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ヤンキーとセレブの日本史Vol.14 戦国時代その1


ヤンキー的でもあり、ヤンキーらしくもない時代、戦国時代

応仁の乱が終わって、誰も室町幕府の言うことを聞かずに自分勝手にやり始めます。ここから戦国時代のお話です。正確には室町幕府が残っているまでは室町時代なのですが、幕府の力が弱くなりすぎて、地方のヤンキーたちが好き勝手始めているので、室町末期から戦国時代は同じ枠組みで見たほうが分かりやすいと思います。

戦国時代は一見すると、戦国武将同士の抗争が激化するヤンキー全盛の時代と見ることもできます。
しかし、それだけでは戦国時代のこともヤンキーのことも正確に理解できないのです。

戦国時代の主役は戦国武将だけではありません。寺、商人、外国勢力など様々な勢力が絡み合っており、暴力はその競争の中の一部分です。もちろん最終的に国の覇権を決めるのは暴力ですが、その暴力は単純なケンカの強さではなく、経済力、すなわちシノギの力で決まってくるのです。
なので、武将の暴力の争いだけで戦国時代を理解しようとするととても難しいのです。

また、武将の中もヤンキーらしさと非ヤンキーらしさが混ざっています。

日本のヤンキーの特徴

私が考える現代の日本のヤンキーの一番大きな特徴は、「アマチュア性」です。
海外の不良のほとんどが、暴力をお金儲けの道具として使います。恐喝、強盗、違法薬物販売、売春管理、詐欺などを行うのに暴力を使い、プロとして活動します。
それに対して、暴走族などの日本のヤンキーは暴走に使うバイクや特攻服をバイトして買うという、世界の不良の基準ではありえない特殊な行動をします(もちろん、バイクを盗んだり、違法行為でお金を稼ぐやつらもいますが)。暴走族に入っていてもほとんどが暴力でお金を稼ぐプロに進みたいとは思っていません。必ずしも経済的な動機で悪いことをするのではないのです。それが現代ヤンキーのアマチュア性なのです。

戦国時代は、幕府という大きなケツモチがいなくなった中で、自分のシマを自分で守らなければならない時代です。シマを守ったり、敵から奪ったりということをしなければならず、なりふり構わず色々な手段を講じなければなりません。農村は貧しいですし、天候が悪く飢饉の年もありました。遊びで抗争などしている余裕はなく、他との競争や奪い合いに勝てなければ本当に死んでしまうのです。
言い換えると、行動はすべて命を守るために、シマの維持と拡大に合理的でなければならず、フェアプレイとか言ってる余裕はないのです。

ヤンキーはアマチュアだからこそ、合理的ではないことができるのです。
暴走は捕まるリスク、事故のリスクが高いのに、経済的な利益はまったくありません。ほとんどが目立ってすげーと思われる名誉のためのものです。これはほとんどの人が飢え死ぬことなど考えなくて良い豊かな現代だからこそできることでもあります。

江戸時代で詳しく解説しますが、これは太平の世で暴力を使うことが極端に少なくなった江戸時代の武士の精神性「士道」、明治以降に発明された「武士道」に近い概念です。
日本でも最近は、強盗団や詐欺団などが社会問題になっていますが、この集団はお金を稼ぐことが一番の目的なので、違法な手段や、卑怯な手を使って最もお金を稼げる活動をしますし、チームの仲間を大切にしませんというか、そもそもチームを掲げません。暴走族などの現代ヤンキーの世界ではこういう価値観は尊敬されません。
戦国時代のヤンキーは名誉を大切にしますが、名誉は勝ってこそ得られると考え、騙し討や卑怯な手も使います。

暴力とシノギの両方の競争

戦国武将と現代のヤンキーは暴力を使うことは共通点ですが、合理性の面で大きく異なるのです。
暴力はシマの安全と拡大の最終的な一手ですがあくまで手段です。ヤンキーのタイマンのように殴っておしまいではなく、殴った後には奪って統治しなければならないのです。
暴力を最大化させるには、シノギやシマの住民の統治など暴力以外のことにも真剣に取り組まなければなりません。ここが現代のヤンキーと戦国武将の行動の一番大きな違いです。
戦国時代のヤンキーはとにかく勝つこと、シマを維持・拡大することが何より大事で、そこに徹することが、実利がないものに情熱を燃やす現代のヤンキーと大きく異なるのです。

