見出し画像

語ることと信ずること (唾玉録 一) (霜舟記)

唾玉集という、明治期の作家等へのインタビューを集めた本がある。インタビューではないが、気楽な雑談というつもりだから、それに因んで唾玉録という。


鉄斎展

出掛けた帰途、鉄斎展の表示が目に入った。近付いてよく見ると、京都国立近代美術館は金曜のみ普段より二時間長く開いていて、その間は少し安くなるのだという。ちょうど金曜日だったので、岡崎公園に飛び交う外国語の中で散り残った桜を眺めたり、ナンで重たい腹を横たえてみたり、買ったばかりの古本を検分したりして、六時まで暇を潰した。考えてみれば当たり前だが館内に昼夜の区別などあるべくもなく、階段の踊り場と休憩所にのみ開かれた窓と、客の雰囲気が辛うじて夜を告げていただけで、夜の展示ならではの面白味は感じられなかったが、とにかく展示はよかった。
私は以前から、西洋画を鑑賞するのは疲れる、日本画は安らぐ、と思っている。西洋画は、写実的な風景画のようなものでも、静物画でも、宗教画でも、どこか抽象的な感じがするが、日本画は懐手して流し見をするのも、また、ためつすがめつ睨め回すのも自由だと感じる。だがそれは、私にとって西洋画の画題やそこに現れている気分が馴染まないというだけの話で、決して公平な考えではあるまい。嵐山やら老子やらを描いた作品を鑑賞する際に、外国のものに比べて苦労しないというのは当たり前といえば当たり前である。
とにかく今回も私は、余り眉を顰めたり首を捻ったりせずに楽しく見て回ることができた。どの作品でもじっくり隅々まで鑑賞したら相当面白いに違いないと思うから、かえって余り鑑賞といった態度でなく見ていたのだが、それでも鉄斎(無論署名等は鐵齋である。印や自署には「鉄斎」などという字はないのだから、「鉄斎さん」というのは私が見てきたものとはまるで別人のように思う。が、時勢には抗えぬので、抗わぬまま「鉄斎」と表記する)という人の、得も言われぬ愛くるしさはいつとなしに私の胸に痕を残していた。今はそれを語る言葉を持たない。眼前に据えて愛玩すれば、そのうちに少しづつ起こってくることであろう。売店で売られているレプリカや絵葉書は、不思議なほどにあの愛嬌を感じさせなかった。美術品を蒐集するという欲を初めて覚えた。
数日後、再び行ったが、生活上の雑事に煩わされていたため、いくら眺めていても前ほどの感動は得られなかった。また展示替えがあるという。

読んだ本から

法藏館文庫が出始めた時、驚き、興味を持ちはしたものの、手に取るまでには五年掛った。私の蝸牛の如き勉強がその間に少し展開したのである。高取正男の『宗教民俗学』に収録された諸論考は、堅実な論展開ながら、読者の胸に訴える立体的な迫力も兼ね備えている点で、面白い。高取正男については『日本的思考の原型』で、面白いことを書く人だくらいの印象だけはあって、『宗教民俗学』もかねて気になっていたのだったが、中村生雄の『祭祀と供犠』、こちらは著者も知らなかったし書名にも別段惹かれたわけではない。これは、法藏館文庫の並びになければ出会うことのなかった本だ。私はこの本を多くの人に勧めたい。まず、表紙には鹿の絵が印刷されてあり、帯には「日本における供犠は『食べる文化』である」と書かれている。それで、序章を覗くと、そこで語られているのはイエス・キリストの犠牲死のことなのである。なんとも壮大なパースペクティブだ。実際、本書の議論は供犠を中心として身体観、霊魂観、自然観といったところまで広がる。書き振りも、先行研究の流れを整理する周到さに加え、引用文や論展開を判明にさせるための説明も実に丁寧であるばかりか、一見些細な事象から一般的な問題に迫るという民俗学らしい面白さを持った鮮やかな書き出し、それに、現代の風潮への軽い(内容は決して軽いものではない)批評と、感心し、勉強になるところが多い。先日この本を置きっぱなしにしていたところ、動物倫理を主義の一つとしている友人が、表紙をじっと見ていた。そこへ、別の人が入ってきて話し始めたから、それ切りで仕舞ってしまったが、彼のような現今の理論をよく知る人に、この本を読ませたらどんな感想を抱くだろうかと考えた。

