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『服と人 −服飾偉人伝』 VOL.3

日本ファションブランドは、この人・このブランドを無くしては語れない。
そんな偉人の生き方を通じて、ファッションだけでなく生きるヒントを伝えたい! その想いで、YOUTUBE動画を制作しているのが「服飾偉人伝」です。動画を撮る上で制作した原稿をこちらに公開していきます。「読む服飾偉人伝」として楽しんでいただければ幸いです。
動画で見たい方は、こちらをお願いします。

さて、今回は3回目。
この偉人の生き方を知った時、切ないほどに『寂しさ』を感じました。
戦争で父を無くし、後ろ姿しか記憶に残らない母親。そんな環境の中、自立せざるを得なかった過去。しかし、その愛情を埋めるように洋服の細部にまで愛情や、拘りを込めた服作りをしている。改めて、彼の生き様を理解した上で洋服の袖を通してみたくなりました。静かに逆張りを行き、ファッションに対し独特の哲学をもつ。それが『ヨウジヤマモト』です。

ちなみに、2回目の主役はこの方です、こちらからどうぞ。↓


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01:言葉

ヨウジヤマモトは、ロックバンドで作詞も行う。そんな彼の言葉は、時代性だけでなく魂を感じる。その素敵な言葉の中からピックアップしたいのがこちら。

”一日に何回も、ファストファッションで買い物するなんて、少しは疑問持てよ。一着の服を選ぶってことは、1つの生活を選ぶってことだぞ。”
”普通のルールには乗らない。自分の中には自分のルールがある。”
”服を選ぶってのは人生を選ぶってことだ。”


02:生い立ち

1943年ヨウジヤマモトは新宿歌舞伎町に生まれる。翌年父親は、戦争へ出征し、帰らぬ人となった。
本人の言葉によるとこう記してある。

”ある夏の始め誰かの葬式が行われ、3輪車を漕ぎながら集まる参列者を眺めていた俺。どうやら戦争未亡人が夫の帰還を諦めた末の葬式らしい。大人たちの虚しい儀式。その時初めて、少年の心に目覚めた怒りと虚しさ。ひねくれものの、俺の人生はそこから始まった。”

戦争未亡人となった母親は、喪服のような黒い服に身を包み、1日16時間も仕立て屋として働きヨウジを育てた。母親は、子供が大学に通い弁護士になる事を切望していた。その為、新宿の歌舞伎町に洋裁店を構えひたすら働き続けたのだ。そんな母親に対し、母の妹(叔母)がわが子のようにヨウジを育て、家庭教師をつけたり塾に通わせたのだ。小学校5年生には、公立から暁星学園に編入し、エリートコースを目指す事となる。


03:転機

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画家を目指したい気持ちがあったが、働きづめで育ててくれた母親のことを思い、親の敷いたレールに通り、ヨウジは慶応義塾大学へと進学する。
しかし、大学3年になった頃、将来に絶望。自分の生きたい道と母からの期待に揺れ、耐えきれなくなったのである。
大學卒業後定職に就かず、母の店を手伝う事を懇願する。しかし、母は、店で働くなら専門学校で学ぶように諭し、文化服装学院へ進学する。
慶応義塾大学で出会ったのが、のちのコムデギャルソンのデザイナー川久保玲である。友人であり元恋人であったと言われる彼女は、卒業後旭化成へと就職、彼女が先にファッション業界へ身を置いたことが、ヨウジがデザイナーの道を歩むきっかけになったのではないだろうか。


04:モードの流儀

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文化服装学院生活は、ヨウジにとって困難を極める時代であった。洋裁を学ぶのは、花嫁修業をする女子がほとんどで、男子生徒はヨウジの一人だけ。また、大学を卒業してまで入学する生徒もおらず、ヨウジは最年長。とても居心地が悪かったのである。それゆえ、コンクールには積極的に出品し、装苑賞、遠藤賞のダブル受賞という快挙を成し遂げる。

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装苑賞作品(参考文献より引用)

受賞作品は当時のトレンドであるクレージュを彷彿させるデザイン。現在のヨウジの服とはかなりかけ離れているように思える。

卒業する年にはパリ旅行への切符を獲得する。モードの聖地でデザイナーとしての仕事を見出すのである。東京に戻ったヨウジは、母の洋裁店を手伝いながら、1972年ワイズ社設立。77年には最初のコレクションを発表した。その後1981年川久保玲と一緒にパリのファッションショーに参加し、パリ中を唖然とさせた。

