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「少しだけ不幸」という安心

「少しだけ不幸」という安心

 千葉から3年ぶりに帰省してきた妹が、少し前から奇跡のコースを学び始めたそうです。もともと精神的探求を続けていた妹ですが、奇跡のコースの教えが今まで見聞きして来たスピリチュアリティを根底から覆すものなので、「少しずつ受け入れようと思ってゆっくり学んでいる」と言っていました。
 タロットでリーディングすると、信念の土台がぐらぐらと揺らいでいる潜在意識の様子が表れていました。カードは、古い観念が解体さ

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聖なる無関心

聖なる無関心

誰でも何かに興味を持っています。興味の対象は人によってさまざまですが、何かに興味を持っており、その興味の対象から、何らかの影響を受けています。

まったく興味のないことから影響を受けることはありません。

人や出来事から苦しみを被るのは、そこに何らかの私たちの興味があるからです。

興味は個としての「私」の属性であるので「私」が興味を手放すことはできません。

面白いことに、興味があるところには必

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「何かを得れば幸せになる」は本当ですか?

「何かを得れば幸せになる」は本当ですか?

私たちは「何かを得れば幸せになる」という考え方でこの世界を生きていると思います。

私たちが持っている欠乏感を何かを得ることで満たすことができると考えるのです。

「何か」は人によってさまざまです。十分なお金、自由な時間、家族、友人、仕事など目に見えるものもあれば、スピリチュアリティーや悟りなどのような目に見えないものもあります。

「何かを得れば幸せになる」ことに疑いをはさむことはできないように

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動揺する理由は何ですか。

動揺する理由は何ですか。

私たちは色々な場面で、苦しい思いをしたり、悲しい思いをしたりします。怒りを感じたり、嫉みを感じたりもするのです。

もし、その理由を尋ねられるとするならば、ある程度は答えることができます。あの人のせいで怒りを感じている、あの出来事のせいで恐れているなどです。

そして、それが動揺の理由であることを疑うことはほとんどありません。

もし、私たちが動揺している理由が、それではないと言われるならば、自分

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やるせない思い

やるせない思い

自分の中にあるやるせない思いを見つめるとき、それは特定の人や出来事などと結びついていることを発見すると思います。

この人のせいで、この出来事のせいで私はこんなにもやるせない思いをしていると感じるのです。

それは人や出来事とは無関係で、自分から生じているだけであることに気づくことは困難です。

私たちの持つ投影という精神力動は、個としての「私」を守るためにどうしても必要なものです。

やるせなさ

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アディクションのこと

アディクションのこと

最近たまたま数人の方と「アディクション(中毒、依存症)」についてお話しする機会が重なりました。
それで「そう言えばアディクションって、自分を物語るキーワードの一つだったな」と思い、先日kindleから出した本にも少し書いておけばよかったなと思いました。
ギャンブルにだけは走ることはありませんでしたが、これまでにお酒、煙草、過食、人間関係、いろんな物に中毒しました。

夕方になると日本酒をコップにつ

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特別性の支払う代価

特別性の支払う代価

人によって魅力を感じることは違うかもしれませんが、誰でも魅力を感じる何かがあります。

その殆どが特別性の中にあると言えます。お金に魅力を感じるのであれば、お金と特別な関係があります。

成功に魅力を感じるのであれば、成功と特別な関係があります。家族、恋人、性的な関係等それらに魅力を感じるのであれば、それらと特別な関係にあるのです。

特別な関係は個である私たちにとって魅力的であり、なくてはならな

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自我を超えていくために

自我を超えていくために

自我を超えるために、自我の精神力動を理解することは助けになると思います。自我に翻弄されることなく自我を見ることができるようになるからです。

自我を見る時の二つの見方があります。一つは自我と共に自我を見ること、もう一つは聖霊と共に自我を見ることです。

自我と共に自我を見るならば、それが自分の自我であれ、他者の自我であれ、価値判断と裁きを避けることはできません。自我の実在性が強化され、すべては深刻

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不当に扱われたい望み

不当に扱われたい望み

私たちの中には不当に扱われたいという願望が潜んでいます。

不当に扱われることは、私たちの中にある怒りを正当化することに貢献します。その怒りは無垢なる者としての自我による自己認識を強化することになります。

その時、自分が他者を攻撃しておきながら自分は無垢な者であるという矛盾した知覚を受け入れることができるのです。

その不当に扱われたいという願望から、私たちは目の前に敵を知覚することになります。

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違った世界

違った世界

私たちが見ている世界は、恐れの世界です。この世界に来る人は、恐れの世界の実在性を信じてやって来ます。

憎しみと恐れが消え去った世界があります。その世界を見る目は、恐れの世界を見ていた目とは違っているはずです。自我の思考体系から見る目は、恐れの世界しか見ることができないからです。

心眼(ヴィジョン)と呼ばれる目は、違った世界を見ることができます。それはイエスが見ていた世界であり、罪が見えない世界

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静かな場所

静かな場所

この世界の喧騒の中にありながらも、平安で静かな場所に在ることは可能です。

それは形態レベルではなく、心のレベルの静かな場所です。形態レベルでどんな喧騒の中にあっても、心のレベルでは、静かでいることができる場所です。その場所が私の心の中にあります。

その場所は私の避難所であり、安らぎの場所です。誰にも奪われることがなく、永遠と無限の反映が感じられるところです。喜びは自然であり、恐れが入り込むこと

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牢獄の中で

牢獄の中で

牢獄の中である人がとても苦しんでいました。他の囚人達とも上手くいかず、自由は束縛され、満足な食べ物もなく、つまらなく退屈な毎日を過ごしていました。

その人は考えました。もっと楽しく有意義な毎日を過ごせないかと。そして、看守と上手くやる方法を発見しました。すると他の囚人からも一目おかれるようになりました。もっといい思いができるはずだとその方法を探し続けました。自分でもその努力がある程度報われたと感

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特別な愛からの解放

特別な愛からの解放

私の中に特別な愛に対する愛着があります。そのために、それが神聖な愛に変容することを望むことができません。すべてを包み込む神聖な愛よりも、個別的であり排他的な特別な愛のほうに心が惹かれるのです。そのために、その特別な愛を聖霊に手渡すという選択は見えてこないのです。

特別な愛は私が生きるために、どうしても必要なものに思えます。神が与えてくれなかった特別な愛をこの世界でやっと手に入れることができたので

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怒りの正当化

怒りの正当化

過去の罪、それによる現在の罪悪感、それが投影された未来の恐れ、これらが個としての私の属性です。個である私は分離の実在性を信じている私であり、分離にまつわる罪という信念を大切に握りしめている私なのです。

罪、罪悪感、恐れは強く結ばれており、それぞれが支え合っています。この世界全体がこれによって維持されています。

自分の中にある罪、罪悪感、恐れは必ず他者に投影されます。なぜなら、自分の中に見るには

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