見出し画像

母の肉まん

「ゆきえちゃーん、お母さん来たよ!」
先生の呼ぶ声がする。

私はそれまで使っていた遊具を放り出し急いでカバンをとりに行き母のもとに駆け寄った。一日離れていてやっと迎えに来てくれた母の顔を見ると嬉しさがあふれ出てしまう。先生にさよならを言って母と一緒に歩き出す。外の風は冷たかった。

保育園の門は商店街に続いていて、母と私はいちばん手前のスーパーへと向かう。スーパーの店先では肉まんとあんまんが保温されたガラスのショーケースの中に並べられ売られていた。

スーパーの中に入ると冷蔵の陳列棚が冷気を放ち、さらに冷たい空気が私の顔を包み込む。母は「今日のご飯何にしようか」と言いながら特売の品や値下げされた食材を買い物カゴの中に入れていく。

レジに行くと周りには小さい箱に入ったおまけ付きのお菓子やプラスチックのカラフルなおもちゃがついたガムなどが売られていて心惹かれるのだが、大抵の場合ねだることはあまりしなかったような気がする。子供なりに我が家の経済状況を理解していたのかもしれない。

レジを済ませて出口へ行くと先ほどの肉まんとあんまんがおいしそうにこっちを見ている。母が言った、「肉まん買おうか」。私はその言葉を待ってました、といわんばかりに笑顔でうなずいた。

我が家はあんまんより断然肉まん党だ。店員さんにホカホカと湯気を立てた肉まんを3つ、紙の袋に入れてもらう。袋の上からも柔らかく熱い肉まんの感触が伝わってくる。

肉まんが「早く食べて、熱いうちが食べ時だよ!」と言っているような気がする。だけど「食べるのは家に帰ってからね」と母に言われ、すぐにかぶりつきたい気持ちを抑えて母の自転車が止めてある広場まで歩いていく。

帰り道、自転車をこぎながら「春のうららの隅田川」を歌っている母の歌声を私は補助座席で揺られながら聴いていた。母は季節に関係なくいつもこの歌を歌っていた。

家に着くと母はお茶を入れ、ひとりで留守番をしていた兄と3人で座卓を囲み肉まんをひとつづつ食べた。さっきまでアツアツだった肉まんは少し冷めてしまったけど、それでもまだぬくもりが伝わってくるほどには温かい。

最後のひとくちを名残惜しそうに味わって食べる。おいしいものはすぐなくなってしまうのがいつも悲しかった。でもこれでペコペコのおなかが膨れた。食べ終わった母は立ち上がって台所に行き夕食の支度を始めた。

我が家は母と3歳年の離れた兄と私の3人暮らし。公団の分譲住宅の3階に住んでいた。

この団地には家族4人で移り住んでくるはずだったのが、父は前に住んでいた社宅にいた時に病に倒れ入院。そのまま帰らぬ人となった。記憶にはないのだが、お通夜とお葬式をこの団地で行った写真が残っている。

これは私が大人になってから話してくれたことだが、父が亡くなったとき、自分も後を追って死のうと思ったことがあるそうだ。でもまだ幼い私と兄がいたことで思いとどまったと。

母は二人の子を育てる収入を得るために働かなければならなかったが、ずっと家事手伝い、専業主婦だった母にとって、勤めに出るのはハードルが高かったのかもしれない。子供が小さいこともあり家でできる仕事を選んだ。 

最初のうちは家で洋裁や和裁の仕立てをしていた。手先がとても器用な母は洋服をまるで魔法のようにとても美しく、既製品かそれ以上のもののように仕立てた。

仕事が丁寧な分時間もかかる。それだけでは家計が苦しかったようで、そのうち母は洋裁、和裁の受注を止め、朝と夕方の新聞配達と新聞代の集金の仕事を始めた。その他にもチラシ折りの内職やポスティングの仕事をいくつも掛け持ちしていた。

仕事が重なる忙しい時期はなかなか大変だったようだが、それ以外の昼間は自由な自分の時間があり、母はそうゆう働き方を選んだ。

時間に余裕がある時はいろいろなものを作っていた。趣味が多く、生け花やレザークラフト、木目込みのお人形など、とにかく手先を使うことが好きだった。

園芸が大好きで花と緑を愛していた。ベランダは足の踏み場もないほど鉢植えでいっぱいだったし(それに対して私は度々文句を言った)団地の階段横のスペースもほぼ私物化していろいろなものを植えていた。