戦国時代はシノギの力を高めることで、暴力でシマを維持・拡大する競争の時代です。
そして、その中には武将だけではなく、寺や商人、外国勢力などが絡まってくるのです。

暴力とシノギの競争の参加者たち

戦国時代の各地方のヤンキーの目的は、幕府もなく誰も自分たちの安全を守ってくれない中で、自分の組を守ることです。その上で、一部の超強い武将は全国制覇を目指していきます。
自分の組を守ったり全国制覇をするには、強い暴力を手に入れなければなりません。しかし、暴力を得るには個人のケンカの強さだけではなく、カネの力が重要になっているのです。
兵士を養う、武器を買う、味方を作るなど、抗争にはカネがかかるのです。そのため、暴力の強さはシノギの大きさ次第になってきます。うまく自分のシマを統治して、みかじめをたくさん取れなければ強くなりません
戦国時代は、暴力の競争だけではなく、組ごとのシマの経営の競争でもあるのです。

戦国時代のシミュレーションゲーム「信長の野望」でも内政は大事 出典:4gamer.net

暴力を使うプレーヤー

戦国時代というと、戦国武将をイメージしがちですが、暴力を持っていたのは武士だけではありません。寺も農民もみんな暴力を持っています。ヤンキーのチームは許可制でも届出制でもないので、武士でなくとも暴力さえあれば誰でもチームを作れます(反対に暴力団の解散届は警察に提出されるし、暴走族の解散式は警察で行うこともある)。

武士同士の争いではなく、武士と寺、武士と農民などいろんなヤンキー同士の戦いが起こります。

ヤンキー武士

応仁の乱で京都で抗争をしているうちに、地方のヤンキーたちを取り巻く環境も代わりました。強かった組が弱くなったり、弱かった組が力をつけてきたりします。
たとえば、室町時代から大きな力を持っていて山口県と福岡県のあたりをシマにしていた大内組は、幕府のシノギだった明との貿易を仕切るようになって、栄えました。奪えるものであれば親のシノギでも奪い取る仁義なき時代です。
しかし、その大内組も、当初弱小だったけれど組の改革で勢力を伸ばした毛利組に滅ぼされています。他にも静岡の今川組を乗っ取って勢力を大きくして小田原までシマを広げた北条組などもあります。
室町時代から有力な組のメンツの入れ替わりがおきます。

また子分が親分を追い出して組長が変わってしまう組もでてきます。これを「下剋上」と言います。
そもそも室町幕府の本家が弱くなりすぎたせいで、地方の組長は本家の言うことを聞かない状態ですから、その子分たちも自分の親分の言うことを聞かなくても不思議はありません
抗争で留守にしている間に留守を任せていた子分に組を乗っ取られてしまった親分もたくさん出ました。
下剋上は戦国時代以外には殆ど見られないのですが、これは幕府の権威が弱く、親分衆を統制できないことが原因です。もし、鎌倉幕府や江戸幕府で、子分のヤンキーが「親分をぶっ殺したので、自分が組長に代わります。」といっても将軍は許してくれずにヤキ入れされることになるでしょう。もはや室町幕府はそれぞれの組のことに口を出せませんし、それが分かってるので、子分たちも自由勝手にふるまいます。

寺とパンピー

戦国時代は武士だけのものではなく寺や一般ピープルたちも暴力の主役です。誰もがヤンキーになる時代室町時代からその傾向はエスカレートしていきます。

ヤンキーの組長たちもみんなよいシマの経営をしているわけではありません。長期的に見たらシマの住民たちがたくさん稼げるようにしてあげて、そこからみかじめを取ったほうがよいのですが、手っ取り早くたくさんのみかじめを取ったり、乱暴なことをする奴らもいます。
そのときにパンピーの心の拠り所になったのが寺です。パンピーたちは寺に救いを求めて信者になります。
ただ、寺も純粋にパンピーを守ろうというような気持ちだけでやってるわけではないです。寺同士も自分たちの教義の方が正しい(=信者をたくさんとりたい)という争いをしていて武力抗争も度々起きています。そのためには武装もするし、中身はヤクザな寺も多くありました
信長に焼き討ちされた延暦寺には、信者に高利貸しをしていて返せないやつを人身売買したり、僧侶なのにエロ三昧、贅沢三昧しているようなやつらもたくさんいました。
平安時代からずっと言ってますが、この時代の寺は現代の平和の寺とは全然違うのです。実質は組事務所と変わらない寺もかなりあります。

