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大人になった私が「幸せな未来」を殺した日

「私は問題児なだけ、人格障害とかなだけ」

悪い記憶だけ、痛い記憶だけ

 私が最初に「死にたい」と思ったのは、幼稚園の頃のことである。
 みんなが飛べる跳び箱、どんなに低くても私は飛べなかった。手の力が弱かったのか、太っていて体が持ち上がらなかったのか。それとも跳び箱にぶつかって崩すのが怖かったのか。いずれにせよ、一度も飛べた記憶はない。だから、跳び箱をしまっている倉庫に入って、跳び箱の上に腹ばいになって、ぼんやりと思ったのだ。
こんなこともできないなんて、死にたいなあ。死んじゃいたいなあ
 泣きもしなかったが、そう思っていた。
 私が最初に「怖い」と思ったのは、幼稚園の2年目のことである。
 図画工作の時間で、皆スモックを着ていたのを覚えている。スモックだから汚れてもよさそうなものを、私が青色の水彩絵の具を自分のスモックに擦りつけて拭いたばかりに、保母(担任)の怒りに触れ便所まで首根っこを掴まれ引きずられていった。地面をずるずると、力任せに。泣き叫んでも止めてくれなかった。
 私が最初に「惨め」と明確に発言したのは、小学校1年の頃らしい。私に友人が出来ないことを不安視した――今となっては発達の遅れに気づいたので慧眼であったのだろうが――女性担任が、私を日赤の小児精神科に送った。箱庭療法が印象深かったのだが、そこで私は医師にこう語っていたらしい。私は記憶が全くないのだが、母は覚えていた。
アイドルの子たちが羨ましい。雑誌に載ってるような、可愛い子たちはみんな可愛い。私はぶすで、死なないといけない。むかつく
 医師は彼女らがプロの子役で、メイクやライティングが為されていることを説いたらしい。が、私は記憶にない。

 そんな人格のまま、私は教師が日常的に児童を面罵し殴る蹴るする小学校を卒業し、普通に中学高校でもいじめを受けて卒業した。非行少年にこそならなかったが、この頃から気性は大分荒くなっていた。小学校から当たり前になっていた「死ね」「殺す」「殺してやる」と言う言葉が全ての感情の表現方法となり、かと思えば失恋を苦にネクタイで首を吊って自殺を試みた。この頃から自傷と自殺、他害行為の仄めかしが常態化していた。当時としては田舎において異様なパンクファッションに身を包んで、今で言う陽キャや半グレにあたるのだろうか、ヤンキーに絡まれたらゾーリンゲン社の両刃剃刀や大型カッターをちらつかせた。職質をされたら揃って補導されたろうに。
 私の中に残った高校までの記憶と言ったら、そんな程度のものしかない。私の脳はいいことを忘れさせ、悪いことだけを残すように「できている」。

診断「適応障害」「抑うつ状態」

 当時通っていた心療内科の診断は「適応障害」「抑うつ状態」だったと記憶している。ただ、勉強には幸いにも支障がなかった。理系科目は知的障害レベルに出来ない、文系はほぼ満点と言うばらつきが子供心に異様に感じられたが、文系の教師らが自分を応援してくれることを好ましく思い、気にしないことにした。相変わらず教師の中には劣悪なものもいて、叱れないことを私のパニック症状のせいにしたり(※今考えても、実態は叱っているのではなく感情的に怒鳴り散らしているだけだ)、物を投げつけて私に逃走されて大事になる教師がいた。それでも、私は保健室登校や塾通いを経て志望校に合格した。
 だが、そこでも地獄を見る。友人関係は問題なかった。親しい友人も出来たし、特に深い仲の男女もできた。ただ、所属していた研究室がブラックだった。真っ黒だった。怒鳴りつけるとかそのレベルではない。ドアを閉めても死ねだの馬鹿だのアホだの豚だのという教育者、否、人としてありえない罵詈雑言が漏れ聞こえて来る。今で言う不機嫌ハラスメント、物に当たる、DVまがいの言動があり、私はそれを逃れる代わりに奴隷のように無給で事務員としてこき使われていた。他研究室は事務員をきちんと有給で雇ったりしているのに。
 こんな日がいつまで続くのか。この耳をつんざくような、人格を破壊し踏みにじるような罵声を受ける日々が。私はぷつりとまた壊れた。私は後期の頭、絶叫して四つん這いになって狂犬のように吠え叫びながら研究室中を逃げ回った。
 私はまた、心療内科で「適応障害」の診断を受けた。休学し、卒論の再構成と言う形で修士を終えた。死ぬべき私の人生の1ページの始まりだった。

