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Day by day

 ちょっと肌寒くなってきた2015年の10月。新居に引っ越してから僕はすぐフラれた。一緒に住む予定だった彼女は、突然僕の前から姿を消した。事態を飲み込めないまま、ぼんやりする日が続き、気がつくと日常生活に支障をきたすようになった。仕事で上司からの指示を二度誤って、三回目で説教をくらった。怒られることに耐性のない僕は戸惑い、だんだん仕事に身が入らなくなり、常に頭痛や動悸がするようになっていた。ある日久しぶりに会った先輩に連れられて、精神科に行った。診断書を書いてもらい、(先輩がそうするよう言ってくれたみたいだった)年が明けるまで会社を休むことになった。失恋して心を病んで、仕事を休む、よくあるつまらない話だった。自分のことになると本当に自分のことだった。それ以上、表現のしようもないくらいにその通りだったのだ。
 新しく借りた部屋には、なけなしの金で買った家具たちが揃っていて、それらは既に部屋に馴染んでいるのに、僕だけが浮いていた。みんなまだまだフレッシュで、仕事ができそうで、何故か申し訳なくなった。こたつだけは実家から昔使ってたものをもってきて、そこで寝るようになった。2人用のベッドはシワひとつないまま、背もたれになっていた。
 こたつで寝て、たまに起きて、食べてえづくいてを繰り返しているうちに、何日か過ぎた。腹が減ってくると、空腹がどうしようもなく気になった。でもこたつから出るのは億劫だった。暗くなっていく外を見ていると、何故か夏休みを思い出して涙が出た。僕は夏休みの宿題を夏休み中に終えたことがなかったからかもしれない。何かが終わることがすごく怖かった。それでもカップラーメンを食べてNetflixで『フルハウス』を繰り返し見ていたら、寝ていて、朝が来た。

 また数日経った。晴れていることに気づいた。雲ひとつなかった。なんとなく体が軽い気がして、玄関のドアを開けると、穏やかだが、冷たい大気が心地よく、僕は外に出たくなった。コンビニまで行くことにした。お腹が減っていた。
 コンビニまで来てから、急に怖くなった。経った数日前には会社にいたのに、もうずっと声を発してない気がした。コンビニで店員と話すことが怖かったが、気がつくと僕は卵を買って店を出ていた。構えていても、起こることは一瞬で、ほとんどのことは大したことがない。少しだけ、前に進んでいるのかも知れない。

 次の日は小さい頃から買ってみたかった少年ジャンプを買った。知らない漫画しかなかった。その日も晴れていた。少し暑かった。
 次の日、今度はエロ本を買おうと、コンビニに向かった。喜んで部屋に戻って見たら、女性向けのファッション誌で、少し落ち込んだが、ちゃんと読んだ。みんな淡い色の服を着ていて、お洒落なのかどうか、判断がつかなかった。

 コーヒーを買って飲むようになった。コンビニの、100円コーヒー。それを飲みながら近くの公園でぼんやりする。ぼんやりしてから帰る。でも、カフェインのせいか夕方になると気分が落ち込むようになった。控えようと思った。

 数日経った。雨の日もあった。僕は駅前まで行けるようになっていた。行くだけで帰ってきた。それでも大きな進歩だと思うようにした。先輩が「それは回復に向かってる証拠だよ」と言っていたからだ。


 次の日も駅まで行った。駅まで行くことで疲れてしまった僕は、ふと見つけたカフェに入った。中に入ると愛想が良いとは言えないマスターがいて、モンゴメリーのジャズが流れていた。席に案内してくれた店員の女の子は背が高くて、綺麗だった。また会いたくなった。楽しみができた。
 次の日も行った。でもいたのは別の子だった。シフトが決まっているのだ。
 家で『フルハウス』を見ているのも退屈になったから、カフェに毎日行くようになっていた。マスターが顔を覚えてくれて、愛想が良くなった気がした。僕がコーヒーをブラックで飲むことはすぐ覚えてくれた。コーヒーを頼むときに、ブラックだと分かってくれるのは、通じている気がして、嬉しかった。
 ある日、レジで会計していると、マスターが声をかけた。
「お兄さんは、学生さん?」
「あ、いや、仕事してたんですけど、働いてたんですけど、なんかちょっと疲れちゃって、今は休んでて…」
「そうなんですね」
毎日休んでいる僕。マスターは休みなく働いていた。
「あの、マスターは毎日働いてますよね」
「そうですね、もう20年くらいになりますかね」
マスターは皿を洗いながら続けた。
「私も昔はちょっとだけ会社員をやってたんですよ。でも合わなくて辞めちゃいました。辞めたのが良かったかどうかは今でも分かりませんね。でもそれから休みなく、ここまできました。色々ありました。でも後悔はしていません。まあ、私も似たようなものかも知れないですよ」
食器がぶつかる音と、水道水が流れる音、誰もいない店でジャズが大人しく流れていた。
「急いだって仕方ないですから、ゆっくりいきましょう。ゆっくり、ゆっくり…いらっしゃいませ、こちらどうぞ、あ、ありがとうございました!」
 店を出て、数段しかない階段の途中で、僕は泣き出していた。ゆっくりで良かったんだ、間違って、なかった。