その中で特に一向宗という宗派が人気を集めましまた。一向宗は誰もがどこででも念仏を唱えれば極楽に行けるという分かりやすさから、つらい思いをしている多くのパンピーから人気を集めました。
そうやって信者が増えれば寺も強くなっていきます。一向宗の本願寺は大きなシマを持ち、武装もしています。ヤンキー大名たちも簡単に手を出せる存在ではありません。
この信者たちが、一揆を起こしてヤンキー大名に反乱したりします。石山本願寺も影に日向に一揆を支援したり、仲裁をしてあげたりとするので、大名たちは非常に手を焼くことになります。
特に北陸では一向宗の人気が高く、石川県ではパンピーが城を囲んで大名を自殺させ、そのまま100年間自分たちで自治をしました。
信長が一番苦労した敵は一向宗の総本山石山本願寺でした。信仰心をもっている人たち誰もが味方になる寺勢力は大名にも侮れない勢力でした。

海外勢力

この抗争をさらに複雑にしたのは、海外勢力です。
主に明(中国)とポルトガルのやつらです。東南アジアのやつらも来ています。海外との付き合いの意味は、貿易で大名がカネを稼ぐという点と、武器の輸入という点の2つで意味があります。

この頃ヨーロッパでは、プロテスタントという新しいキリスト教の宗派が勢力を伸ばしており、元々あったカトリックという宗派のシマやシノギをガンガン削っていました。
シマを失ったカトリックは、海外にシマを作ろうとして、世界中にカトリックキリスト教の素晴らしさを伝える宣教師を送り出していました。そのパトロンにはスペインやポルトガルという強い国がついており、もちろん、あわよくばキリスト教の支配地域にしてやろうという下心は当然持っています。日本に来たのはポルトガルにケツモチしてもらってるイエズス会という組です。
そいつらと一緒に商人も乗り込んでくるのですが、このときに持ってきた商品の中で、一番魅力的だったのがチャカ(火縄銃)です。(本当はチャカは拳銃のことなんですが、火縄銃だとぽくないのでここではチャカと書きます。)
弓は鍛錬に鍛錬を重ねないと使いこなせませんが、チャカは誰でもそこそこ簡単に扱える武器です。ここから日本にチャカが入ってきて、各地で研究が進み国内でもチャカが作られるようになりました。
鹿児島の島津組は、スペインやポルトガルなどと貿易を始めました。その後、九州内では、貿易の権利を奪い合うようになり、ヨーロッパ勢の関心を惹くためにキリスト教に改宗する大名まででてきました。

明とは銀の貿易が組の大きなシノギになりました。元々日本は特に大した輸出物がなかったのですが、銀の効率的な精錬方法が輸入されてきてから、石見銀山で良質な銀がたくさん作られるようになり、明にたくさん入ってきました。
また、この時代は抗争のときに勝った側が元々いた住民を拉致して奴隷にする習慣や借金のかたに人を売る習慣もあり、盛んに人身売買も行われていました。その中には海外に人を売るシノギをしていたヤクザのようなやつらもいました。(当時のキリスト教的には異教徒には何をしてもOKなのでポルトガルも何のためらいもなく買っていきました。)

そういったものを売って贅沢品など色々と買い物をするのですが、中でもとても大切なのが火薬とその原料の硝石です。チャカは国産化できるようになりましたが、火薬や硝石は輸入に頼っていました。火薬がなければチャカはハジけないので、貿易ができるかどうかも組の暴力の強さに直結してくるのです。

堺の商人

自分たちのシマを守る手段は暴力だけではなく、カネの力も有効です。
この時代、日本史の中でもとても異質な町が生まれます。大阪の堺という町です。
堺は貿易の町で、商人たちが仕切って、中国や東南アジアと貿易をしてめっちゃ儲けていました。堺の商人はめちゃめちゃカネを持っていたので、ヤンキー大名たちも手が出せません
むしろ堺と仲良くなっていなければ抗争の道具も手に入らないので、大名たちもこぞって堺と手を結ぶようになりました。
堺はチャカを大量生産するとともに、火薬や原料の硝石を多く扱っていました。チャカは国産化に成功し、全国に普及しましたが、数を揃えるとなると大変ですし、火薬は消耗品なので、堺とのコネの強さはそのまま暴力の強さに直結します。信長の強さの秘訣は堺とのコネの強さにもありました。

