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「期待」ではなく「希待」(荒井裕樹)

連載:黙らなかった人たち――理不尽な現状を変えることば 第3回
普通の人がこぼした愚痴、泣き言、怒り。生きづらさにあらがうための言葉を探る、文学研究者による異色エッセイ。本稿は、2018年4月2日にWEB astaで公開された記事を改題し、転載したものになります。

のび太のママに一言いいたい

「4月」「新学期」「新生活」

 こういう言葉を目にすると、ぼくは少し気が重くなってしまう。
 たぶん、個人史的な事情が関係しているのだろう。

 小学生時代、ぼくは「学校に通いにくい子ども」だった。「不登校」(当時は「登校拒否」と言っていた)とまではいかなかったけど、なんとか学校を休めないかと画策するのが毎朝の習慣だった。
 当時のぼくはチックの症状が激しくて、それをからかわれるのがつらかった。勉強も運動も苦手だった。小学校6年間を通じて完結したドリルは一冊もなかった。宿題も悶絶するほどやりたくなかったし、実際にやらなかった。

 とにかく「大人に何かをやらされる」のが苦痛だった。正確にいうと、「子どもに何かをやらせるのに、きちんと説明してくれない大人」がきらいだった。そんな子どもが学校を好きになれるわけがない。
「学期のはじまりはこの世の終わり」くらいに思っていた当時の感覚が、大人になったいまも抜けきらずに残っていて、4月になるとチクチクと心を刺すような気がする。

 当時のぼくには「心の逃げ場」がいくつかあって、そのひとつがマンガ(アニメ)だった。特にドラえもんが好きで、金曜日の放送前はわざわざトイレを済ませてからテレビの前に座った。
 ただ、この不朽の名作にも苦手なキャラがいた。のび太のママと学校の先生だ。
 現在のぼくは、あの頃のぼくと同じ年頃になった息子とドラえもんを観ている。こうして「親」という立場になってみて、ようやく、子ども時代に感じていた二人への違和感を言葉にできるようになった気がする。
 のび太のママには「自分の機嫌で子どもを怒ってしまうこと、ぼくにもあります。でも、怒る前に一呼吸して力を抜くようにしています」と言いたいし、先生には「野比くんへの教え方、少し工夫してみませんか?」と申し上げたい。
 考えてみれば、のび太は、とつぜん机から出てきた機械仕掛けの青い猫と、「孫の孫」だと自称する少年の言い分を、すんなりと理解した柔らかな想像力の持ち主。たぶん「地球儀」をはじめて理解した人も、こんな想像力を持っていたはず。
 だから、のび太はすごい。ぼくは密かに「のび太最強説」を唱えている。

「期待」はなぜ重いのか?

 いきなり熱く語ってしまったけど、今回はドラえもんがテーマというわけじゃない。子ども時代の「違和感」を整理していたら、この名作の話になってしまった。

 小学生時代のぼくの通知表には、だいたい「次学期はがんばりましょう。期待しています。」と書かれていた。先生もきっと、書くことがなくて困っていたんだろう。
 でも、あの頃のぼくには、このコメントがつらかった。「毎日がんばって学校に行っているのに、まだがんばらなきゃいけないの? そんな『期待』ならいらないのに」と思っていた。

「期待」というのは「良い結果」を求める気持ちが入った言葉だ。
 たとえば、オリンピック選手に「期待してます!」と言ったとすると、「アスリートとして、あなた自身のためにプレーしてほしい」という意味にはならない。どちらかというと、「メダルをとって、応援している人たち(私たち)を感動させてほしい」というメッセージになる。
 つまり、多かれ少なかれ、見返りを求める気持ちの混じった言葉だ。

 だから「期待」は、「され方」によっては、「誰のため」「何のため」にがんばるのかがわからなくなる。でも、「誰かのため」「何かのため」という目的は、間違いなく人を動かすエネルギー。それ自体は、とても大切な感情だ。
「誰かのため」「何かのため」は大切なものだからこそ、一方的に押しつけられるのはしんどい。できれば、自分なりにゆっくり考えさせてほしい。子どもの頃には、こういうことに悩む時間があってもいいじゃないか。いや、人生のいつのステージでも、これに関しては自分なりに悩んでいいはず。