日本語の言葉が残す印象

ある小説に、>Leidenschaftliche Zerstörer sind am Werk, rücksichtslose Ausbeuter, die sich den Mantel des Sozialismus umgehängt haben<とあり、またその少し後に>Die Auslöscher sind am Werk, die Umbringer<とある。訳書ではそれぞれ「熱狂的な破壊者たちが仕事に取りかかっている、社会主義のコートに身をつつんだ容赦なき搾取者たち」、「消去する者が、殺戮する者が仕事にかかっている」となっている。これは決して悪い訳ではない。この本をここまで読んできて、訳文に違和感や不満を覚えたことはないと言っていい。しかし、原文では一読して読み過ごし得ない反復が、訳文ではほんの僅かにしか伝わらなくなっていることは間違いない。二つのフレーズではいずれの場合も、sind am Werk(仕事に取りかかっている)という並びが含まれ、しかもそこで終わった一文に、後から主語の言い換えが加わっているという形も共通している。ここまでされて気付かぬとすればよほど不注意なわけだが、訳では気付きづらいのだ。まずsind am Werkという音の響きに対して「仕事に取りかかっている」という音は、明らかに印象に残りにくい。それに、ドイツ語の方が文構造がかなり見やすい。要するにドイツ語は音も文構造もキビキビしていて、日本語はそうでないということであろう。sind am Werkと同じくらいに耳に残るためには、「目下作業中」くらいにはゴツゴツした表現を用いねばなるまい。無論その場合、読みやすさは幾分か犠牲になるであろう。文構造の方はどうしても限界がある。日本語の場合、読点で区切られた個所同士がどういった関係にあるかなどは、一目で分からないことが殆どであるし、読む方でも気にしない。そうしてみると、日本語はやはりつらつらと流れていくようなところに一つの特徴があるのであろう。韻文の外国文学の翻訳が難しいのは、韻文だからというよりこういうところに原因が有るのではなかろうか。シェイクスピアとラシーヌが、技法としてどれほど近いか遠いか知らないが、両者と近松とはよほど隔たっているであろう。

埋もれていた原稿

上の「ある小説」とは、トーマス・ベルンハルトの『消去──ある崩壊 Auslöschung : Ein Zerfall』である。私は今この、原著のペーパーバックで650頁、訳書で504頁ある本(ふつう、翻訳というものは元より長くなり、さらに後書きも付くのであるから、150頁の圧縮というのは相当なものである。ベルンハルトの小説は殆ど改行がないところに特徴があるから、たださえダラダラと切れずに続いてゆく文章が、ページの中にギッシリ詰め込まれることになり、あまり読者に優しくない圧縮であると思う)の、最初の改行、すなわち前半部の終わりまで読み終わったところだ。例に漏れず面白い。そこへ丁度、あるところへ出すつもりで一年前に書いた彼の別の作品についての感想が見つかったので、いわば私自身の反省のため、ここに載せておこうと思う。作品は『樵る──激情』というもので、一年半前に出た翻訳を読んだのである。