また、堺出身の千利休を中心に、茶の湯(茶道)の文化も広がりました。信長も茶の湯を奨励しました。
この茶の湯ブームに乗って、堺の商人は輸入モノの高級な器を流行らせました。高いものでは城が買えるくらいの値段のものもあったようです。フィリピンの安いツボ(ルソン壺)も高級茶器として売れたりと、実際の美術的価値などは関係なく、輸入品の茶器であれば高く売れました。
この茶器のブームも、武将の統治に影響を与えます。従来、武将が子分に褒美を与えるときは大抵が土地(シマ)でした。しかし、土地は限りがあります。信長なんかは、褒美に茶器をあげたり、茶会を開く権利を与えたりしました。堺の商人と一緒に茶の湯を流行らせて、土地以外の褒美の手段を開発したことも信長の力を強めることになったのです。

一方でセレブたちは・・

下剋上と呼ばれる、下が上を蹴落として力をつける時代です。しかし、どこの馬の骨とも分からないヤンキーがいきなり組長になるのも座りが悪い。そんなときに便利な存在がありました。朝廷です。朝廷もすっかりパワーをなくしていたので、金さえ貢げばいくらでも官位を発行してくれます。
こうしてどこの馬の骨とも分からないヤンキーも朝廷から位を買うことで、立派な人かのように装うことができます。
また、貴族も失業中なので、ヤンキーたちにセレブの学問とか教えるシノギをやってます。力を手にしたヤンキーもここで文化を学ぶ体裁をとって、ちゃんとした風を装います。
意外とこの辺の需要は高かったようです。身近なやつを暴力でねじ伏せたとしても、周囲の他の組の組長から見たらイキったシャバ僧が調子に乗ってるだけにしか見えません。しかし、朝廷から官位を買っていれば、周囲の組長も同盟を組むのにふさわしい相手として見てくれます。ヤンキー同士の同盟には「格」が必要で、その「格」は官位や貴族の教養などカネで買うことができるもので用意できました。

戦国時代のシマの維持

シノギ

というわけで、戦国大名たちは抗争もやるんですが、それと同じかそれ以上に内政も頑張りました。というか内政を頑張ったヤンキーだけが暴力でも優位に立てるのです
この時代の主な産業は農業ですが、それだけではライバルに勝てません。強い組は商業や鉱山開発や貿易のシノギでカネを儲けました。
銀などの鉱山開発は貿易とセットで大きなシノギになったのは前述のとおりです。
商業の振興は、信長の楽市楽座(商業を仕切っていた奴らの特権を排除して、誰でも自由に商売できるようにした)などが有名です。しかし、信長はすべての場所で楽市楽座を認めていたわけではありません。長く続く町で強い勢力がいるところでは、これまでのやり方を保護したりしています。他にも徳政令(借金をチャラにしてやる命令)などを出す大名も多かったのですが、これもケースバイケースです。
何を言っているのかというと、商業の振興も住民の幸せを願ってのことではなくて、シマの奴らが言うこと聞いて、活発に商売をしてみかじめを多く取るためのものだということです。
今までの勢力を維持してそいつらと仲良くした方がよい場所では、既得権益は守りますし、新しく作った町なら自由に競争させた方がうまくいくし、他のヤンキーからぶんどった土地なら、前の支配者の借金なんかチャラにしてやったほうが喜んでついてきてくれるしということで、みんなみかじめをたくさん取れるように地域に合わせて柔軟な経済政策が行われました。
こうやって、様々な地域ごとに特色ある経営をして、特産品を作ったりしたことが、後々の日本の経済に大きな影響を与えます。この時代にできた特産品は江戸時代にも地域ごとの特産品として発展し、全国での交易を活性化させます。また、明治以降の近代化の中でも、地域で大切にされてきた工業の技術がそのまま近代産業につながっていきました。
戦国時代にいろんなヤンキーが組の競争をして、地域ごとの特色を活かしたシマの経営をしたことが、現代の経済にまで繋がっているのです。

同盟は大切

戦国時代には、こんなふうにいろんなプレーヤーが入り乱れて競争をしていました。
戦国時代は全国に散らばる大名と呼ばれるヤクザ、寺など様々なプレーヤーが出てきて、組同士の仁義なき戦いです。
ケンカの強さも重要ですが、どんなに親分一人がケンカが強くともそれだけではよその組に勝てません。だから大切なのが同盟関係です。ヤンキーだって全方位にケンカを売っているわけではありません。仲の良い組同士で子ども同士を結婚させて親戚になったりして、同盟を作りました。日頃から贈り物を贈り合ったりして、俺はすげーものを手に入れられるんだというのを見せつけ合いながら、自分の同盟価値を高める行動をおこたりませんでした。
その時にも、セレブから買った官位などは役に立ちました。
しかし、ヤンキー同士での格は最終的には、どれだけつえーかでしか決まりません。やはり、戦場で勝って目立つことが何よりも大切です。

