カテゴライズされることは安心か嫌悪か

note、更新するの1年以上ぶりなんだ…去年とか結構更新してたのに、ってびっくり。んなことどうでもいいんだけど。

表題の通りですが、最近いろいろ思うところがあってこの記事を書こうかなって思います。
今回の記事は、前回の記事みたいに、今辛い人に何かを伝えたい!というものではなく、自分の中での考えを書き留めておく、という意図が強いです。
なので、結果とか出ないです。多分ずっと、考察は続くんだと思う。

きっかけは、自分がトランスジェンダーなんだってことをはっきりと自覚というか、知れたことに始まったんだけれども。
(トランスジェンダーに関しても記事を書くつもりです、多分今日中?)

自分は、過去の病気、うつ病とか、その他の精神疾患も、障害も、トランスジェンダーであることも、その状態、自分が辛くて、だけどそれが何なのかがわからない状態が一番つらくてしんどくて、だから心療内科に行くことだったり、自ら調べることだったり、専門家に相談することでその状態に名前がついて、同じような人がいることとか、医学的にそういう症例があるって認識されていることで楽になるタイプなんですけど、この感覚って人それぞれによるもので、例えばうつ病1つとっても、「うつ病だなんて認めたくない」「診断を受けて確定したくない」って思う人もいるわけじゃないですか。

それって、すごく難しい問題だと思っていて、自分の症状に名前がつくことで安心する自分って、それはそれで恵まれた感性なのかなぁ、と思ったりしていて。

例えばうつ状態にあるであろう人に対して、他者がどんなに「心療内科に行けば楽になるよ、薬も出るし、治りも早くなるかもしれないし、悪化を防げるかもしれないし」って伝えても、それが当人に正確なニュアンスで伝わるかどうかっていうのは伝え方もそうだけど、受け取る側の問題でもあって、(”受け取れないのが問題”って言ってる訳じゃないです、)たとえばその人のそれまで生きてきた環境であったり、その人自身の感性や感覚の問題であったり、それを勧めてくる人との関係性であったり、そもそも相手の言葉をすんなりと受け入れられる精神状態かっていう問題があったりして。

名前をつけてカテゴライズすることって、その感性によっては、すごく難しい問題だと思うんです。繰り返しになっちゃうんだけど。

もし、自分が認めたくなくても、お医者さんからしたらカテゴライズすることでその症状に正しい薬を出すことが出来たり、逆に、自分が病気であることに対しての認識があって、楽になりたくて通院したくても、診断が欲しくても、周りの偏見だったり、環境だったりで、それを許されない人もいて。
例を挙げると、特に当人が未成年者の場合、保険証を自分で常時持ってない状態で、心療内科に行きたいと思っても、精神疾患に対して偏見がある親の元では、心療内科に行くことすら許されないっていう場合だったりとか。

それってものすごく苦しいと思うんです。だってどっちも、本人の意思とは異なる対応をされる訳だから。

それと、周りの環境。
この前、発達障害の番組がやっていて、自分は偶然その時間に起きていてたまたま見れたんだけど、自分の子供が発達障害と知れたからこそ、その子にあった環境を整えてあげられることが出来た親御さんがいる一方、「正直(自分の子が発達障害とは)認めたくない」っていう親もいて、まぁ正直な気持ちなんだろうけど、それって、認めたくない親も、何より実際にそうなのに、一番苦しいのは本人なのに、認めてもらえない子も、すごく辛いだろうなぁって思って。

こういう言い方すると他人事みたいに感じられてしまうかもしれないんですけど、そうじゃなく、自分の時もそうだったんです。

わたしがうつ病だって知った時、自分は救われた気持ちがして、だって対処法もお薬での緩和も見込めたから。
でも、親は違った。

わたしの目の前では言わなかったけど、そういうのに偏見があるような環境で育ってきたような人だったから、受け入れるのに時間がかかったり、「うつ病じゃないと思うんだけどなぁ」なんて言い方から、うつ病だと思いたくない、ってニュアンスが感じられた。