80年代のパリ、プレタポルテの過剰アクセサリーと組織化され、保守的な世界に革新的な「黒」の世界を表現したのである。
流行という概念の”クレージュ”を脱却し、本来作りたかったモノを世の中に提示したコレクションは、もちろん賛否両論。しかし、これが我が道を行くスタイルを確立させたのである。


05:女

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女性の服作りの根源にあるのは、夫に先立たれ一家の大黒柱に立たされた自立した母親の姿である。喪服同然の黒を纏い、ミシンを踏む後ろ姿に女性の色気を見たのである。

一方、母親の洋裁店のお客は、いかに男を誘惑するかを仕事にしている歌舞伎町の女たち。男の為のただ可愛いだけのお人形さんだけは絶対作らまいと心に決めていた。
つまり、女性を輝かせるのは装飾ではなく本人の生き様だと考えていた。
極論を表現した一説がある。

”女どもよ、男物を着よ!”


06:哲学

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◆襟
ヨウジは服作りにおいて、哲学的なマイルールを持っている。
中でも襟の構築においては、テーラードの基本に忠実。襟自体の重みや存在感、心理的な防寒性において『完成されたモニュメント』と称し、下手にいじってはいけないものとしている。

女性服のデザインにおいて襟周りのバリエーションは豊富で、襟ぐりによってその女性の表情は変わるだろう。襟から胸を強調するものは、幼少期から嫌っていた『歌舞伎町の女』そのものになる。だからこそ、女性にもテーラードの襟を着せるのかも知れない。

◆ボタン
ボタンは、服の心臓と解釈している。心臓が決まれば、その服は呼吸し始める。形状も円型をよしとし、それ以外は別の物語を語るためにタブー。
また、ボタン一つでシルエットが変わる。その服のボタンを外して着る事は着る人の責了とし、作り手と着る人との間にある、見えないコミュニケーションに挑戦している。

◆ポケット
ポケットは、服の中で手の内を隠す心のありかだ。
怒りを押し殺しポケットの中で拳を握っているかも知れない。それでも服のシルエットには影響しない。そのための位置や形や袋の深さなどを計算している。

またそれは実用性を兼ね揃えたものとしても、成立させている。
ヨウジの場合、幼少期はポケットが宝物入れで、大人になり、それが旅行カバンの変わりになったと言う。
まさに男の人生の写し鏡のように思える。


07:ヨウジヤマモトとは

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◆布地に魂を吹き込む魔術師
ヨウジヤマモトの服は『服』と言う形になる時、布地が様々な物語や、襟・ポケット・ボタンとしての役割を語り出す。そしてその服の物語は、着る人の心とも調和するのだ。

◆究極の居心地を探求するアナーキー
ヨウジは、父の居ない幼少期や母の期待に応える青年期など、『居心地の悪さ』を感じる時期を過ごした時代がある。その居心地の悪さは、反骨心となり、新たなモードの価値観を創出する原動力となったに違いない。
そして、居心地の良さの追求の中で、決して自身が正解とは言わない。あくまで中立な立場で、1つの提案を服に込めているのだ。

■参考文献
・YOHJI YAMAMOTO ヨウジヤマモト MEMOIRE DE LA MODE
[著者] フランソワ・ボド
[出版] 光琳社
https://amzn.to/3h2WVeS

・MY DEAR BOMB
[著者] 山本 耀司  満田 愛
[出版] 岩波書店
https://amzn.to/31xIcCi

・山本耀司。モードの記録。
モードの意味を変えた山本耀司の足跡を探して。
[著者]文化出版局、田口 淑子
[出版]文化出版局
https://amzn.to/3gJlCwJ

あとがき

リモートワークや完全デジタル化など、会社での働き方の変化が起きている昨今、居心地の悪さを環境のせいにしてただ流されてはいないでしょうか?

居心地の悪さこそ、自身の欲求に立ち返り良い方向へクリエイティブしていくチャンスなのだとヨウジの生き様は教えてくれています。
”選択する自由”は誰にでも与えられているのに、”選択に付き纏う責任”から逃げ、人に合わせてしまう。組織(集団)から個人の時代へと移り変わり、流されてばかりでは、生きづらくなってしまう世の中です。
だからこそ、自分の人生の選択に責任を持って自分でクリエイトしていきましょう!その始めの1歩は、今日着ていく洋服です。
耀司さんのお言葉を借りて…。

”服を選ぶってのは人生を選ぶってことだ。”


偉人へのリスペクトの意味を込めて、「大人の自由研究」をテーマにドキュメンタリー仕立てに動画版は制作しております。ぜひ、YOUTUBE版も見てみてください。(チャンネル登録もお願いします!

ではまた次回、お会いしましょーー。

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