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はじまりのカンザキイオリ論 —―紙に叩きつけた染みが、花の形になったとき


はじめに ーー君に届かない言葉

「私小説」は嘘をつく、「私小説」こそ虚構の最たるものなのだという事実にどこまでも意識的であり、そのからくりに苛烈な批判意識を抱きながら、それでも「私小説」を書こうとする者、どうにかして「私小説」の倒錯を逆転させようと試みる者だけが、真の意味で「私小説作家」たり得る。「私小説」がフィクションであるということを、自らの「私小説」によって晒け出そうとする者、その困難な挑戦に成功した者だけが、「私小説」を「作者とする虚構」から、単なる絵空事から救い出すのだ。            

佐々木敦『新しい小説のために』p.504

私小説であったり、私の内面にひきこもるような作品は、どうしても昔から批判の対象とされやすかった。それは、特に田山花袋の『蒲団』に顕著なように、自分自身をネタにして物を書く場合、そのネタになるものを探すために、注目を集めるためにセンセーショナルなものまで書き始めたり、無理やり自分で体験しようとするからだというのを、昔授業で聴いた覚えがある。

カンザキイオリさんの歌詞は、衝動的に描かれているという。故にこの後に見ていくように、決してわかりやすい単線上の物語が紡がれているわけではない。ただ、一方で聴けば聞くほど、一人の人が抱えている苦しみがそのまま伝わってくるような言葉たちが、焦燥感を感じるギターサウンドにのせてやってくる。

この文章を書き始めたのは、ずっと前からにじさんじについて、アートとして見た時のnoteを書いていたのだが、その時に「あなたは早く神椿スタジオについて知るべきだし、何か書いて欲しい」と言われたことがあったからだ。私は、残念ながら他の事情があったりして、武道館ライブも見れていない。(ブルーレイが欲しい)。観測者とはとても言えない、せいぜい無責任にやってきた観光客程度の知識しかない人間である。
ただ、いくらかカンザキさんの曲を聞いてみて――よこしまながらも大事な伝えておくべきだろうことに気づいてしまった。
ひとりの人の作品について何かを書くというのは、その意味をも決定づけてしまいかねない怖いことだ。この文章が、誰かの何かに光を照らすことを、ただただ祈る。


ボカロP時代 と『命に嫌われている。』


カンザキイオリさんのディスコグラフィーは、ボカロP時代の楽曲とその後自分で歌唱するようになり、人への曲提供や小説執筆などがあり、入り組んでいるため、正直包括的に全てを見渡せる自信はない。まずは、一番の代表曲を見てみよう。

『命に嫌われている。』は、2017年8月16日に投稿され、初めてニコニコ動画で殿堂入り(100万再生)を達成。特に歌い手のまふまふさんによりカバーされた動画は、2022年11月現在1億再生を突破しており、2021年には紅白歌合戦で歌われることになった。

『命に嫌われている。』の歌詞を見ているとわかるのは、この曲の歌詞はAメロ・Bメロで人称が省かれていることである。冒頭、誰ともわからない励ましの言葉(「死にたいなんて言うな」「諦めないで生きろ」)は、5W1Hがなく、具体的な言葉として聞こえない。それが空虚にしか聞こえないエゴであるということが、突然歌い手によって暴かれる。
そして、一つの事実・出来事として、ナイフを持った少年が画面の向こう側に歌われた歌に感化されて人を殺しにいこうとする様子が歌われる。これらAメロ・Bメロは対象が徹底的に匿名的で、どのように起こったかが書かれていないことで、具体性を欠きながらも悲しいことが起こる自分たちの社会の雰囲気を描くことに成功している。
そうした雰囲気を突きつけたあとに、突然「僕らは命に嫌われている」と、聞き手の第四の壁を蹴り飛ばしてくる。ここでの「僕ら」の使い方が、まさに私小説的な歌詞を書く時の必殺技である。Aメロ・Bメロで描かれていた描写が、歌い手の妄想ではなく僕ら(聞き手)も巻き込まれていることが一気に曲のピークと共に明かされる。(※ちなみに、この曲の構造を見ていたときに、ずっと思い描いていた曲がある。それはamazarashiの『古いSF映画』という曲である。この曲もまた、現実の嘘くささを一気にこちらに突きつけてくる内省的な歌詞であり、サビで『僕ら』という言葉が突然出てくる。これは、個人的な思い入れを他の人もそうであるかのように語る、よしだたくろうから続く日本のフォークシンガーたちの技である)。

さらに二番で注目したいのは「矛盾」である。二番の中盤には、矛盾を抱えて生きていくことが怒られると書いている。よく考えると「生きる意味なんて見出していない」のに「不死身の身体を手に入れる」妄想をするのは不思議なことだ。「自分は死んでいい」のに「他人に死んでほしくない」のも、謎だ。この矛盾を指して、これを怒られてしまうと言っている。

実は、この曲の最後にも、大きな矛盾が待ち構えている。歌詞の冒頭で、「諦めないで生きろ」という言葉が馬鹿らしいと言った歌い手は、それなのになんと突然、君に対して「生きろ」という言葉をぶつけだす。これは究極の矛盾である。
一見矛盾していて、実際矛盾もしている。だからこの言葉は一方では「馬鹿げた」言葉だともとれる。
しかし、この歌詞の時系列を考えた時に重要なポイントがある。この生きろという言葉はどうせみんな死ぬということの裏返しであること、そして冒頭と違いこの曲を聞いているあなたに向けられているということだ。

カンザキさんがこれらの言葉と形式の不思議な関係性を意識して書いていたとは、インタビューを読む限り考えにくい。ただ、この人がCメロで「そうだ」ということが言えたのは、ここまで言っていたことが「嘘だった」と自分自身で気づくことが出来た発見にあるのだろう。そして、この曲を歌ったり聞くことは、歌手の「意識の流れ」を追体験することになる。

