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イベント報告「教えて、牧師さん!~キリスト教超入門?」#1,2022/10/15

はじめに

先日職場の教会で、地域の方を対象にイベントを開催しました。
「教えて、牧師さん!」……ちょっと偉そうなタイトルですが(笑)

「教えて、牧師さん!」チラシ(主催:ふじみ野バプテスト教会

簡単に言えば
キリスト教について、聖書について
宗教について、そのほかなんでも
気になることを牧師さんに聞いてみよう!
という趣旨のイベント。

参加してくださったのは
地域の方をはじめ、教会の信者さんを含む6人の方。
(はじめてにしてはよかったかな?)
自己紹介なし、話しても話さなくてもいいという「対話のルール」
ざっくばらんに、以下のような問いが出てきました。

参加者から出てきた問い

  • 神さまはどうして災難から守ってくれないの?

  • 日本ではどうしてキリスト教信者が少ないの?

  • キリスト教はこれから日本で流行る?教会の存続について

  • 日本文化とキリスト教

  • 神さまってそもそも何?(存在、定義)

  • 信仰が違う場合どうしたらいい?(友人、家族)

  • キリスト教には、守らなければならないことが
    あるの?

  • 人は死んだらどうなるの?葬儀そのほかと宗教について

問いを出すのに1時間。
途中、最近話題になっている「統一教会」の話題も出
「(既成・正統)宗教と新興宗教やカルトとの違いは?」
という問いも出てきました。(このことについては後述)

多数決で、今回は太字の「日本人とキリスト教」
というようなテーマで話すことになりました。

当日のメモ

日本ではどうしてキリスト教信者が少ないの?

これに関しては、日本の「多神教」という文化的土壌と
キリスト教の「一神教」とのギャップがあるのではないか

という意見がありました。

また、日本人が「私は仏教徒です」というとき
それは文化的に、ゆるやかにその宗教を
受け入れているというような意味であることがほとんど。
それに対してキリスト教信者が
「私はキリスト教信者・クリスチャンです」というときには
その「信仰」はとてもはっきりしている印象がある
その背景には、「一神教」ということがあるのではないか。

実際、信者である方に
「キリスト教は『信じやすい・信仰しやすい』宗教だと思いますか?」
と質問すると、答えはノー
皆さんそれぞれ、何らかのキリスト教との接点がもともとあって
その背景からキリスト教と出会い、信者となったという話でした。

「一神教」の強さについて

「一神教」という宗教的な特徴についても話題になりました。
それは、ただひとつの「正義」や「価値」を規定するもので
そのために一神教は「規範的」「独善的」になりやすい
そんな強さをもっている

それが(宗教)戦争にもつながるのではないか。

しかし、この自身を「正義」とする
自身の「価値」を正しいとするのは
人間誰しもがもっているものではないかという話にも。
問題は、そのことに自覚的であるかどうかということではないか。

「(既成・正統)宗教と新興宗教やカルトとの違いは?」

ここでこれに関して
「自身の間違いについて反省し、振り返った歴史」をもっているか
それがその違いではないかという話に。

キリスト教は過去
その時々に、その教義や立場の正当性を主張し
そのことによって暴力を正当化し
たくさんの人の命を奪ってきた歴史があります。
その反省と振り返りの上に
今のキリスト教会の教義やあり方があります。
今日でも、反省と振り返りの歩みが続けられています
(平和やフェミニズム、障がい、宗教間対話などについて)

あらゆる組織や立場が
独善的・独裁的・カルト的になってしまわないために
この「自身の間違いについて反省し、振り返った歴史」
その積み重ねが、私たち一人ひとりに必要
なのでしょう。

教会の存続について

これについては
信者さんのなかから切実な声が聞こえてきました。
「昔、一緒に教会に来ていた友人たちが
 いまは皆いなくなってしまって寂しい」
と。
年齢を重ねても来続けることには難しさがあるのか。

しかし、実際教会には幅広い世代の方が来ています。
ふじみ野教会の場合も10代から90代まで
ここまで幅広い世代が集えるコミュニティというのは
社会においてなかなか珍しいのでは
ないでしょうか。

幅広い世代が集える場所であるということは
コミュニティとしてとてもよいことでしょう。
難しさは、そのコミュニティが閉じていないか
新しい人に開かれているか、でしょうか。

そこで先ほどの「一神教」の強いイメージ
信じにくさというものが影響している気がします。

目的は存続か?幸せか?「聞く耳のある神」

こんな問いも出されました。
私を含め、信者たちはちょっとドキッと。
目的を見失ってはいけないなと思わされました。

キリスト教の教義も、人を苦しめるためではなく
人を生かすため、人の幸せのためにあるはずです。

「一神教」の神もまた
絶対的な正義や価値を押し付ける神ではなく
人の言葉に対して「聞く耳のある神」である
という言葉が出てきました。

キリスト教が
「自身の間違いについて反省し、振り返った歴史」をもつのは
キリスト教の神、聖書に描かれている神がまた
そのような、「聞く耳のある神」「思い直す神」だからであると。

「一神教」であるキリスト教の強いイメージが
少し変わったような気がした私たちでした。


「教えて、牧師さん!」次回の開催については
SNS、ホームページをご確認ください。


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