 社会人の始まりは仔細は言えないが警察にまつわるものだった。無論、体育会系の研究室での罵声でパニック症状を起こしていた私に務まるわけがない。上司もたった独りで、最初こそ優しかったものの
私誰も教えたこと無いから。教え方わからないの。自分で仕事見つけてくれない?
仕事してくださーい。就業時間は仕事をしてくださーい。仕事が見つからないなら探してくださーい
 と、私が警察学校で錯乱してから露骨に見放すようになってきた。私は血眼で仕事を探したが、仕事時間はいつの間にか「精神疾患があるため」と指定医?のお墨付きを得て時短にされ、皆が私を見て舌打ちをするようになり、仕事が見つからなければ目の前で上司が仕事をさっさと一つこなしてみて
しごとあるじゃないですかぁ。ちゃーんとさがしてくださぁい!
 と嫌味を露骨にするようになった。私は薬の副作用もあって、過食、脱力感、倦怠感、ブレインフォグ(頭の中がモヤがかかったように曖昧になる)に苛まれ仕事中も半死半生のような状態、帰ればすぐに風呂も入らず睡眠、そんな破綻した生活をしていた。そしてあっさり半年で解雇された。親は
せっかくの公務員が、何で頑張らないのよ。何でよ。何で踏ん張らないのよ。改善ノートとかつけたじゃない
 と悔しがっていた。私は死ぬという気力すら失っていた。


 

「私は私がわからない。助けて、誰か!」

ディスコミュニケーションに狂う

 私は医療事務の資格を取り、医療事務の職に就いた。一応派遣と言う形ではあったが、大病院に滑り込むことが出来、教えるのが上手いと言われている人の下
「そんなの時間のに入ることが出来た。その人はサバサバ系の強気系女子(という年ではない)だったので、最初こそその人をリーダーとしてその妹分たちと、他のお局たちといい関係を築けていた――と私は、思っていた。
 しかし、ディスコミュニケーションの引き金となる言葉があった。教育係のその人、仮にKさんとするが、Kさんの
無駄なことはやめて」
無駄なんですけど」
無駄です」
 というDIOか?という怒涛の何をしても「無駄」と切り捨てて来るその言い方であった。確かに遠回りなこともあっただろう。だが、例えば何かについて調べていても
無駄です、聞いてください
と苛立たし気に言われ、かといって別の場面ですぐに聞いたら
ちょっとは自分で調べたんですか?調べてから来てください
と言われる。徐々にKさんは私をサンドバッグにし始め、渡したメモは目の前でぐしゃぐしゃに破られ、ミスしたら目の前で上司に
「また同じミスしてるんですけど。ありえなくないですか?!」
と聞こえる場所でご注進。私は居場所がなくなってゴミ捨て場で泣く。
 そして決定的なことが起きる。
 元々決まっていた休日を消化した翌日のことである。私に渡されるはずの、患者様の重要書類のコピーが引き継がれていない。誰も預かっていない。どこにもないのだ。受付に聞いても「渡しましたよ?」の一点張り、けれど私は受け取った覚えがない。Kさんやその妹分たち、お局たち、リーダー総出で探しても見つからない。
「あなたが机の上を掃除してないからでしょ!」
 と言われても、あの頃はどう思い返しても綺麗にしていた方だ。どう考えても、私の自惚れや言い訳でなく、人為的に隠されたもしくは捨てられていた。あの妹分たちのニタニタ、というか浮ついた雰囲気では。
 
