見出し画像

「モネ 連作の情景」展を見てわかったモネの生涯と革新的な制作方法!!!

こんにちは。

先日、上野の森美術館で、絶賛開催中の「モネ 連作の情景」を見てきました。
この展覧会は、日本でも有名なフランスの画家「モネ」を特集して、特に彼が一躍有名になった「連作」をテーマに展示開催されているものです。
あの有名な「睡蓮」も「連作」の一つなのですね。

ちなみに「連作」とは、同じ主題に特化した一群の絵画

なぜ連作が重要かというと、一つの絵画が違う色彩で描かれたら、あるいは違う天候のもとで描かれたら、絵画のもつ視覚的エネルギーはどう変わるのか、どんな効果が生じるのか。
「連作」においては「空間」と同時に「時間」も体験することができます。

モネ「連作」について、こう述べています。
「一つの主題により長く集中することを通じて、その場所自体の持つ性質をよりよく理解し、その様々な側面や天候、温度、光、季節といった条件が主題に与える影響をより深く把握できる」

「連作」は西洋絵画では極めて新しい発想です。

それでは、5つのパートに分かれている展覧会内容を順番で見ていきましょう。

まず、各コーナーに入る前、入口にモネの「睡蓮」が映像で部屋全体に映された「立体睡蓮」を通ることができます。なかなか面白い試みと思います。


第1章 印象派以前のモネ

モネは1840年11月14日にパリで生まれました。モネが5歳の時に父方の叔母を頼って、一家でルアーヴルに移り、18歳までこのノルマンディーの海岸沿いの街にいました。
そして、17歳の時に最初の油彩画を描きます。その翌年18歳からパリで美術の勉強を始めます。
1861年から1年間は兵役のためフランスを離れ、病気療養のため、ルアーブルに戻ります。そして除隊して絵の勉強を再開するのです。
22歳でシャルル・グレールの画塾に入り、画塾ではバジール、シスレー、ルノワールなどの仲間ができます。中でもバジールはモネの親友になりました。その後、裕福だったバジールに何度も助けられることになります。

さて、この最初のコーナーでは、サロンに落選した作品などの初期作品を見ることができます。

1868-69 昼食
1871 グルテ・ファン・ド・シュタート嬢の肖像
1866 桃の入った瓶
1864 サン=タドレスの海岸
1867 サン=タドレスの小屋
1867 ルーヴル河岸
1871 オランダの船、ザーンダム近郊
1871 フォールザーン運河とウェスタヘム島
1871 ザーン川の岸辺の家々
1871 ザーンダムの港


第2章 印象派の画家、モネ

休戦後にオランダから帰国したモネは1871年末からパリ北西のアルジャントゥイユで暮らし始めます。その地で、以前、画塾で一緒だったマネやルノワールと一緒に絵を制作し始めました。その後、1874年春に第1回の印象派展を開催します。この「印象派」という言葉はモネの作品「印象、日の出」に対して批評家のルイ・ルロワが「印象主義」という言葉を使い、それがモネのグループの名称になったということです。

この1870年代以降、モネが好んだのは自然の情景、とりわけ水辺の景色でした。
1878年春にモネは経済難のため、セーヌ川沿いのヴェトゥイユに移ります。そして、1879年9月に妻カミーユが32歳で亡くなるという悲劇に見舞われます。このコーナーでは1870年代から80年代にかけてセーヌ川流域を拠点に各地を訪れたモネの作品を見ることができました。

1873 花咲く林檎の樹
1874 橋から見たアルジャントゥイユの泊地
1875 アルジャントゥイユの雪
1874 モネのアトリエ舟
1876 アトリエ舟
1878 クールブヴォワのセーヌ河岸
1878 ヴェトゥイユの教会
1880 ヴェトゥイユの教会
1879 ヴェトゥイユ下流のセーヌ川
1880 ヴェトゥイユ
1880 ヴェトゥイユの春
1880 ラ・ロシュ=ギュイヨンの道
1883 ヴェルノンの教会の眺め
1886 ヴェルノンの眺め


第3章 テーマへの集中

1870年と翌年にかけて、モネは戦争のためイギリス、オランダに滞在し、その後も ノルマンディー地方、ブルターニュ地方などや地中海に面したアンティーブ、モナコ、イタリアのボルディゲラにも訪れています。その際、旅先で数ヶ月滞在して、一つの場所で集中的に作品を制作していきました。

モネは特に人影のない海岸など原初的な自然の風景を好んで描きました。
特にノルマンディー地方のエトルタにモネは魅了されたようです。
1883年から1886年まで毎年のように訪れています。
その地では有名な景勝地でもある奇岩マンヌポルトを作品のテーマとして、訪れた3年間の作品の変化を見ることができます。