普段ならしないはずのことを、ちょっとした状況や気分のために、思いがけずしてしまう、そういう経験は誰にでもあるだろう。してしまったのが好ましくない事柄であれば不愉快もひとしおである。この小説はそんな出来事を描き出している。そういう場合、不愉快なのはその事柄というより、そんなハメになった、それも幾分かは自分のせいで、という事実なのだ。ネットの投稿を心底馬鹿にしながらネットがやめられなかったり、色恋沙汰にうつつを抜かす世人を冷眼視しながら誰かのことで絶えず気を揉んだり、我々はしばしばそういうザマを晒す。小説を通して、そんな人間の姿をまざまざと見ると、滑稽に見えるとともに哀れに感じられる。
イプセンの『野鴨』が度々言及されることは、本書がそのオマージュであることを示しているだろう。社会を離れた内面的理想と、社会の内での調和をともに主題化しつつ、それらの両立も妥協も認めないという構成を、本作も持っている。イプセンの劇にないものは、自分自身の振る舞いが自分の本心と乖離してしまうことへの嫌悪である。作家はひたすら「私」の心の動きを追う。しかし本心とは何なのか。自分の振る舞いへの嫌悪が事後的に生んだものではあるまいか。だとすれば、本心に適う振る舞い、あるいは良心に適う振る舞い、結局のところ、正しい振る舞いとは何なのか。そんな問いを惹起せずにはおかない小説である。

自意識との対話

自意識というものは、自分の言動や心の動きを見て、恥ずかしくなったり疚しくなったり馬鹿らしくなったりするやつのことを言うのであろう。昔語りをするのは楽しくても、昔語りをする自分は惨めったらしいということもあれば、全然好きでない絵でも、それを飾ることは面白いということもある。自意識は自分の姿を痛々しく思ったり面白がったりするわけだが、自意識を抱いている自分の姿をどう見るのであろう。得意げに自慢話をして、自意識がそれをみっともないと感じた時、「自慢話なんかしてみっともない」と思っている自分を、自意識は何と思うか。「自慢話はたしかにみっともないが、みっともないと自らを貶めている俺も決して褒められたものではない、自慢話をする俺は、それを恥じる俺と同じ俺じゃあないか、突き放して考えるのも、『俺は自慢話をみっともないことだと思う一人前の人間だ』という自己欺瞞に他ならんではないか。一体、自己卑下というやつは、わざとらしい謙遜と同じで、卑下する自分を卑下される自分と対照して持ち上げているんだ。俺は俺を隠し立てたり切り捨てたりすまい。何故ならそれは自己を良くすることでなくよく見せることに過ぎないからだ。ああつまらん。俺はなんて駄目な人間だ、俺はなんて駄目な人間だなどと嘯くのは、実につまらん。そんなことで卑屈になったところで何ら得るところはないではないか。それならば、けっ、しょうもないこと言ってらあ、と自分を笑い飛ばしてやる方が幾層倍マシなことか。なるほどだから人間は笑う動物だというわけだ。つまり自分を否定するだけでなくて、同時に抱き締めてやることができるからだ。しかしもっといいのは始めから俺が利己的な心を抱かないことだ。つまり自足するということだ。畢竟、不愉快なのは自慢話をしたことでなくて、自慢話をしなければ気が済まんような状態だったことである。あれこれと気に病み、物思うことは、結局不安定な状態を出来するにちがいない。だからもういろいろと考えんことだ、そうして自足して、楽しく呼吸することだ」。そうして自意識は否定される。しかし明るい方の自意識はその限りではない。私は旅先などで迷子になることが好きだが、それは「自分が道に迷っている」という状態が楽しいからに違いない。道端の草の葉に虫が乗っていたり、猫が座っていたりするのは何となく心地良い気がするが、そのとき心地よいことを感じて一層心浮かれるのである。自意識というものは、常につきまとっているものでもないし、必ずしもあるべきものでもない。楽しければその方がいいのだ。だが、と此処で再び考えるのだが、果してそれだけのものだろうか。うるさいから耳を閉ざしているだけで、ずうっと脇で差し出口を挟んでいるのかもしれない。しかしまた、先の論法で行けば、俺にはいつどんな自意識があるのだろうなどと自問することもまた、不健全なことに違いない。あまり余計なことに心煩わされることなく日を暮らしたいものである。