それから、パワハラは露骨に悪化した。帰る時には大声でKさんに
ウッザ!!
 と言われ、ストレス性の咳が止まらなくなり休んだ時は
ちゃんと自分の仕事してから休んで欲しいよねー
 と聞こえるように妹分との会話をされた。患者台帳にミスの付箋がべたべたと大量に貼られていても、どこがミスなのか教えを乞うても全く説明してもらえない。
自分で考えたらぁ?
何でかわからないなんて終わってるでしょ
 の連続で、私は徐々に狂い始めていた。

病人と犯罪者の狭間で

 私は徐々に、帰宅時間が遅くなっていた。何をするでもない、過食をしたり、理由もなく山に分け入ったりしていたのだ。具体的に自殺の場所や方法を考えたりもした。橋の欄干から首を吊る、このまま山に入っても街中の山だからたかが知れている、もっと山脈に連なる山じゃないといけない……当時まだ親交のあった友人と泣きながらLINEをしながら真冬の山を歩いた。自分も疾患を抱えていたはずの友人は私がかつて好きだった男子の話をして、何とか気を逸らそうとしてくれていた。
 家についても私はひたすら引きこもり、休みの日は家を出ても食べてばかりで、体重が異常に増えた。体にアレルギー症状が出た。ストレス性アレルギーが全体的に出た。しかし家族は太る事を指摘するだけで、私はもう何も娯楽すら楽しめない、休みの日も気が気でない、完全にノイローゼ状態になっていた。完全に思考が極まっていた。
 もう逃げられない、それなら次失敗したら、私があの場所で自殺したらいい。
 そう思って、大型カッターをポケットに忍ばせて職場に行った
。案の定、Kさんとその妹分に叱責された。妹分はニヤニヤしていた。その時、じっと大型カッターをキュロットのポケットの中で握り締めていたのだ。それがリーダーに見えてしまったのが運の尽きだった。
「紙を切るために持ってただけです。紙を切るために、持ってただけです!」
 そう強弁して、その場をしのいだ。しかしもう信用の貨幣とやらはゼロだったのだろう。派遣先から現場を知らないスーツの女が来て、パートになるか退職するかした方がいい、と案ずる風に訪ねて来た。私は全てぶちまけた。
「わからないんですよ!隠したりして、どこまで私がやったことなのか。誰かがこっそりやったことなのか。Kさんのことだってわからない!皆『ああいう言い方だから』って言いながら、結局こうなるまであの人を放置してたんじゃないですか!『無駄』『無駄』って何ですか、何が無駄なのか言われないと誰だってわからないです!私は、Kさんから身を守るためにあんなことになっただけなのに!!
 結局、追い出されるように私は出て行った。今でも「無駄なことを」と言われると「あ?何がぞはっきり言えや」と強めに返す癖が抜けないのはこの頃に学んだ癖である。

「私は障害者なんだ、調べよう、認めよう」

「私はおかしいんだ」という激痛を伴う自覚

 次の職場も医療事務だった。個人病院だったが、救急を担う程度には大きい。そこで寿退社があるから、その引継ぎをするというために私は受かった。
 しかし、そこは救急の多忙さもさることながら、患者の客層(というのだろうか)もお世辞にもいいとは言えなかった。怒鳴られたり、
「お前日本人か?馬鹿かお前は!」
 と絡まれたりしたこともあった。あからさまに反社の人間が来たこともあったし、医者の方が
「うるさい!カルテなんて後でいいだろ!」
 と怒鳴ってくることもあった。
 私はそんな中で、前職でのトラウマを――Kさんや医療事務のメンバーのトラウマを引きずり、少しのミスでも委縮し半泣きになるほど謝罪する、酷い時は過呼吸になる癖がついてしまった。それを無論快く思われるわけもなく
あいつにはそうそう教えられないですよ。すぐうわーってなるから
 と、事務長と男のスタッフが喫煙所で話しているのを聞いた。私は不安なことを人事の女性によく相談していたが、元々どうやら私に引き継いでくれる先輩――寿退社するI先輩は、元々人格難の人で何人かパワハラで辞めさせたことがある人らしい。それでも雇用を続けるのは、ひとえに仕事の出来がいいから、であるが……それに比べて私は、パニックになり、ものごとの順番を忘れ、ハンコの押し場所を間違い、しなくていい作業をし、作業の意味を忘れ、I先輩の逆鱗に触れ、無視や不機嫌ハラスメントが常態化し、それが他のI先輩の同期やリーダー・副リーダーにも伝播し……。
 仕事中でもぶれる視界の中で、私は徐々に確信し始めていた。あまりに遅い確信だった。