ヤンキー兜

ヤンキーの視点で戦国大名と言えば、やっぱり派手な兜です。
機能性を犠牲にしてとにかく目立つ。族車と全く同じです。

機能性を犠牲にしてでも派手に目立たなければならないのはヤンキーの宿命
Japaaan「自己主張の強い武将たち…。装飾にこだわったインパクトありすぎる戦国武将の「変わり兜」まとめ」より

真剣に戦争しているのであれば、もっと機能的なものをと思いがちですが、ヤンキーにとって、戦争は自分の子分や周りの組に、自分のすごさを見せるものでもあるのです。

ヤンキーの組織の中で絶対に無視できないのは、子分と周りの目です。親分が親分でいられるのは、子分たちがこの人は強い、怖いという畏怖をもっているからです。
同盟も同じです。こいつは弱いとナメられれば、不利な条件を飲まされるか誰も同盟を結んでくれないという状況になり、周りから攻め込まれます。
ヤンキーの世界では、セレブのようにどこかの偉い人から地位をもらったらそれだけで自動的に皆が尊敬してくれるということはありません。親分には親分の器が求められるのです。

やはり強さを見せつけることが何よりも重要です。強さは戦闘で見せるのが一番ですが、強いところを見てもらうには注目される派手な格好が必要です。


【かっこいいヤンキー兜のサイト】
世の中には、ヤンキーの兜をまとめたサイトがあります。族車のような派手さや自由な発想がとてもおもしろいので、是非見てください。


これは、ヤンキー界の重鎮岩橋健一郎氏がトークイベントで仰っていた話です。

暴走族はよくゴッドファーザーのテーマをバイクから流しています。これは、ミュージックホーンという部品の音で、エンジンの排気をラッパに通して音楽を奏でているのです。
この部品は、1980年代イタリアで作られていました。当時イタリアではフェラーリなどのスーパーカーにこのミュージックホーンをつけていたそうです。日本では輸入品だからとても高価なものでした。
これを持てるのは、財力のみではなく、強さの象徴になっていました。というのもそんなに高価で目立つものをつけていれば他の族も奪おうとしてきます。その中で持ち続けることができるのは、敵を返り討ちにする武力や、皆に恐れられることで抑止できる畏怖が必要だからです。

オークションサイトに出ていたミュージックホーン。現在では価格もだいぶ安くなり、富と武力の象徴ではなくなった。現代では、アクセルを操作してエンジン音を美しく鳴らす「コール」という技術の方が主流である。武士の弓の腕を競う流鏑馬のようにコールのコンテストが行われる。

いかつい族車や特攻服も自分たちの武力や勢力を誇るためには必要です。ヤンキーの世界では舐められたら他のチームにやられますし、下もついてこない。だから、戦国大名のど派手な兜は、親分のすごさを視覚的に理解させる意味でとても重要な役割を果たしていたと思われます。
戦場で独自の派手な格好で目立つことは、ヤンキーとして下の者に自分の強さを見せつけて、組織を強固にすることと、周囲の組にもあいつはすげーと思わせるためには必要なのです。

徳川家康の兜。竹槍マフラーのように天高くそびえるのがかっこいい
https://sengoku-g.net/blog/2018/01/helmet.html/3

ヤンキー兜の造形は、ヤンキー美術の基本に忠実にとにかく派手で、大きいものはより大きく、長いものはより長くという原則に従います。またモチーフも個性的で他の人が使っていないような目を引くものを使うことが多いです。
現代の族車文化にはこれらの兜に影響を受けたような歴史的な形跡はありませんが、それでも同じような方向に進化するのは、ヤンキーが持っている気質は数百年程度では変わらない普遍的なものだからなのでしょう。


上杉謙信のうさ耳兜


前田利家の兜。ヤンキーは長いものはより長いほうがかっこいいと思うセンスは今も昔も変わらない。こんなの被っていたら敵にも居場所が丸わかりになってしまうのではないだろうか?


誰のものか分からない伊勢海老兜。ヤンキーのお茶目さを表現しているのではないか

写真出典:戦国ガイド https://sengoku-g.net/blog/2018/01/helmet.html


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