インタビューを読む限り、本人も認めているように『命に嫌われている。』をはじめ彼の曲には、かなり強く反復する言葉やテーマがある。ボカロP時代であれば『プロテクト』『反抗期』あたりがそうであるように、同じ言葉を何度も何度も繰り返し繰り返し続ける。

お金への嫌悪
取返しのつかないものとしての殺人と死                ぼろぼろの五畳半                                    人をやめる                                       自己承認欲求                                        大人になることへの恐怖・哀しみ

キーワードだけ抜き出すと、必ずしも歌っている内容が多いわけではない。しかし、繰り返しあふれ出てくる言葉たちからは――痛々しく、正直聞いていて辛くなる時も多いのだが――それぞれ違う表情が浮かび上がってくる。



ここで、ミクロな分析を敢えてとめて、ちょっと私の抱えている問題系を書いてみたい。これはにじさんじを見ていた時に感じてきた問題だが、『共創』を同じく掲げているKAMITSUBAKIにも関わる問題である。

私がVtuberを見ていることから感じていたことがある。それは、推しを押す行為をやっている時に、いつの間にかそれが自己犠牲の行為(推しが生きていれば、自分は死んでもいいとか、自分はクソ野郎扱いされていいとか言っていた)にすり替わっていることだった。
創作活動は、完璧主義な人であればあるほど、他者との比較によってつぶれてしまうことが少なくない。ましてもや、Vtuberの世界であれば、そこにいるのは音響・イラスト・文章・プロモーションのプロたちであり、日本のトッププロの人たちである。
これを言うのは申し訳ないのだが――にじさんじであっても、KAMITSUBAKIであっても、そうした推し活や創作の苦しみで、Twitterから突然いなくなったりする人を実際に見てきて、複雑な気持ちになることは多い。

例えばにじさんじの緑仙がTwitterで先日流していたように、アーティストの人たちに話を聞いてみても、重い思いを持っている人は少なくない。創作とは少なからず、現状への不満(こうだったらいいのに)から始まることが多いからだ。

しかし、1人が何千人のファンを抱える(つまり、一人ひとりを丁寧に見ることはできない)状態を続けることは、そしてその状態で創作意欲を掻き立てられる(共創)ことは、果たして必ずしもいいことなのだろうか。

見ず知らずの「あなた」に言葉を届けても、それは宛先のない手紙をひたすらにポストに投函する試みに他ならない。そんな絶望的な試みを、人は続けることができるのか?

推しとの離れ方については、約二年前にこの文章を書いた。やはり個人的には、Vtuberを追う人、制作する人、健康的な形で続けられるのが望ましい

バーチャルシンガー・花譜デビュー(2018-)

日本の何処かに棲む、何処にでもいる、何処にもいない18才。

KAMITSUBAKI STUDIO ARTIST "KAFU"


花譜さんは2018年10月にデビュー。にじさんじのファンである私のところにも、よくその活躍されている様子が入ってきた。

彼女の道のりがカンザキさんの活動にとって大きな転機だったのは間違いない。ここでは、「カンザキさんの曲として」見た時の花譜さんの歌を特徴の考えてみよう。インタビューを読む限り、花譜のプロジェクトの作曲作詞にはPIED PIPERさん(プロデューサー)が関わっている。

ポイントは花譜さんのために書かれた歌詞は、明確にカンザキイオリの個人のために書かれた曲とキーワードが違うことだ。インタビューによれば、タイアップやプロデューサーの意見、そして花譜さんへのヒアリングもあるが、その曲その曲にあった思いを好きに込めているとカンザキさんは言う。

カンザキイオリ個人作品に現れていた、死とか殺人のような強烈すぎるキーワードは影をひそめる。代わりに出てくるのは――1語にまとめるのは難しいのだが――思春期の怯えや不安である。

最初期の『糸』『心臓と絡繰』『魔女』といった曲の歌詞は、KAMITSUBAKI STUDIOの始まりにふさわしく、疑問と答えを求める叫びが綴られている。

しかし、答えを求める叫びは、ただの叫びにとどまらなかった。1stアルバム『観測』に収録されている曲たちや、『雛鳥』『quiz』『Re:HEROINES』という曲たちは、これまでのカンザキイオリの曲と違い、少しずつ前を向くような覚悟が出来ているように聞こえる。ポイントは、その時に「一人じゃない」と繰り返し言っていることだ。
ソロの曲の場合、確かに『あの夏が飽和する。』『君の神様になりたい』のように、「きみ」の事を想っているような歌詞はある。だが、それらは殺人のような強烈なモチーフとともに、投げやりで精神が擦り切れたギリギリの言葉として投げ出されている。一方で、花譜さんの方は、怯えが感じられることはあるものの、投げやりになることは少ない。むしろ、孤独に悩んでいる子の手をそっと引いてあげるような優しさと余裕を感じる。

『不可解』『アンサー』『まほう』の三曲は、特に花譜のキーコンセプトと合わせて、自らの出した問い(Question)に応えた重要な曲である。 

『不可解』は社会から押し付けられた正しさへの決別を                                       『アンサー』は「正解のない」世界へ旅立つ勇気を           そして『まほう』は、確かなことのない世界のはずなのに、体が動くワクワクと不思議を歌っている。
不確かであることを確かな答えにすること。
正解がないことを正解にすること。その矛盾を受け入れていくこと。

この曲たちを花譜の物語りとして聞くのか、カンザキイオリの曲として聞くのか、聞き方によって一気に印象は変わっていくだろう。ただ、花譜の歌詞とカンザキイオリの歌詞で共通しているのは「あなた」という二人称への強い思い入れ、そして子供から大人になることの意味への問いかけである。

花譜の1st AL『観測』と2nd AL『魔法』。インターネットで活動する歌手の特徴でもあるが、デジタルリリースしたシングルが多く、アルバムに入っていない名曲も多い。花譜さんの詳細なディスコグラフィーについては、また記事をかくかもしれない。