このコーナーでは旅先に滞在する中の同じ風景を異なる季節、天候、時刻に描き、海や空、山や岩肌の表情がそれぞれの作品で変化することを見ることができます。この体験が、その後の「連作」という制作手法につながっていくようです。

1881 海辺の船
1882 プールヴィルの魚網
1882 プールヴィルの断崖
1882 プールヴィルの断崖
1897 プールヴィルの崖、朝
1897 波立つプールヴィルの海
1882 ヴァランジュヴィルの教会とレ・ムーティエの渓谷
1882 ヴァランジュヴィルの漁師小屋
1882 ヴァランジュヴィルの崖のくぼみの道
1894-98 ヴァランジュヴィルの付近の崖の小屋
1883 ラ・マンヌポルト
1886 エトルタのラ・マンヌポルト
1884 エトルタ
1886 3艘の漁船
1884 ヴェンティミーリアの眺め
制作年不明 モナコ湾、またはモナコの港(夜明け)
1884 ロクブリュヌから見たモンテカルロ、スケッチ


第4章 連作の画家、モネ

1883年春、42歳のモネはセーヌ川流域のジヴェルニーに移り住みます。この自宅が彼の終の棲家となります。そして、その自宅付近で秋になると目にする風物詩が「積みわら」でした。
モネは1890年前後に集中してこのテーマに「連作」として取り組みました。

その制作方法は、一度に複数のカンヴァスを用意して、陽光を受けて変化する「積みわら」の描写を同時進行で進めていくものでした。そして1891年5月にその連作「積みわら」を含む15点は、パリのデュラン=リュエル画廊で展示され大成功を収め、モネの名声を確実なものとしました。

その後、1889年から1901年にかけてモネはロンドンを何度も訪れました。そして、ロンドンでのチャリング・クロス橋やウォータールー橋なども「連作」として制作していきました。

「連作」は構図は同じでも一つ一つの作品はそれぞれ個性が際立っています。この「連作」の着想源としては、なんと日本の浮世絵の影響もあると考えられています。
例えば、当時モネが見ていた歌川広重は、同じ版画で昼と夜の情景を刷り分けた絵もあるからです。

このコーナーではまさに「連作」の作品を見ることができます。

1886 雨のベリール
1886 ポール=ドモワの洞窟
1884 ジヴェルニーの積みわら
1885 積みわら
1891 積みわら、雪の効果
1889 クルーズ渓谷、曇り
1889 クルーズ渓谷、日没
1889 ラ・ロシュ=ブロンの村(夕暮れの印象)
1900 国会議事堂、バラ色のシンフォニー


1903 チャリング・クロス橋、テムズ川


1900 ウォータールー橋、曇り
1904 ウォータールー橋、ロンドン、夕暮れ



1904 ウォータールー橋、ロンドン、日没



第5章 「睡蓮」とジヴェルニーの庭

モネはセーヌ川支流のエプト川が流れる村の四季折々の風景を描きました。また、ジヴェルニーの借家を購入して、その後も敷地を広げていき、庭を大きくしていきます。ジヴェルニーの庭には花の庭、水の庭があり、水の庭には睡蓮を栽培して日本風の太鼓橋、藤棚、アヤメ、カキツバタを配置しました。こうして、モネは残りの人生では、庭に咲く藤などの多彩な草花を描いていきます。

さらに1890年代後半から300点もの睡蓮を描いていきました。
睡蓮では、友人の政治家のジョルジュ・クレマンソーに働きかけ、巨大な専用アトリエを建てて、史上最大の睡蓮を制作したりしました。

1908年ごろからモネは視覚障害に陥り、旅する機会も減り、描く対象はジヴェルニーの庭で、特に睡蓮に絞られていきました。
1926年にモネは画家としての生涯に幕を閉じています。

このコーナーでは、こうした後半生のジヴェルニーの庭での作品や睡蓮を見ることができます。

1886 ジヴェルニーの風景、雪の効果


1888 ジヴェルニー付近のリメツの草原


1890 ジヴェルニーの草原


1893 黄昏時の流氷


1894 ジヴェルニー付近のセーヌ川


1896 ジヴェルニーの洪水
1887 芍薬(しゃくやく)


1897-98 睡蓮


1918 睡蓮の池の片隅


1918 睡蓮の池


1925 薔薇の中の家

モネについては、今まで「睡蓮」をたくさん描いてきた著名な画家としか知識がありませんでしたが、今回、モネは「連作」という一つのテーマを大事にした当時としては画期的な制作手法を思いついた革新的な画家ということがわかりました。

また、「印象主義」のリード役であったこと、そして、その中で生涯を通じて自然の姿を様々な「連作」を通じて名作を生み出したことがよくわかりました。そして画家としての最後のテーマとしたのが「睡蓮」だったのですね。

この展覧会は上野の森美術館で今月1月28日まで開催中です。まだの方はお急ぎください。

それでは。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?