「期待」は悪いことじゃない。でも、場合によっては、やっぱり重い。相手の重荷にならず、でも心の糧にしてもらえるような言葉があると良いのだけれど、そもそも、そんな言葉があるのだろうか。
 実は、過去にそうした言葉を探し求めた人がいた。今回は、そんな名言を紹介したい。

鍵と檻の中で生きることを強いられた「精神障害者」たち

「期待」じゃなくて「希待」(きたい)

「希待」とは、辞書にはない造語。この言葉を教えてくれたのは「丘の上病院」の元職員さんだ。
「丘の上病院」は、1969年から1995年まで東京都八王子市にあった精神科病院。ぼくが知る限り、日本ではじめて「完全開放制」に取り組んだ先進的な病院だった。
 精神科の病院が「開放」されているのが何故すごいのか? 事情がわからない人も多いと思うので、少し解説しておこう。

 日本の精神科医療は、先進諸国に比べて「病床数の多さ」「入院期間の長さ」「病棟の閉鎖性」が問題視されてきた。これには歴史的な背景がある。
 精神科の病床数が増えたのは主に1950~60年代。精神科は外科や内科などに比べて病院設置基準が甘く設定されたこともあって、この時期に「私立病院」の開設が相次いだのだ。
 当時の医療制度も、たくさん患者を入院させることで利益が上がる仕組みになっていた。だから「医療よりも営利」「治療よりも管理(隔離)」を優先する病院が出てきて、社会問題になった。1960年には、当時の日本医師会会長が「精神病院は牧畜業」と発言して話題になっている。

 1970年、朝日新聞の記者がアルコール依存症を装って某病院に潜入し、迫真のルポを書いている(大熊一夫『ルポ・精神病棟』)。このルポでは、患者たちが鍵と檻だらけの病棟に押し込まれ、横柄な医療者たちにおびえながら、じわじわと生きる気力を奪われていく様子が描かれている。こんな病院なら、入院が原因になって心を病んでしまいそうだ。

 この連載の初回で紹介した吉田おさみは、こうした「患者不在」の精神科医療を鋭く告発した人だった。「精神病者」への差別や偏見は、「社会」の中だけでなく「医療」の中にもある。そうした声が70年前後から上がりはじめた。
 一部の医療者も、この頃から改革に向けて動き始める。ここでテーマのひとつになったのが、精神科病院の「開放化」だった(精神科医療の「地域移行」がテーマになるには、もう少し時間がかかる)。
「丘の上病院」も、こうした改革の機運から生みだされた。

男女交際自由、団体交渉あり。型破りな「丘の上病院」

「丘の上病院」は、とにかく画期的な院だった。
 まず、檻も鍵もなかった点で、当時としては十分に先進的だった。それに加えて「入院のしおり」には「男女交際は自由です」と書いてあったり、当時流行した、いわゆる「ドッキリ」系のテレビ番組の撮影に病室を貸し出したり、病院のあり方をめぐって患者と医者が「団体交渉」したりなど、当時の精神科では考えられないことが起きていた。

 この病院は、レクリエーションを本格的に治療プログラムに取り入れた点でも先駆的だった。絵画や造形、影絵、スポーツ、演劇なども盛んに行われていた。1980年頃の文化祭の写真を見せてもらったけど、時代を感じさせるダンスパーティーが開かれていた。患者たちは、こうしたおおらかな場で、病み痛んだ心をほぐしていったのだろう。

 こんなふうに書くと、まるでこの病院が「理想郷」のように見える。でも、開放制だからこそのトラブルも毎日のように起きていた。入院している人を管理したり、マニュアル化された対処をしたりするのではなく、きちんと向き合って信頼関係を結ぶために、職員たちに求められた努力は並大抵のものではなかったようだ。
 でも、その凄まじい努力は、入院者にも届いていたと思う。ぼくは、この病院の元入院者と元職員が、まるで高校か大学の同窓会のように話している場に居合わせたことがある。これは本当に珍しいことだ。