※ちなみに、『私論理』『危ノーマル』『未確認少女進行形』のように跳ねるリズムにストリングスを重ねる曲調は、もしかすると彼がたびたび言及する星野源の『SUN』や『Weekend』、『Hello Song』あたりからやってきたのかもしれない。(実際、ボカロ曲の『桜の子』は星野源のリファレンスだと言う)

1st Album「白紙」(2019)

1:告白
2:あの夏が飽和する
3:白
4:命に嫌われている
5:君の神様になりたい
6:番外
7:自由に捕らわれる
8:そして時代は続く
9:贅沢な休日
10:結局死ぬってなんなんだ
11:冬が僕を嫌っているので
12:音楽なんてわからない                                  13:進化劇                                          14:音楽なんてわからない(Guiano Remix)


花譜の物語を一瞥してみたところで、もう一度カンザキイオリさんの曲の方を見てみよう。

『白紙』は、2019年に発表されたカンザキイオリの1stアルバムである。「進化劇」を除くと、全ての曲がボカロ曲になっており、この後セルフボーカルの曲を発表していくことを考えると、初期のボカロ時代の総決算のようなアルバムになっている。

1:告白

「告白」をするということは、告白をするだけの隠したい内面があったということである。『告白』の1番で、歌い手ははっきりと言及されていないが告白して振られてしまったようである。そして友達の頃にはもう戻れないことを言って、「あの頃」のノスタルジーに歌い手は入っていく。

2:あの夏が飽和する

のちに同名の小説・そして漫画となってヒット作となった一曲。ここでは曲の方を聞いてみる。
友達の子が人を殺した告白の、一行目からいきなり絶望が始まる。二人は逃避行を始める。主人公は、友達と逃避行をはじめて、狭い世界を抜け出していく。「誰にも愛されていなかった」二人は、お金を盗むなどの非行をしながら逃げていくが、最後には友達側が自ら命を絶ってしまう。
この曲自体が、鏡音レン・リン(のちにカンザキイオリと花譜)のふたりの言葉で進んでいき、対話が途切れる(女の子のボーカルが途中からなくなる)ことで聞き手側にも、「人がいなくなった」ことを伝える形になっている。

アルバムとして考える場合、「1曲目と2曲目で昔の良かった時期を繰り返し思い出している」ことに注目したい。『あの夏が飽和する。』で主人公は世界も社会も何もかもを蹴り飛ばして、投げ飛ばそうとする。

3:空白

『あの夏が飽和する。』が絶望的な離別の歌なら、『空白』という曲はいなくなった「君」に対して投げかける曲である。YouTubeのコメント欄を見ても、『あの夏が飽和する。』の続きだと感じる人が少なからずいた。
この曲では1曲目からさらに思い出の「過去」に主人公は閉じこもろうとしてしまう。そして、いなくなった君はついに「神様」扱いすらし始めるが、また好きになったり、嫌いになったり、次々に意識が揺れ動いていく。

4:命に嫌われている

最初の分析に同じ。ただし、是非次の曲と連続で聴いてみて欲しい。

5:君の神様になりたい

この曲も、3と4の曲を受けたものと考えてみると、妙な線が引けることがわかるだろう。「命に嫌われている」は「命の歌」である。この主人公のポイントは、2の『あの夏が飽和する。』と違い、対話しているのが「自分」だということである。するどく「君の神様になりたい」という願望と「君の神様にはなれない」という理性が葛藤する様子を、強烈な繰り返しと共に描き出している。そのため、一度言った言葉を撤回することを繰り返している。

6:番外

自意識に抗い続けた5を受けて、6『番外』を聞くと、今度は『君の神様になりたい』という曲自体も俯瞰して見て、まるでシラケてしまったような印象を受ける。それは「よくある話」であり「悲しい話だった」。しかし曲の途中で突然、この物語りが「君を救えない悲しいストーリー」だったことに、突然主人公は激怒し始める。

ここまで読まれた方はお気づきだろうが、私はかなり、このアルバムが思考のレベルでは時系列順に並んでいることを感じている。もちろん、一曲一曲の細かいストーリーは違う(例えば、『番外』では君の左手には指輪がはめてある=結婚して大人になっていることが示唆されている)。しかし、「神様」「命」「自意識」と曲の中に書いてあるキーワード自体がかなりの精度で共通している。

7:自由に捕らわれる

聞いていて、一瞬希望に満ちたかと思えば、いつの間にか迷路のような蟻地獄に巻き込まれる一曲である。「自由にやりなさい」「期待通りに何でもやる」という言葉は、呪いの言葉である。なぜなら、その言葉が発せられて、何かをした事実そのものが、自由ではないことの証拠になってしまうからだ。そして、そのことにこの曲の主人公もかなり自覚的である。これは、そんなダブルバインドにまつわる曲である。
そしてこの曲も、『命に嫌われている。』と同様、「僕ら」という言葉が、サビで初めて出てきた瞬間に、この状況がこの曲に同意する仲間たちに一気に共有される。

個人的に1個だけツッコミが許されるなら、気になることがある。突然出てきた「巨大な何かに揉まれていく」何かの正体や、「踊らせて騙す」ものの正体はなんだろうか?その答えは実はまた次の曲で描かれることになる。

8:そして時代は続く

シングルやPVにはなっていないが、本人曰く「ベリベリ最高の曲」である。そして、一番本人の見ている世界の認識がなまなましい現実が描かれている曲であり、個人的には、本人の歴史の中でも重要な曲だと聞いてて感じる

前半で描かれているのは、人のぬくもりが欲しかった子どもたちが、Twitterやあらゆるところで、せめて一日でも暖かい世界を見たかったと述べられている。そして、まるで彼らの怒りが憑依したかのように、後半ではこの時代に向けて、行き場のない怒りをぶつけている。これほど、根源的な怒りはないだろう。

9:贅沢な休日

『そして時代は続く』の次に、おそらくは社会人の曲が差し込まれる。社会人の人は、休日にどこか虚しさを感じながら、人とうまくしゃべれないことに悩みながらだらだらと過ごしている。

