【読書録】アレクサンドル・ジノヴィエフ『カタストロイカ』3 半年続けた読書の散漫な雑感

 やっと読み終えることが出来たが、余りはっきりした感慨もない。前回に、騙されたと書いた通り、何というか、真剣な読書ではなかった。が、それなりに得るところもあった。

 そもそもこの本を手に取ったのは、これもここで取り扱った気がするが、西谷修という人が、本の中でこの本について触れていたことからだった。どういう文脈かというと、ロシアやソヴィエトとして括られているこの地域のこの政治体は、一般に言われているように社会主義とか共産主義とかの革命があって、現在は資本主義に捲られているという単純な見方には収まらない、独特の力があるのだ、ペレストロイカという、ロシア国内で資本主義を取り入れる試みの中に、それが滲み出ているよ、という紹介の仕方だった。
 そして、確かに、引用されている所を読むだけではなく実際に読んでみて、何となくそのことが実感できたような気がした。
 始終、ロシアがペレストロイカを進めていた時の茶番感みたいなものを批判しているのだが(のちに?ロシアを亡命して西欧に引っ越してものを書いていたらしい)、何というか、社会主義の側からすると、資本主義は自分の根から導き出した富の分配法ではなく、半ば血に基づいていない、だから導入しても浮ついたものがあるとか相変らずロシアのダメな所はああだこうだ、という基本的には論調で進むのだが、この中からにじみ出てくるのは、やはり資本主義を内部からではなく外部から見ているという、そのスクリューみたいな求心力から外れた所から見ているという客観性がどこかに、表面には滲み出てこないが強くあるような気がした。
 ロシアの強靭さは、なんでも呑み込んで自己流に書き換えてしまうところにある。

 それにしてもこの本は日本でいわゆる小説とあまりに感触が違う。構造も違うのではないか。ほとんどドキュメンタリーであり、唯一違うのは「パルトグラート」という架空の地名、架空の政体を仮構しているという点だけである。ドキュメンタリーの部分が日本のドキュメンタリーに近いかというと、ぜんぜん違う。大げさで、いつでもほらを吹いているような調子。それでいて、この信じられないような光景こそがロシアの現実であるという、念押しのような一言が加わる。こう書いて、この態度はそうはいってもロシアで花開いたトルストイ、ドストエフスキー、チェーホフといったような作家の書き方に連なるものはあるのかもしれない。ロシアは飲んだくればかりだ。何百年前から続く自嘲的な呪詛の声は、民族全体を通して強く響く。

 民族意識が強い。あまりに強いから、民族意識は是か非か? みたいな意識はそこにはないのかもしれない。西欧という、それはそれで巨大な一つの塊みたいなものの力が、たまに揺さぶりはするが、そして必要な時に模倣してみたりもするが、それもやはり民族的土台の上での出来事であり……

 井筒俊彦が、「ロシア的人間」において、まずロシアらしさは、キリスト教をロシア正教という形で、ある意味で書き換えたそのやり方から来ている、これは僕のやや言い過ぎた単純化であるかもしれないけど、確かに言っていたのは、描かれるキリストの顔つきが違うというのだ。民衆と同じ列に並んで、苦悶の表情が色濃い、劇的なキリスト。

 半年かけて読んで、良かったかどうか。良かったと言えば良かった。自分の芯に響いたかというと、そういう感じは受けないが、異文化を呑み込む時の感触は、いつでもこんなものかもしれないとも思う。明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

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