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【1000字書評】ツルゲーネフ『はつ恋』/『ドライブ・マイ・カー』(村上春樹原作・濱口竜介監督)160年前の「女のいない男たち」

先日の書評講座の課題は、ツルゲーネフ「はつ恋」だった。
言わずと知れた、19世紀のロシアを代表する文豪による古典の名作である。読んだことはなくとも、書名だけは知っているという人も多いだろう。そしてもちろん私もそのひとりであり、今回はじめて中身を読むことになった。

ロシア19世紀文学の特質である、静かな深い憂愁が漂う名作――。
昭和27年刊行の新潮文庫版は104刷、219万部の超ロングセラー。

上の新潮文庫の宣伝文句にはこんな言葉が書かれている。
きっと甘酸っぱい初恋が切なく美しく描かれているのだろうと思いつつ、実際に読んでみて書評を書いたところ……下記のようなものとなった。
※古典なのでネタバレも何もないかもしれませんが、結末まで書いてあります。

1000字書評                            

映画『ドライブ・マイ・カー』では、40代の主人公の男が涙を流す。その場面について、濱口竜介監督は、「男性で、しかも年長者になりつつあるということは、気がつかないうちに強者の態度を取る罠にはまる可能性があって、その危険は常に感じています」と語っている。

『はつ恋』では、16歳の主人公が隣家の娘ジナイーダをひとめ見て恋に落ちる。だが、「わたし、誰の手にもひっかかりはしないわ」と言って、崇拝者たちを弄んでいたジナイーダにとっては、5歳も年下の主人公は気まぐれにからかう相手に過ぎなかった。

ところが事態は一変する。蒼白な顔に悲哀と疲れの色を浮かべ、恋の詩に耳を傾けるジナイーダを見て、主人公はようやく悟る。
「彼女は恋をしている!」

ジナイーダの恋の相手はだれか? 
と疑問形にしてみたが、よほど鈍い読者でもないかぎり、早い時点で主人公の父が怪しいことに気づく。
そもそも冒頭から、若い美男子である父が財産目当てで10歳年上の母と結婚したことが、意味ありげに記されている。

父の不倫は世間の噂になり、主人公一家は引っ越しをする。
ある日、主人公が父と乗馬に行くと、ジナイーダが待ち受けていた。そこで主人公は、ジナイーダが父に鞭打たれる場面を目撃する。鞭について主人公が尋ねると、「捨てたのさ」と父は言い放つ。

しばらくして手紙が届く。それを読んだ父は興奮して泣き出し、その二、三日後、脳溢血で命を失う。数年後、主人公はジナイーダの死を知る。

主人公である息子にとって、父は圧倒的な強者であり、「乙に気どり澄ました、うぬぼれの強い、独りよがりの男」と語られている。父は「征服」したジナイーダに対しても、鞭をふるって強者としてふるまう。

しかし、その「強さ」は資産家の女と結婚した立場を基盤としたものであり、父自身の資質ではない。中身のない、すかすかの「強さ」だ。
本人もそれを自覚していたからこそ、平気で何度も妻を裏切り、冷淡に息子と接し、無残に恋人を捨てることで、男らしい「強さ」を誇示しようとしていたのではないだろうか。
けれども、恋人からの手紙によって、その虚ろな「強さ」が崩壊する。
結局、妻に尻拭いをしてもらい、あっけなく死ぬ。

先のインタビューで監督はこう語っている。
「『男性の弱さ』とそれを認めるという意味での『強さ』を描く必要を感じました」
いまようやく、男性が「男性の弱さ」と向きあおうとしているのかもしれない。

*インタビュー出典:2021年8月24日付 現代ビジネス(講談社)のサイトより

書評あとがき 『ドライブ・マイ・カー』との連想

やはり長く読まれてきただけあって、最初に予想したような「甘酸っぱい初恋物語」みたいに甘くはなく、父と息子の葛藤、零落した貴族であるジナイーダとないがしろにされる主人公の母のそれぞれの立場、さらに、語りの枠という視点(この物語は、40歳になった主人公が思い出話を綴るという形式で書かれている)、唐突に描かれる老婆の死……

など、さまざまな観点から読み解くことのできる小説だったが、どうしても私は少し前に見た映画『ドライブ・マイ・カー』と重ね合わせてしまった。

映画『ドライブ・マイ・カー』は、村上春樹の短編集『女のいない男たち』所収の「ドライブ・マイ・カー」を原作としているが、同じ短編集所収の「シェエラザード」「木野」の内容も編みこまれていて、『女のいない男たち』の全体像を映し出した作品だとも言える。

女のいない男たちになるのはとても簡単なことだ。一人の女性を深く愛し、それから彼女がどこかに去ってしまえばいいのだ。

「女のいない男たち」

と書かれているように、ジナイーダを失った「はつ恋」の主人公も父もあっさりと「女のいない男たち」の仲間入りをする。

ところが、「女のいない男たちになるのはとても簡単なこと」でありながら、そのまま生き続けていくことは簡単なことではないようだ。
父はまだ若いというのに、あっさり病死する。
「独立器官」(『女のいない男たち』所収)の渡会医師のように。

おそらく、ジナイーダからの最後の便り――物語の中でその内容はあきらかにされていないが、母が送金した事実から脅迫に近いものだったのかもしれない――によって、ジナイーダを捨てたつもりでいた自分が、ジナイーダに捨てられてしまったことに気づき、〝女を思いどおりにする自分〟という幻想で構築していた世界が崩壊し、死に至ったのではないだろうか。

一方、少年だった主人公は40を超えても誰とも結婚せず、仲間たちとの恋バナの席ではもったいぶってその場では語ろうとせず、後日こんな手記(この小説)をしたためて持っていく始末。

そして彼女の死と共に、僕は十四歳のときの僕自身を永遠に失ってしまったような気がする。

「女のいない男たち」

この主人公も、ジナイーダの死によって、16歳の自分を永遠に失ったのだろう。

この物語の最後、ジナイーダの死を知った主人公は、「どうしてもそうせずにはいられなくなって」、貧しい老婆の臨終に立ち会う。
貧しい人生を送ってきた老婆は、死に瀕してもいっこうに救いを見出せず、最期まで苦しみ続ける。ようやくおびえの色が消えたのは、意識を失ったときだった。

それを見た主人公はそら恐ろしい気持ちになる。
ジナイーダは救われたのだろうか? 
父は? そして自分は救われるのだろうか?

ひたすらに主人公は、ジナイーダのために、父のために、そして自分のために祈る。「女のいない男たち」を締めくくっているのも、祈りの言葉だ。

女のいない男たちの一人として、僕はそれを心から祈る。祈る以外に、僕にできることは何もないみたいだ。今のところ。たぶん。

(2022/12/13 2021/10/16付はてなブログ記事を加筆修正)

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