アルバムとしてのポイントは、8の『そして時代は続く』がスケールの大きい社会の、具体的な現実一個一個見に行ったのと対比して、こちらは日常でふとよぎる虚しさを描いていることだ。二つとも、命のことを書いている。8は今にも絶望的な状況にいる人の話だ。一方で、9は、恐らく食べることには苦難を感じておらず、彼女もいるが、それでも虚しさを感じてしまい、最後には思考停止をする。

2曲とも、主人公の抱えている問題のレベル感は違う。しかし、二つとも共有していることがある。『結局死ぬって何なんだ』。

10:結局死ぬってなんなんだ

いきなり「あなた」への痛切な呼びかけで始まる。かと思えば突然、知らない誰かの運命をコントロールしたいという呪詛のような言葉が並べられる。仮にもこれまで1曲の中である程度メッセージの中身や送り主が分かる形になっていたこれまでの曲とは違い、いよいよ一義に意味を取り出すのが難しい部分がある。

ただ、わかるのは生きているうちに青春や愛を受けられなかった人が、果たしてそのまま死んでいくのが運命や歴史というなら、「死ぬのなんて理不尽じゃないか」と書いているように見える。

この曲の歌詞を聞いていて、他のある歌を連想してきた。それは星野源の『くだらないの中に』である。星野源は、あちこちのインタビューで人はいつか死ぬし、ほとんどの事はうまくいかないというかぎりなく諦めに近い死生観を語ることがある。
『くだらないの中に』で、彼は人は「笑うように生きる」という。           笑うように生きるということは、いつかそれは終わるということである。

この曲を歌う主人公は、この歌詞を聞いて何を想うだろうか。

11:冬が僕を嫌っているので(inst)

12:音楽なんてわからない + 14:音楽なんてわからない(Guiano Remix) (外伝)   

『結局死ぬってなんなんだ』と同様に、かなり意味の読み取りに難しさを感じる一曲である。この曲でも主人公が怒りを向けるのは「お金で満たされた誰か」と「幸せそうな誰か」である。
歌詞の後半になって突然、「歌で世界を救いたい」という意志が現れはじめるが、それもまた、『あの夏が飽和する。』のように複数人のボーカルとは違い、自己批判の言葉でかき消される。
まるで、自分が幸せになるのを、自ら禁じているようだ。

そしてまた、この曲を聞いていて思い出してしまった曲がある。それは東京事変の『キラーチューン』とスピッツの『運命の人』である。なぜかと言えば、言っていることがこの曲と真逆で、どちらも意味が分からなくてもワクワクする曲だからである。さらに二曲ともお金は否定していないが、お金だけでは足りないと、さらに欲望を先に推し進めていこうとしているからだ。

このアルバムを通して、お金に音楽を変えることへの憎しみは繰り返し語られており、のちに花譜『不可解』-『狂感覚』への伏線となっている。少なくとも、この曲の時点では説明不可能なことに歌い手はかなりの怒りを抱えている。

13:進化劇 (外伝)

『結局死ぬってなんなんだ』『音楽なんてわからない』という、かなりメッセージが混濁している曲を抜けると、最後にカンザキイオリ本人の語りが入ってくる。

これまで12曲で見てきたように、カンザキイオリの曲はきれいごとに対する怒りと不信で出来ていた。しかしここで出てくる彼女はきれいごとが好きで、まっすぐな人のようだ。その彼女は死んでしまい、終わりには白紙の遺書が残されている。そこに主人公が文字を書き連ねたのは、(のちにいつの間にかお金の話に変わってしまっていたが)最初は、その彼女の死を認めたくなかったからだ。

2nd Album『不器用な男』(2021)

1:命に嫌われている(セルフボーカル版)

インタビューによれば、本来1stアルバムは全てボーカル入りの可能性もあったが、もろもろの理由があり歌われなかったと言われている。しかし、本人が強烈な勢いで弾き語りがうまくなっていき、ついに2021年に日の目をみることになった。その気迫あふれた歌唱は、是非一度聞いていただきたい。

2:カメムシ

Twitterで何故かカメムシとバトルしていたら出来ていた一曲。存在そのものが嫌われることが決まっているようなカメムシを見ていたら、この先ずっと嫌われ続けるだろうからと言って逃してやる曲。
この曲からすでに、1stアルバムの頃にはなかった外の世界への目線が出てきていることに注目しよう。

3:吸血鬼

これまでになかったベースとホーンの音を基調とした一曲。この曲で、描かれている「俺」がはっきり自分と重なっていた『白紙』の頃とは曲の書き方が違うことが感じられる。ドラマ『ルシファー』から発想を得たという。

後で言及する『死ぬとき死ねばいい』のような曲であれば、色々な欲望が羅列されていくばかりだった。ここではその様子を「吸血鬼」に仮託することによって、物語にすることが出来ている。最後に、実は君もそういう欲望を持っているヤバイ吸血鬼だったことがばれてしまう。

4:あの夏が飽和する feat.花譜

上に同じ。この曲はかなり早い段階でレコーディングは済んでいたという。

5:桜の子

四つ打ちのリズムで創られた、跳ねるようなリズムが特徴的な一曲。星野源の『Week end』に影響を受けたという一曲は、これまでのカンザキイオリさんの曲では考えられないくらい底抜けに明るい。そして、人によってはやはり花譜さんの姿がよぎるのではないかとも感じる。ちなみにYouTubeに公開されている可不&星界バージョンでは細かく歌詞が違っている。春と桜も、カンザキさんの曲のなかで繰り返しよぎるフレーズである。

6:成長痛

1stアルバム『白紙』では、「死にたい」という言葉が使われる時は悲壮感が漂っていた。一方でこの曲の「死んでしまうなら」という言葉には手羽先や風船と言った、突拍子もない例えがついてきて、もう「君」以外の事は消し飛ばしたさそうだ。

後述する『人生はコメディ』では、まだ君以外はいらないと言うにとどまっている。この曲ではさらに一歩すすめて、周りの物事を蹴っ飛ばしにかかっている。

7:畢生よ

山田悠介最新曲『俺の残機を投下します』のために作られたテーマソング。花譜さんの歌唱だったもののセルフカバーバージョンになっている。「残機」という言葉は、小説の側から引っ張ってきたものだろう。