こんなハンコの押しミスや業務の遅れが出るのはおかしすぎる。今までは人格障害だと思っていたけど、私は、そもそも脳や知能に問題がある発達障害なんじゃないか!?普通には働けないんじゃないか!?

 親に相談しても、親は確定診断を嫌がる。それは火を見るより明らかだ。自分の子供に障害があるなんて誰が認めたがるだろう。それはついこの間小児科医と精神科医が暴露して炎上しただろう。

 だから私は、両親にはっきりと言い放ったのだ。

私が遅れて帰ろうと、もう金輪際介入しないで。私がもう誰かを傷つけたり、ジョブホッパーにならないために、生きやすいために、少しでもマシになるためのことだから!!

 そう言って、仕事が終わるや否や最寄りのバス停から市内中心部まで自腹を切って通院し、数少ない発達障害を検査・診断してくれる病院に通い自腹で検査を受け続けた。両親はもう何も言わなかった。
 私はもう楽になりたかった。というより「自分の正体が知りたかった」。古来から、魑魅魍魎のような妖怪を倒す時に相手の名を明かすことで倒す描写が陰陽師モノなどでよくある。相手の名を知ることで倒す。対策を知る。相手がわからなければ、対処のしようがない。それは、昔も今も変わらない。

「健常者の私」の最期


 同時進行で病院での業務は熾烈を極めた。レジ業務を教わったはいいものの違算は多く私はパニックになって自分の手にホッチキスを打ち込んだ。患者の前でももう涙は止まらず、這う這うの体であった。そしてもう記憶がなく、確か額の大きな違算があった日だったか、事務職だけでなく看護師までもが何故か集まって私を責め始めたのを記憶している。けれど私は何故そんな違算が発生したのかわからない。そこで私は壊れた。

「そんなこと、そんなこと、はああああ、ははははははははははははははあああああああああああああうわああああああああああああああああ」

 そんなような声、だったような気がする。吠え声とも泣き声とも笑い声ともつかない声を上げて、私は膝をついて叫んだ。ペンをへし折って四つん這いになって逃げまわった。その後の記憶は、ろくすっぽ今まで出てこなかった人事の連中が出てきて、その日は帰らされて、翌日私の荷物はなく言いづらそうな言い回しで退職勧奨された

 よく覚えている。クリスマスイブの日だった。泣きながら、そのまま市内中心部にタクシーで走った。当時投薬治療を受けていた心療内科に電話相談をしたら
そんなもの、君がさっさとやめなさい。迷惑なんだよ、存在が。大人なんだから
 と、正論なのだが精神科医が言っていいものか、ということを言われた。いよいよ私は行き詰まり、検査を受けている病院に電話をした。検査しか受けていないから、診てもらえないと思っていた。
 しかしそこは受け入れてくれた。待たされたが、飛び込みだから仕方がない。カウンセリングと投薬、そして落ち着いたら検査の続きを行った。検査の続きを行いながら、私は思った。

もう終わりにしよう。きっと、もう無理なんだ。「フツウノヒト」の人生は、私には歩めない。真っすぐには、歩けない。きっとそんな結果が出る)
 私は結局退職し、年末まで検査を続けた。そして年を越し、仕事始めに人々が動きだす1月4日、私は検査結果を受け取った。

