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新書から考える(2) 「友だち地獄」(2) 〜「優しい関係」の問題点〜 #5

前回の続きです。

なぜ若い世代は、つながっていたいのか」という疑問について、「友だち地獄ー『空気を読む』世代のサバイバル」(土井隆義氏著、ちくま新書、2008年)に紐づけて論じていきます。

3 「優しい関係」とは何か

この新書におけるキーワードは「優しい関係」です。「優しい関係」とは何かについて、小説「野ブタ。をプロデュース」を引き合いにして筆者が述べている箇所を引用します。

クラスメートたちの多くは、互いの人間関係を円滑にこなしていくため、日々の自己演出に余念がない。たえず場の空気を読みながら、友人との間に争点を作らないように心がけている。そこには、異様とも思えるほど高度に配慮しあう若者たちのすがたと、そのために互いの反感が表に出ないように押し込められ、人間関係の重圧感がひしひしと増していく様子がリアルに描かれている。(中略)「野ブタ。をプロデュース」に描かれているような対立の回避を最優先にする若者たちの人間関係を、本書では「優しい関係」と呼んでおきたい。(P7~8)

本書でいう「優しい関係」とは、

「対立の回避を最優先にする」人間関係のことを指します。

そして、その特徴を引用を交えつつまとめると、以下のようになります。

現在の若者たちは、(中略)「優しい関係」維持を最優先にして、きわめて注意深く気を遣いあいながら、なるべく衝突を避けようと慎重に人間関係を営んでいる。しかし、このような互いの相違点の確認を避ける人間関係は、その場の雰囲気だけが頼りの揺るぎやすい関係である。だからそこには、薄氷を踏むような繊細さで相手の反応を察知しながら、自分の出方を決めていかなければならない緊張感がたえず漂っている。(P9)
このような「優しい関係」を取り結ぶ人びとは、自分の身近にいる他人の言動に対して、つねに敏感でなければならない。そのため、「優しい関係」は、親密な人間関係が成立する範囲を狭め、他の人間関係への乗り換えも困難にさせる。互いに感覚を研ぎ澄ませ、つねに神経を張りつめておかなければ維持されない。緊張に満ちた関係の下では、対人エネルギーのほとんどを身近な関係だけで使い果たしてしまうからである。その関係の維持だけで疲れ切ってしまい、外部の関係にまで気を回す余力など残っていないからである。(P16)
その一方で、彼らの日常生活の場は、独りでわが道を行くような姿勢を許さない空気にも満ちている。(中略)彼らの「優しい関係」は、その外部へ一時的に避難することも、その内部で孤高にふるまうことも、どちらも認めない強い圧力をもっている。(中略)「今、このグループでうまくいかないと、自分はもう終わりだ」と思ってしまう。自分が属する集団からの離脱は、そのまま社会生活からの撤退へと直結しやすいのである。(P101)

【まとめ】
・現代の若者は「気を遣い合いながら」「衝突を避けようと」「慎重に」人間関係(=優しい関係)を営んでいるが、これは「場の雰囲気だけが頼り」の不安定な関係でもある。その下では絶えず「空気を読ま」なければならず、精神的にとても疲れる。そのため、外部の関係に参加する余力が残らず、人間関係はえてして狭くなりがちである。そのため、その人間関係でうまくいかなかったとしても、他の人間関係に移ることは難しいこととなる。
・また、「優しい関係」への加入を強制される雰囲気、「優しい関係」から外れることや「優しい関係」の中で一匹狼として振る舞うことを認めない雰囲気があり、「優しい関係」を絶対視せざるを得ない風潮が生じている。仮に「優しい関係」から外れてしまうと、「自分には居場所がない」と思ってしまう。自分が加入している「優しい関係」が自分の人間関係の全てであるように錯覚してしまうからである。

なるべく分かりやすくまとめてみたつもりですが、いかがでしょうか。
しかし少々具体性に乏しいので、例を挙げたいと思います。

皆さんの中には、高校の昼休みにはクラスで弁当を食べていたという人が多いと思います。では、それを誰と食べていたでしょうか。
1人で食べていた、2人で食べていた、数人で食べていた、いろいろ出ると思います。

ではまず1人で食べていたという人に聞きたいのですが、
「周囲の目線は気になりましたか?」

少なくとも私が高校生の時代(といってもたった1年前ですが)は、クラスで1人で弁当を食べるということはなかなか寂しいものだったと記憶しています。私は高3の当初、なかなかクラスに馴染めずに1人でいる時間が多く、先述したように「自分には居場所がない」と思っていました。1人で弁当を食べることも多かったのですが、周りは皆、クラスメイトと会話をしながら弁当を食べているため、「いたたまれなさ」を感じました。当時の私は周りに影響されやすい人間だったため、周囲の目線が気になり、なかなか苦痛な時間だったなというのを覚えています。

次に、2人以上で食べていたという人に聞きたいのですが、
仮に自分がいたグループが自分にとってうまくいかなくなった場合、他のグループに行くことはできましたか?

私はその後、クラスに馴染めて仲の良いクラスメイトもでき、昼食も何人かでまとまって食べていたのですが、仮に当時自分がいたグループが自分にとってうまくいかなくなった場合、他のグループに行くことは自分の中で難しかったように思います。他のグループは他のグループで関係性が既に築かれており、独特の雰囲気や「空気」を共有していました。完成されている関係に自分がひとり入ることはとても難しいもので、だからこそ私は、折角入ることのできたグループを大事にしようと思ったのです。しかしそう考えると、当時の私もまた、「優しい関係」のワナにハマっていたのだろうと感じます。

筆者もこれと同じようなことを述べています。

若者たちの日常生活の場は、互いに交通不能におちいった多数の小集団から構成されている。それら小集団のあいだを橋渡しするような大きな関係へと開いていくチャンネルを見出せないまま、それぞれの小集団が相互の交流をもたずに併存している。(P101)

私の中では、親友と呼べるような人以外は、「優しい関係」で結ばれているなと感じています。自分から「友だち」とはなかなか言いづらい関係。自分では腹を割って話すことのできない関係。
クラスメイトがすなわち私の親友になるわけでもないから、私は多くのクラスメイトとは「優しい関係」でいたと思います。

ここで疑問を持つ方もおられると思います。
なぜ若い世代は「優しい関係」を築かざる得ないのか?
本音を言ってぶつかりあえるような「優しい関係」ではない「真の友達関係」を築くことは難しくなっているのだろうか?

次回以降、なぜ若い世代が「優しい関係」を築かざる得ないのかについて考察し、私の「なぜ若い世代は、つながっていたいのか」という疑問についても一定の結論が見出せればと思います。

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