5の『桜の子』、6の『成長痛』から連続で聴くと、被害者としての立場ではなくて、段々と「何を愛するべきなのか」という新しいクエスチョンを提示し始めているように見える。畢生(一生)をどうやって生きるか。それは生き残り続ける人たちに突きつけられる問いでもある。
生き残り続ける人たちを、人は大人と呼ぶ。注目されないことが多いが、この曲はカンザキイオリさんにとっても、花譜さんにとってもはっきり「大人」になることと向き合った曲である。

8:大人

ふと自分が大人になってしまったことを想いだした主人公の言葉から始まる。この曲でも、相変わらず主人公は自己嫌悪に立ち止まっている。子どもに戻れないことも噛みしめている。そして、自分の悩みが実は、他の人にもあり得ることも見通している。周りの人のことを見渡すこともできている。

9:ダイヤモンド

以前からリフレインしている『音楽でお金を稼ぐこと』への嫌悪が一番はっきりとした言葉になっている一曲。人の心臓をダイヤモンドにして、意識を仮想空間に投げてしまう

この曲をよく聞く限り、どうもお金への疑問はおそらく「ただの紙切れ」を価値があるように偽装していること、その紙切れを正しいものであるかのようにうっさばいていることが「魂を売っていること」に通ずると感じているようだ。

注意するべきは、『君の神様になりたい』の時から、自分が『普通の大人』であること、誰かの特別でいれないことが、逆転して自己嫌悪の元になっていることだ。音楽を通じて友達が欲しかっただけ(ここがさりげないが、重要な告白だと思う)だったはずなのに、お金や日常がそれを奪ってしまった。カンザキイオリの歌詞では「お金」が繰り返し悪い者扱いされるが、何故わるいのかを考える必要があると私は感じる

※ 事実として、the rolling stonesのボーカル・ミックジャガーは元々経済学部で、契約関係や社会での見られ方を考えつくしていたという。デヴィッド・ボウイも、自分の曲が生む利益を担保にボウイ債と呼ばれる債権を発行した。これをどう見るかは人次第だが、少なくとも彼らは自分のファンたちと活動を守るために、勉強を続けていたことは明記されてよい。後続の90年代のバンドの中には、例えばRadioheadのように、お金のために音楽をしていないことを証明するために、音源を無料で配布する場合もあった。

10:地獄に落ちる

『成長痛』でもあるように、人にくたばれとか、存在を消し去りたい気持ちが強く現れている一曲。

9の『ダイヤモンド』や『音楽なんてわからない』などを聞いていると、総じて、音楽や人生をかなり明確な勝ち負けの決まる戦いのようなものと捉えていることがわかる。ただ、この曲を聞いていても危うさを感じるのは、今は自分に向いている「価値がないものは生きてはいけない」という考えが、他所に向いたら、それは人を損得で測るものさしで測り始めてしまうのではないかと感じてしまうからだ(例えば、著作家の読書猿さんはマシュマロへの回答でこのように述べている)。
とはいえ、人はいつも潔癖で生きれるわけでもないだろう。

果たして、自分を大切にしなかった人たちのことを執念を持って、ずっと恨みを持ちながら、(その代償の自己嫌悪を引きずりながら)生きることは、「勝つ」ことになるのだろうか。

11:こんな夜でもいいじゃないか

そういえば、カンザキさんの曲にはバーやお酒の曲がやたら多い。そしてこの曲の主人公もやたら飲みまくって、自分の不安な将来全てを飲み込んでもらおうとしている。

12:子供(Instrumental)

13:青い号哭

すぐに大人になってしまった自分が、「星が綺麗」や「海がまぶしい」と言った素朴なことが、全てが過ぎ去っていく中でふときらめいて思い出されることがある。アルバムの曲を順番に聞いてきたのなら『大人』の後から、どんどん話が大人になってしまった人に向けられていることがわかるだろう。この『青い号哭』は、いつの間にか、自分の意志ではなく時間が自分を大人にしてしまったことを描いている。
アルバムとしての『不器用な男』は、実はかなり明るい曲で始まっているのだが、先に進めば進むほど、大人になってしまった後悔に向けて曲が書かれた曲が増えていく。そしてこの曲で、その後悔はピークに達する。

この曲の主人公は、自分が大人になって、やりたいことをやり切ってしまっても目的もなく生きていこうとしている。そうして、家の中に残っていた春の匂いを、窓の外に向かって解き放つ。この桜のモチーフは、繰り返し出てくるキーワードであり、子どもだった時代の象徴のように見える


14:不器用な男

アルバムのリードトラック。そして、最近のカンザキさんの曲の中で最も重要な曲だと個人的には考えている。PVを見てみると、歌っている人が『音楽なんてわからない』から成長した男性のように(恐らくはカンザキイオリさん本人に)見える。

『青い号哭』を経て、物語の主人公は「君」に向けて物語を書いている。しかも大人になることは「楽しかった」とすら書いている。

この文章の冒頭、私は批評家の佐々木敦の言葉を引用した。それはカンザキイオリの作品たちを果たして「彼本人に実際に起こったことなのか」「描かれた物語なのか」どちらに分類していいのかが把握しきれなかったからだ。彼の頭の中から出てきた言葉なのはわかる。

インタビューによれば、『不器用な男』のスペシャルBOX盤には小説版が存在しており、またライブではその小説と関係している。ただ、残念ながら、私はそこまできちっと細かくは追い切れていない。ただ、そを省いても、カンザキイオリの書く詩や小説は、『私小説』というジャンルに近いことは間違いない。
しかし、文章を書いた人ならわかるように、あるいは芸術を考えたことがある人ならわかるように、あるいは椎名林檎の『ありあまる富』にはっきり書いてあるように、言葉はどうしても嘘を孕んでしまう。聴く人の立場によっても、言葉にすれば例えば夏の幽霊だとか、桜色の髪の女の子とか、頭の中で想像する景色はちがうはずだろう。
だとすると、『自分自身』を小説に書くということは、自分自身が見ている自分と、言葉の上で語られる自分のズレにずっと悩まされるような、そんな試みかもしれない。