※写真は雑誌『ひよどりの里』のバックナンバー(安彦講平氏提供)。「丘の上病院」から発行されていた雑誌(一部)。院内の〈造形教室〉に集まった患者たちの自主活動として、こうした冊子などが発行されていた。「丘の上病院」の〈造形教室〉はその後、(いまやアートファンには有名な)「平川病院〈造形教室〉」へと受け継がれていく。

「希待」は見返りを求めない

 そんな「丘の上病院」のメンタリティを、一人の元職員さんが「希待」という言葉で表現していた。
「希待」とは、人間の「善性」や「自己治癒力」を信じ、その可能性を無条件に信頼しようという姿勢のこと。ぼくなりに解説すると、「見返り」を求めず、とにかく相手のことを信じてみようという態度のことだ。
 受け取り方によっては、ちょっとロマンチックすぎる言葉かもしれないし、「きれい事」のように思われるかもしれない。
 でも、「心」の問題に関わる人には、「心という不可視なものへの敬意を含んだ想像力」がなければならない。うまく表現するのがむずかしいけど、臨床の現場では、「その人が"生きて在ること"への畏敬の念」みたいなものが必要なときがあって、それがないと回復への歯車自体が動き出さないことがある。
 こうした考えがロマンチックだというなら、人間にはロマンが必要なんだと思う。「丘の上病院」は、それを本気で信じた病院だったのだろう。

 そんな「希待」という言葉、実はもう一方で、すごく現実主義的な言葉だと思う。
 これはぼくの推測だけど、この言葉を造った職員さんは、きっとご自身の「立場」に敏感だったはず。
 人と人が「きちんと向き合うこと」は大切だ。でも、人にはそれぞれ「立場」がある。「立場」というものは、個々人の性格や個性とは関わりなく、不均衡な力関係を生んでしまう。
 仮に「精神科病院の職員」(特に医療職)が、「精神科の入院者」に対して「期待」したとする。
 これは、どういう意味になるだろう?
「期待する側」は、純粋に「心の状態が良くなってほしい」と思っていたとしても、「期待される側」からすれば、どうしても「扱いやすい患者でいてほしい(でないと病気も良くなりませんよ)」というメッセージがチラついてしまう。
 精神科医療の目的は「良い患者」を作り出すことじゃない。そうしたことを「丘の上病院」の職員たちは知っていたのだろう。だから「期待」ではなく、あえて「希待」という不思議な言葉を生みだしたんだと思う。

いまは、悩んでいてもいい

 学校に馴染めなかった頃のぼくが、「希待」という言葉を知ったら、どう感じただろう? 
 たぶん、ちょっと楽になったと感じるんじゃないかな、と思う。

「希待」とは、「いま悩んでいる人」の、その悩みを取り去る鎮痛剤みたいな言葉じゃない。
「いま悩んでいる人」のことを尊重して、「いまは悩んでいていいよ」と寄り添うような言葉だ。
 ぼく自身も経験しているから、よくわかる。「悩み」って、強引に「解決」を目指しても解決しない。むしろ、悩んでいること自体を認めてもらえるだけで、楽になれることが多い。

「新生活」に不安を抱えた人が増える4月だからこそ、「信じて寄り添う言葉」が存在することを、多くの人に知ってほしいと思う。


参考:「丘の上病院」ご関係者の皆様には、拙書『生きていく絵――アートが人を〈癒す〉とき』(亜紀書房、2013年)を執筆する際に、たくさんお話を聞かせていただきました。この病院を知りたい方は、同書を手にとっていただけると幸いです。

荒井裕樹(あらい・ゆうき)
1980年東京都生まれ。2009年東京大学大学院人文社会系研究科終了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員、東京大学大学院人文社会系研究科付属次世代人文学開発センター特任研究員を経て、現在、二松學舍大学文学部専任講師。専門は障害者文化論・日本近現代文学。著書に『差別されてる自覚はあるか――横田弘と青い芝の会「行動綱領」』(現代書館)、『生きていく絵――アートが人を〈癒す〉とき』(亜紀書房)、『隔離の文学――ハンセン病療養所の自己表現史』(書肆アルス)、『障害と文学――「しののめ」から「青い芝の会」へ』(現代書館)がある。

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