 年が明けた。仕事に行く前日は、上司に会うのが辛すぎて、会社に行くことが酷く恐ろしく憂鬱で、朝から何度かえづいた。その日の午後、いつも通りにカフェに行くと、いつも通りマスターが対応してくれて、コーヒーを飲むと、それだけで、なんとかなるような気がした。
 僕は社会に復帰していた。仕事をまともにこなせるようなり、土日はあのカフェに通うようになった。マスターはいつもいたが、女の子はみんな大学生のアルバイトだったから、卒業やら勉強やらで、一年以内には顔ぶれが変わった。僕は社会人だから、自分の意思でいつまでもそこにいられると思っていた。でも、そうはいかなくなった。人生は気まぐれで、僕があのカフェと出会ったように、偶然始まりがきて、終わりが来るのだ。
 神奈川の外れに転勤が決まった。元々僕は本社で使える人材ではなかったのだと思う。地方店でゆっくり仕事をすることを勧められて、そうすることにした。唯一の心残りはカフェから遠くなることだった。行けないほど遠いわけじゃない。でも、通うことはできなくなった。
「マスター、僕、転勤になっちゃいました」
「あらあ、そうなんですね、じゃあ、もうそろそろ来られなくなりますね」
「そうです。あの、また来ます、ご馳走様でした」

 それから転勤前の仕事の片付けが終わらず、土日も泊まり込みだったから、カフェから足が遠のいていた。仕事は終わりがあるのだと思うと気が楽だったが、激務だったことには変わりなかった。
 
 引っ越す前日、会社の近くで花束を買って、急いで部屋に帰った。どうしても、マスターに渡したかった。あの日救われたんだと、感謝の想いを伝えたかった。もう閉店までに間に合わないことは分かっていたが、閉店時間がすぎてもまだ少しはいるだろうと思った。駅に着いたら走って、いつもの数段の階段を駆け上がったが、シャッターが閉まっていた。ポストには新聞が刺さったままだった。その日は終日、休みみたいだった。せめて花束だけでもと思って、壁に立てかけたら、ずるりと倒れた。倒れた拍子に、メッセージカードが花束に付いていたのが見えて、思いついてリュックサックからペンを探した。ボロボロのリュックサックのぐちゃぐちゃな中身を探り、ペンを探した。暗くて見えなかったから、リュックを逆さにしたら、クリップとか書類とか中身が全部出たが、ペンはあった。壁の上でメッセージカードに名前を書こうとして、僕の名前をマスターは知らないことに気づいた。お互い名前も知らなかったんだ。
 暗い中で、ほとんど目を瞑りながら書いているみたいだったが、気力だけで想いを描いた。
「マスター、ありがとうございました、僕はゆっくり、ゆっくり進んでいます。美味しいコーヒーをありがとうございました。常連より」
 カードの大きさではこれ以上は書けなかった。暗い上に、壁の凸凹でまともに字が書けなかった。ほとんど読めないだろうなと思ったら、悔しくて涙が溢れた。階段を降りて、部屋に戻った。

 3年経った。また肌寒い10月。ふと思い立って、こたつを出てカフェを目指した。こういう時はあの落ち着いたジャズを聴きながら、何も考えないようにぼんやりするのだ。なによりあの声を聞きたかった。もう一生のうちに聞けないと思っていたあの声。電車に揺られて、何度か乗り過ごしてしまい、着いたのは夜だった。帰りの電車があるから、店にいられるのはせいぜい30分くらいだった。駅を出てすぐの、あのカフェまで小走る。
「いらっしゃいませ、あ!」とマスターは目を見開く。「お元気でしたか?花束、びっくりしましたよ。嬉しかったですよ。でも突然見られなくなるなんて。今は、お元気ですか?」
「ええ、ぴんぴんに元気です。マスターも、また男前になりましたね」
「そんなそんな、ゆっくりしていってください」
みたいな会話が既にあった気がして、階段をかけ上がった。
 ドアを開けると、「いらっしゃいませー」といつものマスターの声が聞こえた。それだけで安心して、喉が苦しくなった。何も言えずにマスターを見てしまっていた。マスターは不思議そうに見返して、こちらへどうぞ、と案内して、すぐに厨房に戻って行った。
 コーヒーを頼むときも、一瞬だった。「お砂糖とミルクは使いますか?」と聞かれて、大丈夫です、と答えた。あの、マスター、俺のこと覚えてますか?の声は出なかった。頭の中では何度も会話が弾んだ。「マスターの入れるコーヒー懐かしいなあ、今でも美味しいですね」とか、「マスターお元気ですか?体調崩してないですか?」とか「僕は元気にやってます」とか、だ。でも、僕は現実に、コーヒーも喉に通らないくらい、声が出なかった。忘れているのか、僕だと分かっていないか分からないが、どちらにせよ、僕らは通じていなかった。なんとか1時間かけてコーヒーを飲み、レジに向かった。知らない女の子がレジを打った。マスターは厨房にすら見えなかった。でも声をかける勇気なんてなかった。カフェに来られて、声を少しでも聞けてよかった。
 ちゃんと声も出なかったから、ちょっと怖いだろう僕にも、女の子は優しく笑顔でありがとうございました、と送ってくれて、ドアを開ける。さようなら。
 そのとき、ドアベルの音に混じって、マスターが「ありがとうございました、またお待ちしてます」と言った。いや、そんな気がした。懐かしくて、懐かしかった。
 僕は階段を降りて、駅に向かう。終電には間に合いそうだった。


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