『命に嫌われている。』で他者に「生きろ」という言葉をぶつけ続けたカンザキは、『不器用な男』で自分の心の中を覗いて「死にたくない」という言葉を見つけ出した。物語を書いていたのは「評価されるためで」「会えない知り合いたちをぼろくそに書く優越感のため」だった。ぐちゃぐちゃの感情から始まっていた。

15:春酔い(Instrumental)

2021年に発表されたアルバム『不器用な男』は、ほとんどの曲がカンザキイオリのセルフボーカルでとられたアルバムだった。

カンザキイオリの曲は、『命に嫌われている。』をはじめ、最初の頃は「あなた」に向けてはなつ、ほとんど悲鳴のような言葉だった。しかしアルバム『不器用な男』では、アルバム前半では『吸血鬼』『カメムシ』『桜の子』のような、別のモチーフに仮託する曲が増える。アルバム後半に行くにつれて、「大人」になってしまうことへの屈折した思いが表出するにつれ、言葉のベクトルは徐々に自分自身を向き始める。


Additional Songs & Books

小説『あの夏が飽和する』(2020)

『あの夏が飽和する』は、2020年に河出書房新社から発売されたカンザキイオリの小説第一作である。

小説について全てを解説しきれる自信はないが、ポイントを抑えてみよう。基本的に、歌においてはカンザキイオリの曲に出てくる人物像は多くてもV.W.Pのような特殊例を除けば二人だった。一方で、『白紙』『不器用な男』の二作を通して聞けばわかるように、一曲に出てくる人の数は限りなく少ないのにも関わらず、それぞれの曲だけでこれだけ激しく意識や考え方の変化を描きだしてきた。

もしも今度は一曲一曲に込めていた意識の流れを、いくつもの立場と違う考えがある人物に分割してみて、殺人事件も含めてぶつけてみたらどうなるだろうか。これは、三人の主人公、東千尋・瑠花・武命が、心の中まで曝け出して、自らの生い立ちと向かい合う物語である。

小説『あの夏が飽和する。』の中に出てくるキャラクターたちは、みな不器用な人たちである。筆致は冷静で、起こった出来事を淡々と伝えていく。しかし起こっている出来事そのものは、極限状態におかれた人間の心の模様が、一人称らしく、時に地の文章側に感情が溶けだしながら伝えられてくる。すべては書かないが、ポイントを再び書こう。
物語の冒頭、プロローグから、千尋さんは少女がいじめられる映画を見る。そのとき、映画の内容を説明するところの千尋さんの語りは冷静で映画の外と中が区別出来ている、三人称的な語り方をしている。
しかし、少女がこれまで誰にも愛されない叫びを発したとき、千尋くんは突然、映画の中と自分の思い出がつながってしまい、千尋は映画と思い出がわやくちゃになった世界に入り込む。ここで語り方が一人称的になっていくのが技法的に素晴らしいところである。千尋さんの体感が描かれるとともに、映画の内と外、つまり虚構と現実の壁がぶち壊れる。この語りの抜き差しのうまさが、読む人に強烈な没入感を生む。一方で瑠花さんは、暴力を受けている友達を見ているシーンなどで繰り返し「アニメみたい」「映画みたい」とそれを形容している。この形容は、千尋さんの没入とは逆に、現実に嘘のように恐ろしいことが起こっていることを表している。

そしてこれは曲の方と共通の特徴であるが、決してこの小説でもレトリック(比喩表現)が巧みだったりするわけではない。代わりに、重要なのは『殺してやる』とか『どれにしようかなかみさまのいうとおり』など、キャラクターが強調したい台詞がこれでもかというほど繰り返し使われることで、クリシェ的な効果がでていることである。

この小説に出てくるキャラクターたちは、愛に飢えている。故に、「自分が必要ない」状態に追い込まれた時に、自分自身の感覚がマヒし始めたり、寂しさ故に死にたがろうとする。特に武命くんは、親から愛を受けてこなかったことにより、『上辺の笑顔』を続けているが、それにも限界が来ている。彼が、狂気的な状況にあっても笑い続けているのは一種の防衛に思える。
喜劇王のチャップリンは、『人生はクローズアップで見れば悲劇、ロングショットでみれば喜劇』だと述べたという。だとすれば、武命くんが笑い続けるのは、無理やり現状を俯瞰する、上から見下ろすためであり、彼の心の何処かはズタボロに傷ついているだろう。だから、自らの姿が獣のように見えた時も、『笑っていながら』『楽しそうにしていると思えない』(八章「晩夏」)と書かれていた。

この作品の主人公たちは「助けて」という本心を、恐怖や諦めや、色んな感情から言うことが出来ていなかった。物語りの最後で、瑠花と武命は最後の最後に、自分たちを見捨てないと言ってくれる人を見つける。

この本から導ける教訓めいたことがあるとすれば……人が人を見下げたり、自分にもあいつらと同じひどいことをしてよいはずだという復讐の心には際限がなく、非常に危険なこと。そして、人は人を許すためには、自らが許されている必要があること。そして、選択は間違うこともある、ということだろうか。人は、その時、何を人に言えるだろうか。

人生はコメディ(2020)

そして2020年に発売された『人生はコメディ EP』の中に収録されている『あの夏が飽和する。』『人生はコメディ』『死ぬとき死ねばいい』の三曲は、元々このEPに収録されていた小説『獣』のために書かれたものだったが、のちにその小説が『あの夏が飽和する。』になる。

1:夕日(inst)

2:あの夏が飽和する。

3:死ぬとき死ねばいい

『あの夏が飽和する。』の後日譚として描かれた曲。流花を亡くし、大人になってしまった千尋の感情が描かれている。彼や、この後に出てくる人たちにとっては、生き地獄のようにしか見えないのかもしれない。

