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「静かに垂れた手」(一部無料記事)

ヘルマンヘッセのシッダールタの中で「静かに垂れた手」という言葉が、印象的に何度か出てきます。独特の雰囲気がある言葉だと思います。

若き日のシッダールタは、仏陀を見て、顔や歩き方とともに、手を観察していました。観察している中で、この言葉が使われています。

「静かに垂れた手」とは、どんな手でしょうか。

手は、握る(グーをする)ための筋肉と開く(パーをする)ための筋肉がついています。開くことに比べて、握ることの方が、私たちの生活の動作では圧倒的に多くあります。また腹を立てたり、何かに怖くなったり、感情的なものによってグッと握り拳を作ったりもします。

産まれたばかりの赤ん坊の手を触ったことがある人は、その手の柔らかさを思い出してください。緊張が、その手にはまだありません。私たちの手は生きていく中での癖や習慣、生きていく上での反応によって、何かを握ったような状態が普段の手の形になっていきます。その手には、緊張がこびりついているとも言えます。

緊張した手は「静かに垂れた手」と対極の存在です。とは言え、赤ん坊の手とも違います。赤ん坊の手が柔らかいのは、まだ生命がはじまったばかりだからです。「垂れた」という言葉からはもう少し奥行きを感じさせます。無垢さなどとはまた違った印象を受けます。何かが抜け落ちて、垂れたといったプロセスの後の状態を想像させます。

私たちは「肩が凝っている、ほぐれている」といったように、肩の状態の変化については関心を持っています。その緊張は自覚しやすいですし、巷には肩凝りを揉みほぐしてくれるマッサージ屋さんも実際にたくさんあります。ですが、上腕や前腕、手の緊張に対して働きかけるマッサージは聞いたことがありません。

ゲームを長時間したり、長くものを書いたりして、前腕がだるくなった時は、その場で揉んだりするでしょう。腕や手の緊張はその程度で解放されるはずもないので、蓄積されていきます。腱鞘炎のように問題が深刻化しなければ、そこに関心を注ぐことはなかなかないのかもしれません。

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