料理も上手で梅酒や梅干しを漬けたり、お菓子などもよく作った。時々は肉まんも手作りした。

少し私が大きくなると母について「嫌だな」と感じる部分が目につくようになった。栃木県出身の母は家では自分のことを「おれ」と言っていた。女なのに「おれ」なんて。ずっと東京で育った私には粗野な感じがしてこれがとても嫌だった。

母の自転車は大きなゴツイやつで新聞配達用の幅の広いカゴがついていてそれを普段にも使っていた。一緒に出掛ける時はその自転車が恥ずかしいと思った。だいたいのお母さんたちは皆んなお洒落なミニサイクルに乗っているのに。

「お母さんの職業は?」と聞かれて「新聞配達」と答えるのがなんとなく恥ずかしかった。会社勤めの都会的なお母さんだったらどんなに素敵だっただろう。

外出中に道端に何か興味を惹かれるもの、例えばヨモギとか何かが生えているのを見つけると、母はどこでも構わずしゃがみこんでせっせとむしりだすのだ。通りがかった人たちは何事だろうとジロジロ見ながら通り過ぎる。

母は人目をあまり気にしなかった。その反対に私は人の目を気にしてばかりいる子だったので、一緒に出掛けるとそんな母の行動が恥ずかしかった。私はそのたびに隣で他人のように立ち尽くすのだった。


あれから20年近く経ったある日、私達は夕食をとるためインドネシア、バリ島レギャンのレストランにいた。私と結婚前の夫、私の兄と母の4人。兄と母がバリに来たのは私の結婚式に出席するためだった。

母は初めての海外旅行で見るもの何もかもが珍しく、それをとても楽しんでいるようで気持ちがウキウキしているのが伝わってくる。

夜になって気温は下がったものの南国のねっとりした空気は相変わらず肌にまとわりついてくる。屋根があるだけのオープンなそのレストランのテーブルは若干油気を帯びてベトベトしている。母と私は向かい合わせに座っていた。

注文を待っている間、夫は兄と母を相手に拙い日本語でなにやら話している。私は手持ち無沙汰に周りをぼんやり眺めていた。私の斜め後方には柱があり、ランダのお面が飾られている。

バリ島の魔女ランダは「未亡人」「寡婦」を意味し、長くたれ下がった舌や乳房、やせ細った体や牙が特徴で老婆の姿をしている。ランダの像には、子に乳を与える姿と子を食いちぎる姿があり、鬼子母神のバリ化した姿だと言われている。

母はそのもじゃもじゃの白く長い毛のお面を見つけ、しばらく見つめていたと思ったら、突然そのお面に向かって「イーッ」という顔をした。顔をくしゃくしゃにして、駄々っ子がするように。無邪気な子供のように。母ははしゃいでいた。

私はその時母に対して軽い嫌悪感を覚えた。なぜなら母がすごく幼稚に思えてしまったから。

私はこのことをもうずっと昔のことなのに鮮明に覚えていて、あの時の母の顔が今も目に焼き付いている。なぜだかわからなかった。大した出来事でもないはずなのにって思っていた。

先日ヨガをしていると脳裏にまたあのバリ島での母の姿が蘇った。ふと私は母に嫉妬していたのだ、と思った。ただ、そう感じた。

クンダリーニヨガのエネルギーワークは時折思わぬ感情を炙り出す。私は愕然とした。だってそれは今まで考えもしなかった感情だったから。

私は母に嫉妬していた。なぜなら母は自分の心のままに生きていたから。子供のように自分の感情を素直に表現していたから。

母のことを恥ずかしいと思ったのはすべて私の勝手な反応だ。母は自分が子供の時から使っていた一人称で自分のことを呼びたかっただけだし、ゴツイ自転車だって我が家の家計を支えていた大切な商売道具。ましてや私達家族の生命の糧となっているその神聖な職業を何故恥ずかしがる必要があるのだろう。

今まで私は母に似ていると思っていた。確かに姿かたちは似ているかもしれない。昔の母の写真は私にそっくりだと言われる。でも中身はまるで違う。母はいろいろなものから自由だった。

きっと私も心の奥底では母のように自由に振舞いたかったに違いない。でも私の自我がそれを許さなかった。自分を出すことを拒否された私の中の子は恨みがましい視線を母に向け反発することで、ここから出してほしいとずっとサインを送ってきていたのだった。

私はただ羨ましかっただけなんだ。。

ずっと母の魂は私に気づかせようとしていたのだ。「ほらほら、こんな風に好きにしていいんだよ、何も恥ずかしがることはない、もっと自由にふるまっていいんだよ、そのままの自分で」と。