4:輪廻(inst)

5:人生はコメディ

物語の終盤にもキーワードになった、『人生はコメディ』。化けの皮すらなげすてた主人公は、「君」だけを真実だと捉えようとする。


小説『親愛なるあなたへ』と曲『爆弾』(2021年11月19日配信限定発売)、『偶像』(2022年3月1日配信限定発売)

『親愛なるあなたへ』は、2021年10月に発売された、カンザキイオリ作の小説第二弾である。この小説のテーマソングとして、『不器用な男』『偶像』という曲が選ばれているという。しかし、よくよく描写を見てみると、「第二章 夏、高校一年生」には『カメムシ』を主人公の雪が逃がすシーンがしれっと紛れ込んでいる。

小説家を目指す春樹とミュージシャンを夢見る雪のお話だが、雪は義理の母を亡くした孤独感にさいなまれている。一方で春樹も自分の小説が勝手に手が加えられてしまうことに嫌悪感を抱いている。人から作品をどうこう言われることへの恐怖を感じている。そして二人とも、「好きなことを好きだ」というために、ずっともがき続ける。その思いは、春樹の『泳ぐ』という小説に、そして一方では雪の『爆弾』という曲に結実する。

この小説に出てくる登場人物たちは――まるでこの小説の作者と同じように――ずっと「親愛なるあなた」に向けて言葉を向け続ける。
『爆弾』の歌詞の中で、主人公はあなたのことも『爆弾』のようにぶち壊したいという物騒にも聞こえることをしゃべっていく。でもそれは、小説を書いた相手であるハルにむけて――あなたに向けての親愛の気持ちにほかならない。しかし、それは後にハル本人によって一度は砕け散らされることになる。

『偶像』という曲は、明言はされていないがハルが小説を書くときに抱いていた思いを描いた曲だと考えられる。MVでは小説『母をさがして』を燃やし、『爆弾』が演奏される様子を見る男の子の姿を見ることが出来る。

ハルは自分の気持ちをちゃんと言うことが出来ない。『偶像』で「あなたのことはあなたしか救えない」と言い続けることや、「俺みたいになるな」という言葉は、確かに強い自己嫌悪の言葉であり、それゆえに雪さんにひどいことを言ってしまったが――一方で、それはある種のやさしさのように見えないこともない。

この後、物語りはある衝撃的な事実が発覚し、春樹は人を殺してしまう。春樹と穂花は、雪さんの卒業式の日に死のうとする。春樹の方からみれば、雪さんは、やさしさも未来も、彼が望む色んなことを持っているように見えた。一方で、雪さんの方は、姉の日記を読んで、自分が大人になったような不思議な優越感を感じながら――愛する人を守るために、小倉家を爆破し、殺人の証拠を隠した。

ここで、カンザキイオリの作品としては初めて、「大人」という言葉がキャラクターからはっきりと肯定的に使われていることに気づくだろう。


カンザキイオリが送る春の三部作(2022年春)ーー『春を発つ』

  1. 春を発つ

  2. 自由に捕らわれる。(カンザキイオリ)

  3. 桜の子(可不&星界)                                      

『あの夏が飽和する。』『親愛なるあなたへ』の二冊が出版された時期は、花譜さんのセカンドアルバム『魔法』が発売された時期に重なる。このアルバムの時期から、前述の通り、花譜さんの曲は初期の曲から脱皮し、人の背中を押してあげるような明るい曲が増えていく。シングルでも『例えば』『海に化ける』『それを世界と言うんだね』と言った曲が並ぶ。

数曲ピックアップしてみよう。『魔法』のなかの一曲『帰り路』は、花譜さんの言葉を受け取ったカンザキさんが作った一曲である。この曲には荒々しいギターサウンドはない。代わりに、歌の主人公は、誰かが作った好きな歌を待っているような、自分の歌がいつのまにか誰かに届いてしまうことに対するワクワクで満ちている。
 『それを世界と言うんだね』は、ポプラキミノベルで色々な子たちの言葉を聴いてから作った作品ということもあり、「君」のやりたいことが次々に羅列され、どんどん世界を広げている様子を描いている。

花譜さんの作品を、果たしてカンザキイオリさんの作品としてカウントしていいかは半分半分くらいだろう。

2022年3月26日に花譜さんは高校卒業記念ライブを開催した

2022年3月に花譜さんの卒業ライブが行われた。この時に本番のライブ側では『裏表ガール』という曲がカンザキさんから贈られた。

一方で私が注目したいのは、2022年5月にカンザキさんのチャンネル側でそっとアップされた『春を発つ』である。MVでは、インスタグラムから始まった彼女の歩みをアルバムにまとめるように、色々な花譜さんが映し出されていく。よくカンザキさんは花譜さんと自分の曲を書くときの気持ちは変わらないとおっしゃっているが、一方で鑑賞者から見ると、かなりの違いを感じる。

この曲は「あなた」という、おぼろげな存在ではなく、はっきりと花譜さんという送り先が決まった曲だ。そしてこの曲で、彼は落ち着いて真摯に――一人の女の子が自分の旅路を進んでいくことを背中を押している。そしてまた――カンザキさんお得意の繰り返しだ――「あなたのことはあなたにしかわからない」という言葉を言い放っている。しかしその言葉は『偶像』の時のような投げやりな感じは感じない。この曲は、カンザキさんの曲で私が一番好きな曲である
歌詞の節々には、違う可能性もあったこと(違う道を~)といった逡巡も見られるが、それがギリギリまで伏せられている。ここまで見てきたように、自意識をばたつかせ、矛盾を許せなかったカンザキさんの曲が、ここまでまっすぐに、一人の人の旅立ちをまっすぐ祝福できたことが強く胸を打つ。

実は、この半年ほどはYouTube側ではカンザキイオリ作曲作詞の曲のPVは上がっていない。代わりに花譜さんは『組曲』と呼ばれる、様々なアーティストとのコラボシリーズに取り組んでいく。