診断名1:自閉スペクトラム症(ASD) 診断名2:注意欠陥多動性障害(ADHD) 及び、二次障害として双極性障害Ⅱ型を認める

 ああ、「幸せな私」を私は殺したな、と思った。
 ミスが多くて、仕事が安定しなくて、バイトとかパート、それか何とか仕事で食いつないで、適齢期になったら街コンとかで結婚して、子供を持って、家庭を持って、どうなんだろう、幸せになれるのかもしれない。そんな「皆が持っている一般女性の幸せな未来像」。それが、ばきばきと真ん中からひび割れて、粉々に四散した。1月の空を舞う雪のように。そんなもの、最初からなかったのかもしれないけれど
 けれど、どうせあったって耐えきれなかっただろう。薄氷を踏む、という言葉そのままに、いつ壊れてもおかしくない、いつ誰かを害しても、自分自身を害してもおかしくない人生をこのまま続けていても仕方がなかっただろう。それなら、障害者として、自分の形に出来るだけ近い形の生き方を模索した方がいい。

「障害者の私」の誕生


 「幸せな私」を殺して、「私が望んだ新しい私」が生まれ直すのだ。たとえ犯罪者予備軍というレッテル、発達障害、精神障害、未だ差別も根強い、入院先では人権も保証されない、未だ自分自身のかじ取りもできない障害者でも、私はあのまま「薄氷の上を歩き続ける幸せな私」を続けているよりは、遥かに、ずっと、「生きている」。少なくとも、リアルで、SNSで、色々な人の理解を得て、色々な人と繋がって、色々なことを知って。知らなかった世界を知って。

 ついこの間、家の近所で刃傷沙汰があった。奥さんが旦那さんを切りつけたらしい。ずっと仲睦まじかったようだったが、奥さんが最近精神的に問題を抱えていたようだ。
「薄氷を踏み続けていたら、ああなっていたのは私だったかもしれない」

「まだ結婚しないの」
「子供っていいよ」
「子供部屋おばさん」
「痛バオタクおばさんきついっす」
「メンヘラは動物と一緒、害があるなら駆除した方がいい」
「命を盾にして」
「脳に障害があって死んだ方が世のためになる人」
「弱者はすみっこで小さくなってればいい」
「生きづらさを抱えた人?排除すればいいじゃん」
「別に誰がどこで死んでも僕には関係ないですけど?」
「親戚の○○くん、独立して奥さんと犬飼ってるんだって」
「あなたは自分軸がないよね」

 障害者になった今でも、ネットやリアルにあふれる様々な言葉がフラッシュバックして眠れぬ夜がある。首に縄をかける夜もあれば、遺書をしたためる夜もある。仕事も発達障害、精神障害であるとパートタイムだらけだし、同病同士でも問題が絶えない。面白がってヘイトを垂れ流しにする集団も居れば、悪気なく鋭い言葉で抉って来る人もいる。
 しかし、私の生きる世界は私なりに「広がった」気がするのだ。私は障害者で、ならばその姿で戦うしかない。犬として生まれたからには犬として、狼として生まれたら狼として。狸として生まれたら狸として。「生まれてしまった肉体で、脳で、カードで生きるしかない」。どれほど踏みにじられ嘲笑われようとも、何人と袂を分かつことがあろうとも、私はあの日の選択を後悔しないし、クローズ就労なんて考えない。きっと、ぼろがすぐに出る。ASDは嘘がつけない。
 
 NHKの発達障害特集のテーマソングの一節に以下のような歌詞がある。
 

四角い場所で四角になれず丸い場所で丸になれなくていい

高橋優「アスファルトのワニ」

 四角い場所で三角だった私は、四角い人々を妬み憎んだ。丸い場所で三角だった私はどうしてこんなこともできないんだろうと泣き、他の丸い人々を切りつけた。けれど、そんな必要などもうないのだ
 私はオープンでもクローズでもいい。A型でもいい。自分が地面を踏みしめて、自分として生きていける世界を歩く。あの涙の冬の選択は間違っていなかった、だからここに、堂々と生きているのだと信じている

 







#あの選択をしたから

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