小林秀雄の言葉より

先日(4月11日)、小林秀雄の誕生日ということで、巷では騒ぎになったようである、などとは到底言えぬ様子であるが、それは誕生日だと言って騒ぐのは馬鹿らしいという、もののわかった人が多いからか、それとも誕生日にかこつけて再び小林を紹介しようという人が少ないからか、知らぬ。私は、誕生日で浮足立つのはマア阿呆臭いと思うし、再紹介を企画するほどのお人好しでもないけれど、誕生日だと言われれば、多少は素直に小林のことを考えてみるくらいのところである。
で、私の好きな作品は、「慶州」、「當麻」、「無常といふこと」、「匹夫不可奪志」等々であるが、それらは名を挙げるだけで満足しておいて、それとは別に私の印象に残っている文句を引きたい。

私は近頃になつてやつと、次の事が朧気ながら腹に這入つた様に思ふ。それは青年にとつてはあらゆる思想が、単に己れの行動の口実に過ぎず、思想といふものは、いかに青年にとつて、真の人間的な形態をとり難いものであるか、という事だ。成る程言葉は簡単だが、事実は非常に複雑である。この欺瞞は、情熱の世界にも感情の隅々にも、愛情にも憎悪にも、さては感受性の端くれにまで、その網の目を張つてゐる。いくら社会を眺めても、本を読んでも、政治行動の真似事をしても、自分の身を省みなければこの謎は解けぬ。私の貧しい体験によれば私の過誤は決して感情の過剰にはなかつた、自他を黙殺して省みぬ思想の或は概念の過剰にあつた。ものの真形を見極めるのを阻むものは感情ではなかつた、概念の支配を受けた感情であつた。今日の新文学ほど青年のあらゆる意地の悪さ、虚栄心を誇示した文学はない。社会的焦燥にかられ己れを忘れた理論が横行してゐる時はない。

「現代文学の不安」

一体小林の初期作品は、複数の話題が錯綜しながら共鳴していたり、また当時の文壇の状況を脇に見ながら語っていたり、抽象的な表現が生のまま(というのは、具体物を抽象化したのではなく、彼の思想の抽象性から出た表現だという意味だが)現れたりと、読み辛いのだが、ここも例外ではない。こうした読み辛い文章については、まず語り直しから入るべきであり、また語り直すことは自ずからその感懐の表明になるであろう。
最初の二文の内容は「青年にとって思想というものは、たいてい非人間的な口実に過ぎぬ」ということに尽きる。が、そう言ってみたところで事態は判明にならない。まず、「思想」とは、自ら紡ぎ出した思考によってできた自分の思想という意味ではないようである。ここで「思想」は始めから理論とか概念とか、果ては社会的焦燥とかの仲間として語られている。〇〇思想とか〇〇理論とかいう、あれだ。そうしてそれは行動の口実に過ぎぬという。口実に過ぎぬとはつまり、表向きの理由として利用されているということだ。実際には行動理由は別にあり、口実に使われた思想は理解されてもいない。そうすれば、「真の人間的な形態」の意味するところは難しくない。思想が実際に理解され、我がものとされて、行動を生み出すということだろう。これを踏まえれば、あとは自ずと明らかである。「この欺瞞」とは、実際の行動の理由と、行動の口実との乖離であり、「意地の悪さ、虚栄心」とは思想によって覆い隠された実際の行動理由のことであり、「自分の身を省みなければ」分からないのは、青年が自分の本当の動機を知らないからだ。
社会的焦燥にかられ、思想を行動の口実にするのはいつでも容易い。青年(年齢の問題ではない)が自分の身を省みることは難しい。
理論を口実にする人、それどころか、それに開き直っている人は、今だって少なくない。私が事あるごとに小林のこの文章を思い出す所以である。

