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「何かを得れば幸せになる」は本当ですか?
私たちは「何かを得れば幸せになる」という考え方でこの世界を生きていると思います。
私たちが持っている欠乏感を何かを得ることで満たすことができると考えるのです。
「何か」は人によってさまざまです。十分なお金、自由な時間、家族、友人、仕事など目に見えるものもあれば、スピリチュアリティーや悟りなどのような目に見えないものもあります。
「何かを得れば幸せになる」ことに疑いをはさむことはできないように
動揺する理由は何ですか。
私たちは色々な場面で、苦しい思いをしたり、悲しい思いをしたりします。怒りを感じたり、嫉みを感じたりもするのです。
もし、その理由を尋ねられるとするならば、ある程度は答えることができます。あの人のせいで怒りを感じている、あの出来事のせいで恐れているなどです。
そして、それが動揺の理由であることを疑うことはほとんどありません。
もし、私たちが動揺している理由が、それではないと言われるならば、自分
アディクションのこと
最近たまたま数人の方と「アディクション(中毒、依存症)」についてお話しする機会が重なりました。
それで「そう言えばアディクションって、自分を物語るキーワードの一つだったな」と思い、先日kindleから出した本にも少し書いておけばよかったなと思いました。
ギャンブルにだけは走ることはありませんでしたが、これまでにお酒、煙草、過食、人間関係、いろんな物に中毒しました。
夕方になると日本酒をコップにつ
自我を超えていくために
自我を超えるために、自我の精神力動を理解することは助けになると思います。自我に翻弄されることなく自我を見ることができるようになるからです。
自我を見る時の二つの見方があります。一つは自我と共に自我を見ること、もう一つは聖霊と共に自我を見ることです。
自我と共に自我を見るならば、それが自分の自我であれ、他者の自我であれ、価値判断と裁きを避けることはできません。自我の実在性が強化され、すべては深刻
不当に扱われたい望み
私たちの中には不当に扱われたいという願望が潜んでいます。
不当に扱われることは、私たちの中にある怒りを正当化することに貢献します。その怒りは無垢なる者としての自我による自己認識を強化することになります。
その時、自分が他者を攻撃しておきながら自分は無垢な者であるという矛盾した知覚を受け入れることができるのです。
その不当に扱われたいという願望から、私たちは目の前に敵を知覚することになります。