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世間や普通なんて妄想、捨ててえよ!!!!!!!

改めてなんだよっつー話ですが、最近他人の感性に圧倒されることが多いです。
世の中色んな種類の妬みがあって、
色んなロマンチックの表現の仕方があって、
ファッションからは到底読み取れないようなメルヘンさを内に秘めていたりする人もいたり、
逆に柔らかい印象の人がこっそり温める暴力的な陰謀だったり、
人間っておもしれえな〜〜
と思う次第です。
(ワイすげえうざいおっさんみたいなシニアになりそう)

最近私の中であるトピックが熱いのですが、(クソ個人的)それは、
自分が定めた「世間」というものとの向き合い方です。

世間、世間、とよく言いますが(私もよく言いますが)
世間という言葉は大抵の場合、自分のアイデンティティにフォーカスする時に使う言葉であるように感じます。
自分は〇〇だけど、それは世間とはズレてる、ので私は少し風変わりかもしれない、みたいな使い方をされるような印象があります。
つまり、世間という、私以外の「普通」の人たちがいる、というように、
周りとは違う「私」にフォーカスする時に使われる言葉だと思います。

で、何が言いたいかというと、
この「世間」という言葉を使う時に、人はかなり主観が強くなるので、使い方に気をつけてえな、という話です。
(私が主に、です)

そもそも世間、ってなんだよって話ですが、
私は自分が作り上げた妄想なんじゃね?と思います。
私は皆とは違うから会社員にはならない!とか
僕は人とは違うので髪型を奇抜にするぞ!とか
何の話笑って感じの例を挙げてしまいましたが、そこでいう皆とか人とか世間とかというものは、幻で妄想なのではないか?と思うという話です。
多分、自分が選ばなかったほうの世界に生きる人を、世間とか普通とか人は呼ぶんかなと思うのですが、そうすることによって自分を正当化したいってことなんでしょうか?
多分、どちらも経験してみたら、その「世間」というのはどんどん対象が狭くなっていくんではないでしょうか。
なんとなくボカァそう思います。
だから、他人の人生を、世間、とか、普通、とかそういう風に軽々しく言うのは辞めてえなと思う次第です。
まじで何の話って感じですが、強く思うのです。

なんていうか、全ての人を世間という一括りの風景に仕立て上げれば、
単純だし、
自分が生きていく上で都合が良くなるかもしれんのですけど、
その単純な平地が広がれば広がるほど、
他人の生き様に触れるという気力も、他人と触れ合った時に発生するワクワクや楽しさも、
自ら失っていくのと同義なんじゃないかとボカァそう思うのです。

逆に、世間という単純な平野を少しずつ狭くして、そこに咲くキモい花だったり、そこにもっこり存在するいびつな山だったりをちゃんと見ようとすれば、
世界はもっと複雑で面白みの溢れたものになると思うし、
すごく危険で怖いものになると思う。
でも、そっちの方が面白い。
今のところ、それを面白いと思う心の余裕もあるし。
私の心が狭くなって、豊かさを欠いてもいいから自分の殻に閉じこもりたいと思った日には、
それらを見ないようにして、全部「普通」とか「世間」とかいう平野に変えてしまえばいいやんとボカァそう思うのです。

何が言いたいかというと、
完全に私が個人的に思うことなのですが、
自分が受け入れようとしないこと、向き合おうとしないことが増えれば増えるほど、
この世は「普通」VS「自分」になっていくと思います。
でも、受け入れ向き合う勇気を持った時、普通や世間という言葉を忘れてしまうくらい、
世界はいびつで恐ろしくて危険で楽しいものに変わっていくのではないでしょうか。
まとめたはずなのにまだ分かりにくいのは、私の語彙力のせいだ。
あ〜〜もう無理FUWAFUWA

最後にくそ関係ない話ですが、
サンクチュアリ主演の一ノ瀬ワタルさん回の相席食堂観て、
めっちゃ喋り方、私やんけ!
と思いました。
くそ関係ない話でございますけど、
生き別れのお、おにいちゃんなん!?!?
と思わず叫びました。
くそどうでもいい話でした。

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