そこの齟齬って、関係性が近ければ近い程、つらい。

自分はやっと辛さ苦しさを認められたような気持ちになるのに、一番近くにいる人が受け入れてくれない。
自分は認めたくないのに、他人から勝手にカテゴライズされる。

医師がカテゴライズすることに関しては、医師にもよるだろうけれど、本人がそれを受け入れ難いといった難色を示しているのであればあえて病名ははっきりと伝えずに対処する、とかって配慮をしてくれたりもするし、そもそも自分の判断で病院に行っている場合は診断を受けるという選択肢を選んでいることもあるのである程度マシなのかもしれないけど、専門家でもなく、詳しく知りもしない第三者が「こうなんじゃない?」って口出してくるのは、結構しんどかったりする。
かといって、それをはっきり否定できるか否かっていうのは、自分が意見を言えるタイプかとか、言えるような相手かどうか、とか、自分個人で断言して良い問題かどうか、はたまたそれをはっきりと否定することで、言い方によっては該当者に偏見や差別を持っているような言い方になってしまわないだろうか、みたいな気持ちも湧いてきて、複雑。

何か困っている人に、悩みがあって相談してくれた人に、(恐らくこうなんじゃないかな、自分ではなくもっと専門機関に相談したほうがいい状態なんじゃないかな、)って思っていても、それを勧めることで拒絶されてしまう場合もあるし、その自分の判断によって、相手が「自分には相談しないでほしい、他人に相談してよって思ってるってこと?」「決めつけられたくない、もう誰にも相談しないほうがいいのかな」なんて、悪い方向に転ぶことだってある。

言葉の選び方、思いの伝え方って本当に難しくて、自分の場合はボキャブラリーに富んだ人間でもないし、対人がうまく出来ないまま生きてきた人間なので慮るってことがより出来てないんじゃないかなって思うことも多々あるし、だからこそなるべく相手の気持ちを意識しながら言葉を選んでるつもりではあっても、どんなに努力しても、気をつけても、誤解が生じてしまうことはあって、その誤解も、相手が「その言い方は納得いかない」とか、はっきり言ってくれるような相手であれば自分も「ごめん、そういう意図じゃなくて、こういうことを言いたかったんだ」って、語彙力が足りないなりにももっと説明するってことが出来るんだけれど、多くの人は嫌だな、って思って傷つきながらも、相手にはそれを伝えられずに、そっと距離をおいたり、自分が傷ついてることを隠しながら関係を続けたり、そして傷つけてしまった側はどの言葉に相手が傷ついてしまっているのかわからなくて同じ言葉選びをしてしまって、余計に傷を深くさせてしまったり。

表題とは違う話まで進んでしまったけれど…とにかく、人の感じ方、モノの捉え方、価値観、って、本当に多種多様で、相手の頭の中なんて読めないし、ほんの少しの表情の微々たる変化でそれを感じ取れる人もいるのかもしれないけど、日本人は特に、傾向として#MeTooが海外よりも広まりが難しい部分からも感じ取れるように、個人の意見(特に嫌だと思った気持ち)を言うことに対して風潮的に弾圧されてきた部分があると思っていて、それでもネット上では少しずつ改善されてきてるとは思うけれど、リアルな世界では、まだまだ愛想笑いをしなければならない状況って、そういう状況にいる人達って、たくさんいる。
匿名でも自分の意見が発信できるネットよりはやっぱり、素直な反応ができる環境って、まだまだ整ってないと思う。

今後も、人と話していく中で、相手の話を聞く中で「こうじゃないかな」って思ったことに対して、相手が該当するかもしれない枠組みを知ることで安心する人なのかどうか、カテゴライズされることに嫌悪感を感じる人なのかどうか、どういう言い方をすればなるべく誤解を避けられるのか、そもそも自分が勝手に感じたことを伝えて良いのかどうか。
ずっと、悩むと思うし、人と話す限り意識して考えていかなければいけないと思うし、自分が人の言葉に敏感だからこそ、こうして考えられることでもあると思うし、今後とも、理屈っぽいと言われることもあるけれど、それでも考えることを放棄しない自分で在りたいな、と思う。

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