愛とは心地よいものだけではない。やっと今それに気がついた。

この世の中はバランスで成り立っていてすべてのものがお互いを補い合い存在している。私と兄の存在が母にひとりで生きていく勇気を与えたかわりに私たちはそれ以上の、めいっぱいの愛を受け取っていた。


今母のことを思い出すと私は本当に愛されていたんだなあと感じる。

決して裕福ではなかったけどひもじい思いは一度もしたことがなかった。多分それは母が一番心掛けていたことなんだろう。

子供たちにお腹いっぱい食べさせたい。そんな思いで忙しい中、色々な食べ物を手作りしてくれた。

誕生日によく作ってくれたお寿司はマグロと玉子の握りと海苔巻きとお稲荷さん。食卓に置いた電熱線のコンロでワクワクしながら焼いて食べたたこ焼きやお好み焼き。餃子やシュウマイを作った時はご飯がいらないほどたくさん食べた。そして特別感はない質素だけど心がこもった毎日の食事やお弁当。

忙しい時は簡単に済ませたりはするけど、母はスーパーのお惣菜を買うことをあまりしなかった。一度テレビでしきりに宣伝していた温めるだけのハンバーグだかミートボールがどうしても食べてみたくてねだって買ってもらったことがあったが、いつも母が作るものとは大違いでがっかりしたのを覚えている。

食べ物だけではない。小学校の入学式に合わせて作ってくれたくすんだ緑色のワンピースと紺色の上着。木目込みで作ってくれた段飾りのお雛様。ねだって編んでもらったかわいいポケットがついたピンク色のセーターなどほかにもたくさん。すべては母の愛情表現だった。

ひとりで眠るようになってからはよく夜中に目を覚まし、怖くなって居間で布団を敷いて寝ている母の傍らにもぐりこんだ。その時の母のぬくもり、匂いの中で安心して眠ることができた。母との思い出は数え上げればキリがなくすべてが懐かしい。

私はたくさんの、私が受け取った分の愛を母に返せていただろうか。多分その半分も返せていない。

子供は親を選んで生まれてくるという。親は子供によって成長し、子供は親の背中を見て育つ。

私はこの母を選んだ自分を誇りに思う。すでに天国へ帰ってしまったから直接の親孝行はもうできないのだけれど、それはこれからの私が残りの人生を愛とともに自分らしく生きることで母は喜んでくれるはずだ。


私は母の手元を見ていた。淡いピンク色をした細く筋張った手が器用に白く柔らかい生地を伸ばし甘辛く煮た肉のあんをきれいに包んでいく。

包み終えたところで湯気がたった中華鍋の上に乗せたせいろに距離を置きながらまあるく並べ、蓋をして蒸しあげる。

私はお皿に取ったアツアツの肉まんをフーフーしながら一口食べた。母の肉まんは少し小ぶりで皮も市販のもののようにふわふわとはしてはいなかったけど、中に肉のあんがこれでもかとたっぷり入っていた。

おいしいものはすぐになくなってしまう。ペロッとひとつ食べてしまった私は「もうひとつ食べていい?」と聞いてみる。

母は笑顔だ。
「いいよ、いくつでも」

おなかいっぱいになるまで食べられるのが何よりも嬉しくて幸せだった。



画像1

小学校の入学式の時、母と。
もりもり食べてたせいか背が高く身体が大きかった。



ーーーーー

この作品は10月31日にオンラインで行われた小野みゆきさんによるクリエイティブ・ライティング講座に参加した際に課題として書いた書き出しの部分に後から続けて書き上げたものです。

書くテーマを決める際に行ったワークでは子供の時の母との思い出が私にとってかけがえのない、とても大切なものだということに気づきました。3LDKの団地で母と兄と私の3人で過ごした日々を思い出しながら書きました。

どう続くのか全くわからない段階でただ書き始めたのですが、書き進めていくうちに、ああこうゆうことだったのか、というところに行きつきました。やはり書くことは私にとっての癒しになっているのだと感じました。

ワークショップは、長時間でしたが楽しくてあっという間に時間が過ぎました。小野さんにアドバイスをもらえたり、他の参加者さんとのワークがとても刺激になり参加して良かったと思います。普段使わない脳の使い方をしたせいか終わった後の疲労感がすごかったです(笑) 


最後まで読んでいただきありがとうございました。下の記事にも私の母について書いています。よろしかったらどうぞ。









いつもありがとうございます。 世界に愛を広げていけるよう日々精進してまいります。 応援していただけると嬉しいです💛 https://note.com/purestblue/n/nabf1b9cefc7c