ニーチェ先生でイキれない

電子書籍のいいところは、いつでもどこでもサラっと読み返せることで、あの漫画のあの場面だけ見たい、という時などに便利です。

あと、ちょっとエッチな漫画とかも気軽に買えてしまいますね。いやもちろん、note随一の清純派として名が通っているぷらーなが、そんなものに微塵も興味があるわけがなく、ホットミルクとか快楽天とかなんのことだかさっぱりわかりませんが、まあそういうことも可能であり、それはまさに文明開化ですよ。

かつて、『快感♡フレーズ』を買うためだけに、あえて誰も客が入っているのを見たことがないマイナーな書店に駆け込んだあの夏が懐かしい。

その書店はその後すぐに潰れてしまったのですが、恥ずかしい本を買う時に何度かお世話になりました。その節はありがとうございました。

ただ、売り物の雑誌をカウンターで堂々と読んでいるのは、当時の中坊の感覚からしても、ちょっとどうかとは思ったが……。今あんな書店があったらすぐにSNSに晒されて、軽く炎上しちゃうんじゃなかろうか。

とはいえ、紙の本ならではの良さというのもあります。それは、うっすらと漂うインクの匂い、つやつやしたページをめくっていく喜び、何よりもその本を所有しているという幸福……。

うん、本当に本が好きな方々は、そういったところに魅力を感じられるのだろうし、それはもちろん素敵なことです。

でも、高校生の頃のぷらーなにとって、それらよりもよっぽど大事なことがありました。

それは、頭が良さそうな本を読んでイキることです。

要するに本でカッコつけたかったのです。渋い本を読む俺カッケーがやりたかったのです。それは、電子書籍ではなかなかできないことです。

当時の自分は、自称するのもなんですが、そこそこの読書家で、休憩時間には図書室に入り浸り、放課後にも図書室に入り浸り、文化祭の日にも図書室に入り浸る日々でした。もはや、図書委員よりも図書室にいる時間が長かった。友達が少なかったのもあるが。

読む本のジャンルもまた幅広く、原爆の後遺症に苦しむ人々のとてつもなく凄惨な日常が描かれている井伏鱒二先生の『黒い雨』を2週間かけて読んでその後しばらく暗い気持ちになり、戦時中に大学病院で起きた不祥事を題材にした遠藤周作先生の『海と毒薬』を徹夜で読んで翌日は人間の愚かさに絶望したりする日々。

ベタに太宰治先生の『人間失格』も読みましたが、あれは鬱というよりも、俺は子供の頃からめっちゃモテたぜ自慢を延々としてくるこのナルシストはなんなんだという気持ちのほうが勝ってしまって、意外とあんまり凹まなかったです。

そういったイキりが頂点に達した頃には、ついに御大ことニーチェ先生の『ツァラトゥストラはかく語りき』に手を出す始末。まあ中二病ならみんな行き着く先はニーチェ先生ですよ。すでに高2でしたが。

もちろん内容など理解できず、長い山籠りから帰ってきたかと思えばいきなり神は死んだとかおまえら超人になれとか言い出すツァラトゥストラ氏についていけず、作中の山麓の市場の人々と同じくポカンとするしかないのですが、イキるためには理解できなくても読み進めなくてはならないし、電車の中で、バスの中で、休憩時間に机で、文庫本を拡げてイキらなければならない。

しかし、わざわざ説明するまでもないのですが、理解できない本を読むというのは苦痛なものです。難しい映画を観ると眠くなるし、わからない授業を聞いていると眠くなるものです。それは人間の生理なので避けられません。

だけど、わたしは読書家であり、ツァラトゥストラ氏の哲学思想に感銘を受けているフリをしなければならない。教室の片隅で。

なのに、窓際の席だったこともあり、午後の暖かな太陽の光が、真横から容赦なく差し込んできて、暴力的な眠気がガンガン襲ってくる。ページを進めても進めても、このおっさんは神は死んだって何回ゆうねんという感想しか出てこないし、何も学べない、ついウトウトしてしまう。これではいかん。なんとかイキらねば。

そう決意した自分は、両頬をアントニオ猪木さんもびっくりの強烈ビンタで叩いて眠気を噛み砕き、教室を出て、大谷翔平さんが投げる球よりも速く、別の校舎へと走り出しました。

なにせ昔の話なので、多少の誇張表現が含まれていますが、自分の脳内ではたぶんそういう感じでした。まだ中二病の進行期だったので。

中庭を伝った先の校舎の4階の教室には、Fくんがいるはずである。彼は学年きっての読書家であり、秀才であり、有識者であった。はっきりいって、こんな中堅レベルの偏差値の高校にいるべきとはいえない人物である。

それもそのはずで、本当は近隣で最難関の名門校を目指していたが、不運にも入試の時期にインフルエンザに罹ってしまい、やむなく併願だった我が校に入学したという事情を持つ。

ちなみにその後、超有名国立大学へと進学し、後に届いた暑中見舞の葉書によると、念願のイギリス移住を果たすために努力されているとのことだった。エリートである。ツァラトゥストラ氏の言葉を借りれば、自らを超克して超人となったのだ。

Fくんなら、ツァラトゥストラ氏が何をおっしゃりたいのかを、自分のようなアホにも、簡潔に、ユーモラスに説明してくれるはず。

その予想どおり、Fくんは懇切丁寧に、ニーチェ先生が同著で述べたいことについて教えてくれました。教えてくれたのですが、今度は彼の穏やかな口調が眠気を誘い、途中から作曲家のワーグナー先生の話になってからはほとんど聞いておらず、結局ツァラトゥストラ氏の思想はやはりよくわからんかった。

ニーチェ先生とワーグナー先生との関係は、かなり複雑なものでした。

哲学者でありながらピアノも弾けたニーチェ先生はもともとワーグナー先生に憧れており、それゆえに30歳ほども離れていながらマブダチになったのですが、その憧れはやがて不仲を引き起こす原因ともなり、何度も絶縁や修復を繰り返してうんたらかんたら。

哲学もわからないしピアノも弾けないし結果的に私立の大学にしか行けなかった自分は、それゆえにFくんと不仲を引き起こすこともなく、いつしか暑中見舞も来なくなりました。

今は電子書籍で『ツァラトゥストラはかく語りき』を持っているのですが、やはりよくわかりません。ググってもよくわかりません。

それよりニーチェ先生がオナ○ーしすぎなのをワーグナー先生が心配していたとかいう話のほうが気になる。その情報は紙の本で読んでいた頃には知らなかった。そうして作品の外にある知見に触れられるのは、電子の良いところである。

博学なFくんは、きっともっとちゃんと書籍を読んでいて、ニーチェ先生のオ○ニー問題についても詳しく存じているのだろうか。

もし次に暑中見舞が来たら、返信でそのあたりのことを訊いてみようかな……。いや、やっぱやめとこうかな……。電子だとすぐこんなことを書いてしまうので、ニーチェ先生を読んでも全くイキれねえ。

サウナはたのしい。