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essay | 神話に関する一考察。

 あまり神話には詳しくない。しかし、最近、神話や民話というものについて考えている。
 文字を介さないで後世に、その時代に起こった出来事を伝えるとしたら、どのように伝えればよいかと。

 今の時代を生きる私たちならば、歴史と言えば、教科書的な記述の方法や年表を使って歴史を残そうとするだろう。あるいはそれに映像を付け加えるだろう。

 起こった出来事を時系列に並べて、Aが起こったからBが起こって、Bが起こったからCが起こって……という方法は、とても科学的ではあるけれども、記憶にはなかなか残りにくい。だから、ヘロドトスであれ、プルタルコスであれ、司馬遷であれ、編年体の歴史書ではなく、人物本位の歴史書を書くことにしたのだろう。

 今の世の中は、遠い昔とは比較にならないくらい映像や文書を大量に残すことができるようになったが、それに圧倒され、埋没してしまっていないだろうか?

 例えば、古代史や考古学のような学問の場合、文字による歴史はあまり後世に残されていない。史料が少なすぎて仮説や考察を積み重ねて、当時の歴史に迫っていこうとするので、明確にはわからないことが多い。
 それに比べたら、昭和史の史料は、ひとりの人間が一生を費やしても読みきれないくらい豊富にある。しかし、史料が多すぎてどれが真実なのか確定することが難しくなっている。
 古代史は史料が少なすぎてよくわからず、昭和史は史料が多すぎてよくわからない。

 そこで、どうやって資料(史料)の多寡を乗りこえたらよいか?、と考えてみると「神話」や「民話」というものの価値が理解できるような気がする。
 物語とは人間の心に直接うったえかける力があるのではないかと。
 今でも、例えば、専制君主的な国家では、指導者は「神話作り」に躍起になっている。それがいいことか、悪いことかという議論をひとまずおくとして、これからの歴史にも「神話・民話」のもつ力が、ますます増して来るように思われる。科学的な思考でしか考えないことは危険である。

 

 

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