終わりに ひとつの内緒話 ーーもしも魔法があるとして


ここから、私は大きな罪を背負おうと思う。自分がきちんと視聴していないライブに対してコメントをするなんて、お行儀のよいことだとは思えないからだ。しかし、気づいてしまったことがあるからには、やってみるしかない。武道館で行われたワンマンライブ『不可解参(狂)』について、私はその時期、イラストレーションについての文献収集やリアルの仕事の関係であまりに忙しく、見ることが叶わなかった。ここから書くのは、そんな人間が何を血迷ったか、見ていないライブの話について書いているものと扱ってほしい。もし公式の方が見ていても、そういうレベルの失礼な奴だと思っていただければ幸いである(恐らく、映像がDVDなりで再販されれば、ここの部分は追記するだろう)

色々な感想の記事を読んでみたが、その中で多かったのはカンザキイオリさんの風味が薄れ、お祭りのように明るいものになったことだった。

もしも、花譜さんの物語が――これだけ魔法と希望をかけて多くのクリエイターたちが手掛けたプロジェクトが――「子供だった子が、大人になりました」という単線的な物語としか語られないのなら――一方で彼女の成長が喜ばしい事であるとともに、それはどこか寂しいことだとも感じていた。そんなことを考えながら、panoraさんの記事を読んでいる時にふと気づいた。

マイ・ディアという言葉は、直訳すると「親愛なるあなたへ」という意味になる。あれこれ解釈をした意訳ではない。直訳でそうなる。

もしもこの世に、カンザキイオリの曲を一番身につけてそのすべてを知っている人は誰かと問われたら――もちろんメガテラ・ゼロさんやまふまふさんのような素晴らしい人はいるが――何十曲もあんなに息継ぎの難しい曲を覚えて、そしてずっとお互いに曲を作る中で、言葉を交わしながら知ってきたのは花譜さんで間違いないだろう。花譜側のプロジェクトよりも何倍も暗く、屈折した彼の個人制作の曲も知っていると思う。カンザキさんにとってこの言葉がどういう意味かも。
だとすれば、この曲の存在はもちろん観測者の人たちへの感謝であるとともに――まるで卒業で自分を送ってくれたカンザキイオリへの応答かのように、私には見えた。『命に嫌われている。』の時から、『あの夏が飽和する』だって、『糸』も『アンサー』も『自由に捕らわれる』だって、彼は彼自身への嫌悪感と戦いながら、あるいは自分自身で相手にはっきり言葉が伝えられない恥ずかしさも抱えながら、それでも「あなた」に届けることだけは、ただそれだけは諦めなかった。いくらそれが屈折していてドロドロの欲にまみれていようと――。

この文章を書くときに、あえてカンザキイオリさんの作品と本人の意志をくっつけすぎないようにした。優しい彼の願望は――もちろん一方では『不器用な男』や『偶像』のように自分を救いたい気持ちの変形で、醜い欲望がただれて出てきていようとも――出会った人に幸せに生きて欲しいことに他ならないからだ。


観光客の私がみたのは、ひとつの魔法である。
ひとりの不器用な男が、他人に傷つけられ続け、泣きながら原稿用紙と歌詞カードを埋め続けた。いくら物語りを書き続けても「あなた」という空虚な言葉なんてだれにも届くはずはなかった。
その言葉は、一人の女の子の力になった。そして彼女が自分から紡いだ言葉は、自意識の壁を超えて、武道館にピンク色の花を咲かせた。
それが、わたしが幻視した一つの物語である。
わたしには、それが偶像のようには見えなかった。



参考文献

●カンザキイオリインタビュー

飯田一史『「自作曲はYouTube上で1777万回再生、小説は11万部の大ヒット…「カンザキイオリ」とは何者なのか』(https://gendai.media/articles/-/89439

「紅白歌合戦で披露「命に嫌われている。」は“死んでほしくない大切な人”のために作られた。カンザキイオリが語る“生と死と音楽”」ニコニコニュースORIGINAL 2022/09/15(https://originalnews.nico/378197)

『花譜、3rdワンマンライブ「不可解参(狂)」1万字レポート 「あなたに夢中」から生まれた愛と狂気』2022年8月30日(https://console.panora.tokyo/archives/53231

取材・文 / 倉嶌孝彦 2021『"不器用な男"がセルフボーカルに挑戦する理由』音楽ナタリー(https://natalie.mu/music/pp/kanzakiiori

・花譜インタビュー

取材・文 / 倉嶌孝彦 2020『バーチャルの世界から音楽という名の魔法をかける』音楽ナタリー(https://natalie.mu/music/pp/kaf


(特にレトリックについて)
藤井貞和 2022『物語論』講談社学術文庫
佐々木敦 2017『新しい小説のために』講談社

Choice (以下は、直接言及したものもありますが、この記事を書くときに別途意識したものです)
amazarashi/古いSF映画
amazarashi/穴を掘っている
東京事変/キラーチューン
椎名林檎/ありあまる富
スピッツ/運命の人  ⇒スピッツは、隠喩ではなく換喩で物語を紡ぐ、カンザキさんとは逆のタイプの歌手。特にけものであってもよいと歌っていることが多いことにも注目。                                スピッツ/春の歌
スピッツ/魔法の言葉
星野源/Week End
星野源/私

永山則夫 1971『無知の涙』河出文庫
中上健次「犯罪者永山則夫からの報告」1994『鳥のように獣のように』講談社学芸文庫                                  ⇒永山則夫は連続殺人犯。実際に銃乱射を起こし死刑となるが、彼の小説や思想が注目されることになった。しかし、果たして死刑囚の物語りや言葉が取りざたされてよいのかは、強い議論を呼び起こした。中上健次は、自らの生い立ちとずっと対峙していたこと、爆弾のモチーフが多いこと、犯罪小説が多いこと、そしてなにより、繰り返しの暗いモチーフを強く使うことから、カンザキさんとの親和性を個人的に感じていた。

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