人間への信

人間は信じるべきである。どうあっても信ずべきである。それ故に、人間への信を裏切る行為はすべきでなく、常に、人間への信を守るような仕方で態度決定すべきである。私はそう信じており、そう信じずにはいられない。
人の信念の元となった出来事というものは、大抵些細なものだ。私の場合それは小学校の教師の一言であった。今から思えば教育にその他の業務にやんちゃ生徒の扱いに、あるいは自身の将来に、随分せっつかれて心の休む暇もなかった気の毒な教師であったのかもしれない、とにかく、子供でもはっきり見て取られる(というのは嘘で、逆に子供のほうが鋭敏に見抜くものであろう)なんだか余裕のない、常に心此処にあらずの態で、その苛立ちをどこに向けてよいか自分で知らないといった様子の教師であった。今と変わらず仮初にも偽りを認めることが嫌で仕方のない、融通の効かない、可愛げの無い児童であった私は、何度か(覚えていないが、本当は何度「も」だったかも知れぬ)目を付けられたのだったが、その出来事というのを手短に言うならば、謂れなき罪に問われ、弁明にも聞く耳を持たず、罪状を押し通し、挙げ句謝罪まで強要したというものである。どんなつまらないことでも本心に適わないことは言わぬ、せぬと我が心に誓っていた私としては、その権威と権力によって強いられた謝罪は如何にも辛かったが、言い返そうにもそう巧みに弁舌は回らず、大人の目と声の力をものともせぬほどの度胸もなかったが故に、泣き寝入りに寝入るしかなかったわけである。そういうわけで私は大人が一切合切疑わしく見えてきた。大人になるということが、世の中を知り、人を知り、独り立ちして、自分で物事を判断することでないならば、一体何だろうと、大体そんなことを考えたであろう、というのは、小学生の頭でそんなまとまった思考が紡げるわけもないので、あとから言語化したものに過ぎないのだが。ところで私は大人ということについて今言ったような風に今なお考えている。当時の私は見かけは当てにならぬということを知らなかったのだ。やや大袈裟なようだが、のちに社会科の授業で冤罪のことを習った時、私はその教師のこと、その時の悔しさを思い出したものである。
この種の出来事は、別に珍しくもないであろう。自分の繊細さをひけらかしているだけだという人もあるかも知れぬ。が、そういう人のように世間の不条理と妥協し、諦観的に順応して小ちゃく収まっているのは何とつまらないことか。この事件はたしかにありきたりではあるけれど、私の屈辱は非常に重要な問題を示唆している。私は謝罪を強要されたが、謝罪をすることが不名誉だと思ったから悔しかったのではない。謝罪の事由について、双方に意見の相違があり、しかもその相違を承知の上で、ということは単に形式的に謝罪を求め、それをさも正当なことであるかのように振る舞っているということが不愉快で仕方がなかった。今から考えれば、もし子供相手にまともに議論しても仕方がないと思われていたなら子供扱いが過ぎ、もしマアマア納得できないところもあるだろうけれどここは一つ場を丸く収めるために頭だけ下げてくれろというつもりであったなら大人扱いが過ぎる。おそらく両方正しいのだと思う。つまりは子供だからと見くびられ、かつ自身に染み込んでいたセコい根性を子供にもあるものと思い込んだわけである。問題はここにあるのだ。大人はセコい、それはまあいい、仕方がなかろう。しかし薬が効きすぎて、そのありがたい効能が余計な場合にまで効いてしまってはいないか。世故というものは、ひとたび人間が社交辞令を捨て、面と向かって言葉を交わすならば、無用の長物にしかならぬ。生身の人間として向かい合う時、それが親しげな雑談であれ、意見の相違を巡った議論であれ、対話相手を信じなければ何も始まらぬ。相手を信じるか、さもなくば……。そんな不退転の相手を前に、セコさ丸出しで尻を出し、ほんならとトンズラこくなどという手合は、一切の人間(その意味を考えられたい)の仇敵に他ならない。
人間は信じるべきである。どうあっても信ずべきである。私はそう信じており、そう信じずにはいられない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?