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二十二世紀へ向けて


生き方には二種類ある



 僕は、生き方には二種類あると思う。

 

地図とコンパスを持ち、足元、数歩先を見て丁寧に足元を踏み固めるようにして生きていく道と、北極星のように同じ位置で変わらずに輝き続けているものを見つめながら生きていく道の2つだ。

要するに、

堅実かつ安全な道を歩む生き方

と、

自分の理想を追いかける生き方

の2つだ。


 どちらが正解かは分からない。

 前者は安全な生き方かもしれない。転んで大けがをしたり集団からはぐれたりしてしまうことはないだろう。

 しかし、足元や周りの集団ばかりに目を向けていては、自分の人生で一番大切にしたかったものに気が付くのが遅くなるかもしれない。

 逆に後者は、自分の人生で一番大切にしたいものは逃さないかもしれないけれど、気が付いたら集団からはぐれているかもしれないし、足元をよく見ていないから転んで大けがするかもしれない。

 さて、どっちの生き方が良いだろうか。

 僕は、せっかく生まれてきたのだから一分一秒を無駄にすることなく、楽しく生きていきたい。

 自分に与えられている貴重な命を凄く大切にしたいと思っているし、自分はやればできる人間だとも思っている。

 だからこそ、自分がこれから向かうべき人生の方向性はかなり大切なのではないかと思っている。


目が回る現代社会


 現代は社会の変化が速くなっていると言われている。数十年単位で変化していた社会の構造が、数年単位で変わるようになってきた。

 新しい技術の誕生によって簡単に世界の様子や人の生き方が変わるようになってきたのだ。

 ただ、一つだけ変わらないことがある。

 自分がいずれ死ぬということだ。
 最後の瞬間が訪れることだけは確定している。

 社会の構造や自分を取り巻く環境は時期や時間によって目まぐるしく変化していくが、変化していく環境に惑わされずに、楽しく生きていくために僕達には定点が必要だと思う。

 地球の自転速度がもの凄く速くなると、夜空の景色が落ち着いたものではなくなってしまうだろう。きっと、夜空を見上げているだけで目が回って気分が悪くなってしまうはずだ。

 この現象が、きっと社会で起こっている。

 社会の仕組みや人々のライフスタイル、社会で求められる能力がものすごい速度で変わっていくから、みんな何が何だか良く分からなくなっている。

 この時代によって変わる目先の物事ばかりに注目していると、目が回ってしまう。

 変化の激しい時代かつ、長寿の時代だからこそ、普遍的なもの、自分の人生における軸、つまり、自分の進む道における変わらずに同じ位置で輝いている北極星の存在が必要なのだ。

 実際、自分の人生でやるべきことはそんなに多くはない。

 健康的な食事をとって、十分な睡眠を毎日とって、自分がかかわる人たち全員に気持ちの良い挨拶を毎日していればそれで十分じゃないかと思う。何か盲目的に高望みしていると、目が回ってしまうだけだ。

 そこがベースではあるのだけれど、せっかく残り80年もの時間が与えられているから、じっくり何か取り組んでみたい。

 死ぬ前に自分の人生に後悔を残す人が大半なのに、依然として人は言い訳して自分と向き合おうとしない。

 自分の内側ではなく、自分の外側、つまり、周りの環境にばかり目が行ってしまっている。

 実際に自分と向き合わずに生きていこうと思えば、生きていける。逃げようと思えばいくらでも逃げることができてしまうのだ。

「とりあえず」何かしらしていることで、生きてはいける。でも、いずれ死ぬという事実からは絶対に逃げられない。

 そして、月並みな表現にはなってしまうけれど、人生は一回しかない。


自分の人生と向き合わないことは、癌を放置することと同じ


 自分と向き合うことから逃げることは癌を放置することと同じだ。時間が経てばたつほど深刻な自分を蝕むものとして自分に帰ってくる。

 これを読んでくれているあなたが、若ければ若いほど「どう生きていきたいか」というこのテーマについて考える価値がある。

 辿り着かないような遠くの未来に感じるかもしれないけれど、近い将来必ず来る。


最期の瞬間に『花束』を貰える人に


 僕は、「人生最後の瞬間に人から花束を貰える人でありたい」と思っている。

 人は亡くなると、火葬されて骨だけになってしまう前に、お葬式の最後に花束を添えられる。

 残された親族や知人達は故人に触れることができる最後の瞬間に、いろいろな感謝の言葉を投げかける。

 僕はこの文章を書く少し前に、親族のお葬式へ行った。その人は、母親が小さい頃によく可愛がってもらっていた人みたいだった。

 小さい頃に一度だけ僕も会ったことがあると言われたのだけれど、あまり覚えてはいなかった。

 でも、棺に入ったその人を見ると、どこか親近感が湧いてきたので、忘れているだけで一度会ったことがあるのは本当だろう。

 そしてその人も、親族に囲まれて温かい言葉と共にお花や、その人が好きだったお菓子などを棺に入れてもらって全員が悲しそうにしている光景を見て、あまり死というものや人生の終わりというものに対するイメージが湧かなかったのだけれど、「この瞬間が、一つ明確な私達の最後なのだ。ここが人生のゴールなのだ」と悟ったのだ。

 では、人生の締めくくりに、私達はどんな言葉を受け取りたいだろうか。僕達の遺影の写真が笑っているとすれば、それはなぜだろうか。

 ここを深く考えたときに、一番大切なものが見えてくる。これが「22世紀へ向けて」を書こうと思ったきっかけとなる出来事だ。





二十二世紀へ向けて


北極星を見つける旅へ


 22世紀に入る年、つまり西暦2100年に、僕は97歳になる。

 2022年の現在から、78年後の未来だ。

  現代は「人生100年時代」と言われているから、何か大きな事故が起きたり、事件に巻き込まれたりしなければ、間違いなくこのまま僕は22世紀まで生きることになるだろう。

