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だって今日も生きている。

三月の終わり、病床の父が危ないと連絡があった。
十年ほど前から厄介な病気を患っている父はもうずいぶん前から意思の疎通は眼球でYESとNOを示すのみにとどまっている。
父の急変を知らせる連絡はいくらどれだけ覚悟をしていたつもりでもやはり小さく動揺した。

父が死ぬかもしれない、ということももちろんそうだけど、両親や姉妹から私だけが遠く離れた町にいて、その空気の中にいられないことが不安で心細かった。
私はなるべく早くそちらに向かうつもりでいたけれど、連絡は姉からだけであり、母からは一向に何の連絡もなかった。
私が父の状態を姉から聞いているのは母だって知っているはずなのに、母はなにも言ってこない。
つまり、できれば来ないでほしということではないだろうか、と実家からうんと離れた自宅で考えあぐねていた。
母の性格からして、父の急変にはかなり動揺しているだろうし、かといって彼女は父から引き継いでいる家業の仕事を放りだすこともできないだろう。そして、長男の嫁として身内にどう連絡をするべきか、訪れた親戚をどう案内して、どう帰すべきかと頭の中が破裂しそうになっているであろうことは安易に想像ができた。

いくら私が父の実の娘であっても、今は来ないでほしい、というのが母の本音だろうな、と察しがついた。
私が行くこと、それすなわち手がかかる三人の幼児がついてくるということでもあるし。
母のためを思えば私は「行かない」という選択をするべきだったのかもしれない。
行ったとしても子どもたちを置いて日帰りで、父の顔だけを見て帰る、という選択肢がベストだったのかもしれない。
ただしそれをするには夫が三人の子どもたちをたったひとりで丸一日みなくてはいけないということでもある(実家までは片道五時間かかる)。
なんというか、気持ちが自宅に置き去りになるのだ。
病床の父の何倍も自宅が気にかかってしまうのが目に見えている。
父も命がけだけれど、夫ひとりに丸一日託された子どもたちも同様に命がけなのだ。
三人それぞれの絶え間ない主張を聞くのはそれはもう骨が折れるし、その主張の狭間に食事の支度や片付けもある。二歳児を含んだ丸一日のワンオペなんて私だってクタクタになるのに慣れない夫はおそらくきっと絶対必ず間違いなく、なんとお昼寝してしまうのだ。
その間放置された子どもたちの横顔を思うと、単身日帰りはどうしても考えられなかった。
さみしいだけならまだしも、事故でも起きたら後悔だけではすまない。

そして何より、私ひとり、気持ちを自宅に残したまま、父の最期になるかもしれない時間をやり過ごすのが嫌だった。

生きている父に会えるのはこれが最後かもしれないという思いよりも、もしこれが父に残されたわずかな時間だとしたら、その数日をみんなで過ごしていたいという思いがあった。
いつか「あの時」を思い返したとき、私だけが蚊帳の外にいて、みんなとなんの思いも共有できないのはとても孤独なことだと思ったのだ。
遠く離れた自宅で、私には私の思いがあったとしても、それは誰とも共有できない「あの時」になってしまう。
その思いは父にもしものことがあった時のかなしさや虚無感を助長するものになるだろう。
私にはそれを乗り越える自信がなかった。

結局、食事の支度(姉家族も半同居していて、普段は主に母が食事の支度をしています)のすべてを私が担う、という話によって私と子どもたちの滞在は叶い、四日ほど実家に滞在することがでた。その間に何度か父の顔を見ることもできた。
近くに住む妹の様子も会って感じられたし、私の様子も伝わったはずだ。
これでもし、万が一父に何かあっても姉妹とぎゅっと手をつないだ心地が確かにあったから大丈夫だと思えた。
私が私のためにそうしたことは少し後ろめたくもあったし、今も少し我儘だったかな、と思う部分もある。
けれど私も私なりにサバイブしなくてはならないのだ。なぜなら私には私の家族がある。
かなしさや虚無感に押しつぶされてしまうわけにはいかないのだ。

自宅に戻って数日後、父はとりあえずの難所は超えたとのことだった。
延命治療についていろんな議論が飛び交うこの頃だけれど、少なくとも父に関しては、この難所を超えてなお生きているということが、生きるという意思なのだと私は思っている。

あとどれだけ生きられるかなんて、私だって父だって分からないという点では等しく同じだ。
明日の命の保証なんて誰にもない。
いま、生きているということだけが答えだよね。


また読みにきてくれたらそれでもう。