目的なんて、なくっても。
20代なかばのころ、「会社をやめて海外へ行く」というと、だいたい聞かれることは決まっていた。
そのひとつが、「目的は?」という質問。
会社をやめるなんて、それで海外へいくなんて、そんな大きな決断をするからには、きっと何かその先に、成し遂げたい大きな目的があるのでしょう?MBAとかとるの? 将来どうするの?
そう言いたげな視線をいくつも受けとめてきた。ダイレクトにそう言われたこともある。
そのたびに当時のわたしは、なんだかモヤモヤした。
目的、目的って。目的ってそんなに大事なのだろうか。
* * *
いや、わかるのだ。
「目的は何か?」「手段は何か?」
会社員になってからはもちろんのこと、大学のサークル活動時代ですら、わたしたちは常にそう考えるべきだと言われてきたし、それが習慣のようになっていた。
「目的と手段を履き違えるな」「それは手段の目的化だよ」
そんなアドバイスや批判もたくさん受けてきたし、なんだかそれはもっともらしく響いて、仕事を進めるうえでは確かにそうだな、と納得して腑に落ちることもあった。それは事実だ。
そうやってたくさん問われるなかで、いつしか自分も友人や知人の悩みごとを聞いていて、「でもさぁ…、結局のところ、目的を整理してみると、こうなんじゃない?」とか、わかったようなことを言っていた若かりしころもあった。
いま思えば、ものすごく恥ずかしい。
「目的は?」という問いを発することで、わたしは論点を見失いませんよ、冷静に物事を考えられますよ、みたいなことをアピールしたかったんじゃないかと思う。大学生のときは、できるビジネスマンみたいに背伸びすることに必死だった。
* * *
会社員になってからも、その傾向はさらに深まっていった。企画書には必ず「目的」があるし、そもそも目的を達成するために企画があるのだから、「すべては目的ありき」と注意するようになっていた。
手段が先行して、目的を見失うな。耳にタコができるほど、何度も繰り返しどこかのだれかから言われてきた。
そんなわたしたちは、「目的がないと動いちゃいけない病」になっていたのだと思う。
* * *
たぶん、だからこそ飛び出したかった。
目的ありきで、目指す方向が見えていてそこへ進むことが、そんなに大切なのだろうか。
日々、物わかりのいいふりをして企画書と向き合いながら、自分の人生と照らし合わせれば違和感だらけだった。
世の中にはまだまだ、見ていないもののほうが多いはずなのに。目的を定める前に、見るべきものがもっとたくさんあるはずなのに。見た先で、考え方も行動も変わるはずなのに。
「広げたい、広げたい」。
20代前半のころの私の思いは、ひとえにそればかりだった。
まだまだ知らないことのほうが圧倒的に多い。想像もしていない世界もきっとたくさんある。
「まったく違う文化圏に住んでみたい。ゲストとして迎えられる旅じゃなく、日常を過ごす『暮らし』がしてみたい」という思いを募らせていったのも、きっとそこから派生したものだろう。
その先で英語を仕事に活かそうとか、MBAをとろうとか、外国人と結婚したいとか、そんなことはまだまだわからなかった。
とりあえず見てみたい。暮らしてみたい。しいていうなら、外国で暮らすこと自体が目的だ。
それは巷でいう「手段の目的化」ということになるのだろう。
* * *
いまひとつだけ言えることは、あのとき「目的は?」と聞かれたのを機に、外国へ行くことを辞めたりしないでほんとうによかった、ということだ。
「ああそうか、やっぱり、目的がいまいち定まっていないよなぁ。もうちょっと、その先で何がしたいか、ちゃんと計画していかないと」
とか、そんなことを考えて歩みをとめたりしないで、ほんとうに、心からよかった。
なぜなら、その時点の自分が想像できていることなんて、つまり、新しい環境に飛び込む前の自分が想像できていることなんて、あくまでその枠の範囲で考えられることでしかないからだ。
新しい環境に飛び込んでしまえば、当然だが、見えていなかった世界がどんどん見えてくる。
環境の変化が大きければ大きいほど、受ける衝撃も大きい。
こんな世界があったなんて。こんな仕事があったなんて。こんな暮らしがあったなんて。こんな生き方があったなんて。
自分が今までいかにちっぽけな世界のなかで完結していたかを、痛いほど思い知る。定めていた「目的」の根底を覆すくらいの衝撃が待っているかも知れない。
まずは一歩踏み出してみる。するとその先で新しい出会いがあり、まったく考えていなかった方向に人生が開けていくことだってあるのだ。それは、決してめずらしいことじゃない。
* * *
だからわたしは、無責任にひとの背中を押す。
とくに10代、20代の若者が、「こういうことやってみたくて」とか、「転職しようかと」とか「休学しようかと」とか、ときにはまさに「海外とかもいってみたくて」とか相談してきてくれたとき、絶対に「目的は?」とだけは問うものか、と決めている。
「いいねいいね、やったらいいよ、行ったらいいよ。ただ健康と安全だけは気をつけて」
そもそもわたしなんかに相談してきてくれる時点で、迷っていると言いながら本人の意志はもう決まっているのだ。そして、人から言われたからじゃなく、本人が腹落ちして決めたことならば、もう絶対にやってみたほうがいい。
ちょっとでもやってみたい、と心を突き動かされることをやるのに、先を見通した目的なんて必ずしも必要ないと思うのだ。どうせ、たぶん、変わると思うし、その見通し。
人は変わる。環境が変わればなおさらだ。
飛び込んだ先で、今度はなにが見えてくるのか。
そんなわくわくする若者の顔を見て、わたしもわくわくしてたい。
なにかをはじめるのに、目的なんて、なくたっていいと思うけどなぁ、おばちゃん。
自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。