちになった。

6.休職してから今に至るまで

今現在、ちょうど、休職して二週間程度経った。今でも時々、理由が分からない不安感に襲われ、涙が流れることが時折ある。内服薬の影響ですっきり熟睡できるという日もあれば、悪夢に苦しむ日も、何度も夜中に目が覚めてしまうこともある。食べることが出来るようにはなってきたが、完全に戻ってはおらず、胃薬を内服しているため、胃痛への不安も払拭できたわけではない。
けれど、もう無理はしなくても良くなったことが私にはとても大きなことのように思う。
そして、一度目の休職時から今に至るまで本を沢山読んだ。もう爆読みに近いくらいに読んだ。一度目の休職時に読んだ本の主人公はある出来事をきっかけに声が出なくなる主人公だった。舞台は戦火を免れた城と夕日が美しく見える湖のある私が大好きな町だった。今の私に必要な本(※1)だった。その本以外にも印象深く、手元に持っておきたいと思える本にたくさん出会い、図書館に返す前にブックオフオンラインで注文してから返却した本も数知れず。
また、一年ぶりくらいにTwitter、Facebookを開いた。ログインするにもパスワードが忘却の彼方で苦労したが、どうにかこうにかログインできた。そしてぼーっと見ていると、次第に学生時代のことが思い返された
コロナ以前、以後問わず、教育や社会という共通点から広がったさまざまな活動に参加し、多くのこと、人に出会い、感じ、考えてきた軌跡をみた。そんな軌跡との再会に、私は消えかかっていたとろうそくの灯が再びそっとついた気がした。私はきちんと頑張ってきていた。他人の言動をあたかも自分のもののように扱わず、きちんと自分の言動になるよう練り直し、表現してきていた。大丈夫ではない時のほうが多かったかもしれないが、それでも今、こうして無事に生きていることが出来るのはほかでもない、私が孤独を知ることが出来るだけ、周囲に人がいてくれたからだと思った。それも優しい人たちが

7.アウトプットしたい欲が高まる

今、とてもアウトプットしたいと思っている
声が出ないということは自然とインプットが増えることになるという気づきを得た。自分から発することが少なくなれば、相対的にインプットが増える。一人暮らしで本を読むとか、動画をみるとか、そういう生活であればなおさらだ。おそらく体力や気力が徐々に回復してきていることも多いに関係していると思う。
私は自然と書くことが増えた。文章を。頭に思い描かれた絵や物語を書くこともあれば、読んだ本の感想文を書き、私が最も職場で尊敬している読書好きな上司に勝手に送り付けること、(以前、書いたものを見せたら、『こういうのLINEに送ってよー。ゆっくり読みたい』と言われたのでそうしています。決して自己満ではありません笑)自分のフォルダーの中にだけそっと入れておくものもある。
昨年の冬のボーナスでiPadを購入したため、読んだ本から考えたこと、感じたこと、また、日々生活をしている中で降ってきた単語や一文をメモ書きしやすくなり、ますます自ら言葉や文章を生み出すことに楽しみを覚えている。
考えること、感じること、そして自分で生み出すことを私はずっと好んできた。0から生み出されていなくても良い(というか私は0から生み出すことは出来ると思っていない)。1から2にすること、1から6にすること。何かを模倣している間に自分独自のものが生まれると思い、生みたいものを生める形で生み出している。
しかし、今の私には一つだけ出来ないことがある。それは人との会話の中から何かを感じ、考え、生み出すことである。声が出ないことはスムーズに会話が出来ないことでもある。筆談で出来なくもないが、恐ろしく時間がかかるし、テンポよく出来はしないし、正直、心身ともに疲れる。そんな、声ではない方法で会話をしていて心地よいと感じられるだけの人に私はどれだけ出会えるだろうか。きっと私が思っている以上に多くいるのだろうけれど、もともと文章でのやり取りのほうが好きなことも相まってか、私の心の準備が整わない限り難しいなと正直、思っている。
ただ、最近、少しずつ筆談でしかやり取りが出来ないけれど、人に会いたいなとか、話がしたいなと思えるようになってきたように思う。疲れて、傷ついて終わることも今までにはあったけれど、それでも人の中に私はいたいと思う。
「一人じゃ孤独を感じられない」と歌詞に書いたのは宇多田ヒカルだが(※2)、人の中にいる時間があるからこそ、一人でじっくり生み出せるものがあると思う。

8.おわりに

一年近く、新天地での暮らしや仕事に邁進していたため、それ以外のことに目を向ける間もなかったように思うが、二年目になると少し余裕も出てきた。そのため、これからは、これまでやってきたこと、また仕事をする中で新たに感じたことや考えたことから広がった思考を深めたいと思っている。
そして、学生時代にお世話になった方たちの活動すべてに目を通すことが出来ていないけれど、それぞれの場所で、それぞれの思いをもって、今後もどうかそのまま心身健康に続けていられますようにと祈っている。

9.って終わらないのがわたしです、のおまけ。

仕事はお休みしていますが、働くこと自体は大好きなので、声を必要としないもので、何かまた、これまでかかわってきたものにかかわれるといいなと思っています。
お邪魔にならない程度でお手伝いできることがあれば、こっそり教えてもらえたら喜んでやります。
人とかかわる、やり取りをするリハビリにもなるので、良いご縁があるといいな、なんて。ちなみに興味関心は相変わらずですのでね。
そして、コロナも落ち着き、新幹線の通る街にやってきた利点を活かす時がやってきたので、今までパソコンの向こう側でしか出会えなかった方々に変に緊張したり、勇気を出したりすることなく、会えるようになれたらいいなと思いながらいます。
本当にこれで文章を終わりにしたいと思います。
それでは、また。


※1『やめるときも、すこやかなるときも』窪美澄

※2 『for you』宇多田ヒカル


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