人生は苦しいのか?
生きることやその意味、人生についての考え方は西洋と東洋でも違うらしい。
西洋では、基本的に人生とは良いものだと考えられている(西洋とはいっても、主にキリスト教の教えの話だが)。
もちろん辛いことやよくないこともあるかもしれないが、それでも根本的には良いものであるというのがキリスト的であり、西洋的な考え方である。
その一方で東洋では、生きることを苦しいことだと考える。
これはブッダの考え方であり、『生きるとは苦しみである』という言葉の通り、人生は生きているだけで辛いものであり、だからこそ『生きているだけで偉い』というような自己防衛的な賛美の言葉が生まれるわけだ。
つまり、西洋と東洋では全く逆の考え方がなされている。
しかし、西洋においても、東洋に近い考え方を持つ哲学者はいた。
それがショーペンハウアーやニーチェといった実存主義哲学者であろう。
ニーチェは『神は死んだ』という言葉で有名な哲学者だが、それと同時にキリスト的な生きることへの考え方自体も抹消しようとしたのかもしれない。
『実存』とは、簡単にいうと『存在』のことであり、我々が存在する意味はあるのか、生きる意味とは何なのかということを考える学問である。
そして、実存主義哲学では、その意味は自分自身でつけることができると言われている。
これはサルトルの見解である。
しかし、この『生きる意味や存在の価値』といった問題はもっと込み入ったもののようにも見える。
例えば、社会における生産性を持ち出して生きる意味や存在の価値を語ろうとする人がいる。
そこで必ず問題になるのが、植物状態や脳死の問題ではないだろうか?
もしくは、不治の病にかかり、働くこともできず、毎日ベッドで横になって外を眺めているだけの人に生きる価値があるのかという問題であろう。
社会的観点から見て、それらの人は非生産的に見えるであろう。
なぜなら社会のために何も生み出していないのだから。
しかし、だからと言ってこの人に生きる価値がないかと問われると、その判断は慎重にならなければならない。
その理由は、人間の価値は生産性だけで語られるべきものではないからである。
では、他にどのような見方があるかというと、それは『愛』であろう。
もし、一日中ベッドに横たわり外の景色を眺めているだけの人にも愛する家族がいて、その家族もまた心からその人を愛しているとする。
その時、この人に生きる価値はないのだろうか?この人は命を断つべきなのだろうか?
その答えは分からない。しかし、少なくともそれによって苦しむ人が増えるのは想像できるだろう。
ある行動によって他の誰かが苦しんだり、その人たちに悪影響が及ぶことがわかった上で、その行動をすることも実に非生産的に見える。
つまり、死ぬことによって誰かしらに何かしらの悪影響が及び、誰かを苦しめることが決まっているのであれば、その死は合理的とも生産的とも言えず、生産性の観点から見てもその人に生きる価値があると言えるのではないかと思う。
つまり、人に生きる価値があるかどうかは分からない。
東洋思想的に生きているだけで価値があると考えるひともいるだろう。
それはそれで構わないし。決して間違っているとも思わない。
ただ、僕は生きることは苦しいことだと思っている。
人生は苦しいのか?
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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