 97歳にもなれば、残りの人生あと長くて10年といったところだろうか。

 人生の終盤にさしかかった自分はいったい何を成し遂げていて、自分の人生を振り返ってどういう風に感じているのだろうか。

 というより、今現在の僕は人生最後の瞬間に自分の人生を振り返ってどう感じていたいだろうか。

 僕は大学に入るまでは、常に目の前に与えられている選択肢から何を選ぶかで人生の方向性を決めてきた。

 どこの高校に進学するか、どこの大学へ進学するか、どのスポーツをするか、誰と遊ぶか、どういう職業に就きたいか、全て既にそこに存在している選択肢から選ぶ形で意思決定をしてきた。

 でも、もうそういう既存の限られた選択肢から選ぶ狭い世界で生きていくのではなくて、一回きりの貴重な限られた人生を自分の力で道を切り開いていく生き方がしたい。

 その場その場をバタバタと処理していく生活ではなくて、どしっと構えた生活がしたい。

 何かその時その時の状況によって変わってしまうものではなくて、普遍的なものを人生の軸として持ちたいのだ。

 与えられた選択肢を取っ払って、固定観念に縛られていないフラットな考え方をしてみたい。

 ただ、受動的に答えを待っているだけでは、自分の人生は何も変わらない。

 社会は別に僕に都合のいいように形を変えてくれたりしないから、僕が能動的に変化して適応していかなければならない。

 自分が与えられたこの貴重な人生の時間を何に使うのか、どういうことを成し遂げていきたいのか、じっくり考えていきたい。

 スポーツをしたり、趣味を持ったり、お金を稼ぐことに奔走したり、友人との付き合いを持ったり、いろいろと素晴らしく楽しいことはたくさんある。

 でも、それだけで楽しく生き続けられるにはいささか人生は長いのだ。

 一体この残りの時間で何が起きるのだろうか。本当に分からなくなる。

 僕は自分の人生について考えるときの時間の流れる方向が人と真逆だと思う。

 自分の人生について深く考える機会や、大人の責任みたいなものを間近で見る機会が多かった影響が強いからだとは思うけれど、僕は人生を凄く長いスパンで考えてしまう。

 普通は今いる場所から数歩先にどういう選択肢があって、どれを選べば安全か、どれを選べば幸せかで人生における意思決定をすると思うのだけれど、僕は逆なのだ。

 僕は死ぬまでに何をしたいかで考える。

 分かりやすく言えば、普通は地図とコンパスを手に、足元をよく見て一歩一歩踏みしめて歩いていくような生き方をすると思うんだけれど、僕は遠い空で光っている北極星を見上げながらぼんやりと歩くような生き方をしてしまうのだ。

 僕は現在19歳だけれど、普通19歳と言えば「就職先をどこにするのか」「大学で何をしようか」などと、世間一般で言うところの「現実的な」ことを考える時期だと思うのだけど、もうそういう目先のことをせかせかと追いかける生活に飽き飽きしてしまったのだ。

 つい19年前までは、僕は存在すらしていなかった。

 たった一つの細胞でしかなかったのに、言葉を話し文明の中で生きていけるようになり、いろいろな経験を経てこの本を今書いている。

 たった19年。この短い期間でここまで成長することができた。

 人は原始時代の野生動物から現代文明で生きている人類までの進化をわずか十年前後に満たない短い期間で成し遂げる。

 言葉を話して知性を獲得する人間でしかこのスピードでの成長はありえないと思う。

 だから、残り80年でたくさんのことを成し遂げることができると思う。

 いろいろな経験や知恵を積み重ねることが可能な分だけ、成長の速度は速くなっていく。

 残り僕に与えられた貴重な80年近くの人生、何をしてくれようか。

 当たり前の話だけれど、お金はあの世に持っていけないし、死んでしまったら充電の切れたスマートフォンみたいに自分はすべてを失う。

 どれだけ周りの人と深くかかわっていたとしても、死んでしまえばいつかは周りの人達も自分のことは忘れて前を向いて生きていくのだ。

 ただ、例え自分がいなくなってしまったとしても、そこに思い出があれば、人の心の中に生き続けることができる。

 たとえ充電の切れた使えない旧式のスマートフォンだったとしても、「死んだじいちゃんの形見」みたいな爪痕が残るのだ。

 無理やり人の記憶に残りたいなんてそんな傲慢でかまってちゃんなことは考えていないけれど、少しでも自分と関わってきた人達にはいい思い出として僕との記憶を胸の内にしまっておいてほしい。 

 遠い空で変わらず輝き続けている北極星を眺めながら歩いていくように、何かを成し遂げるために自分の人生の時間は使っていきたい。

 中身の伴っていない人生経験の浅い若造が言うのも凄く気が引けるけれども、僕は千年後の人類が、「歴史上の人物で一人生き返らせるなら絶対この人だろう」と思ってもらえるようなことをしたい。

 人は理屈では動かない。感動して動く。

 僕は、少しでも多くの人の心をいい方向に動かせることをしていきたいと思っている。

 22世紀に入って、自分が死ぬ前に、この文章を読んだときに「ちゃんと自分の納得のいく人生を歩めたぞ」と今の僕に言ってもらえるように、この文章を残しておこうと思う。

 あなたは、この貴重な残りの人生を、
 どういう風に生きていきたいですか?









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