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2021/06/30 にじさんじが、リアルの残酷さに触れた日 ーー黛灰と鈴原るるの物語


この文章を書くことを決めたのは、月ノ美兎さんが雑談配信で、「ポスター事件」に関わる諸々、危険な出来事があったことを話されていたからだ。鈴原るるさんが引退された理由を受けての話である。

2021年の6月30日は、にじさんじにとって忘れられない記憶を刻み込む日になった。あるライバーが消滅の危機を回避し、あるライバーがにじさんじを去ることを決めた。

バーチャルユーチューバーという、時代の最新鋭のトピックに対して誠心誠意向かっていった人たちに、向ける言葉はなかなか見つからない。しかし、みにくい私は、再びどうにか言葉を紡ごうとキーボードを叩いている。



サムネは、自宅にあったプロ野球・パリーグコラボのグッズ。6月30日、ソフトバンクホークスはこれまでの不調をひっくり返すように9対1で西武に勝利した。




黛灰の物語と「時間」


結局のところだ……、結局のところ、ネットにはじかれたテニスボールはどっち側に落ちるのか誰にもわからない。

ジョジョの奇妙な冒険第七部 ジャイロ・ツェペリ


David Bowieの「Ashes To Ashes」は、1980年発売のデヴィッドボウイの曲。彼自身が作り上げた虚構の宇宙飛行士「Major Tom」が、所詮は虚構でしかなかったことを自己批判のように歌っている


黛灰くんの物語について、「結局は都合のいい形に収束して終わるんだね、あーあ」と言った言葉が飛んできたのを見て、頭を抱えてしまった。

ある一面において、それは確かにそう見えてしまう。しかし、それだけではあまりに、彼や博士の消去に対して残酷すぎやしないか。しかし、それだけでこの物語を閉じてしまっていいのだろうか。いや、黛灰の物語はそもそも「閉じて」いるのだろうか

2021年6月19日時点で感じていたあの、「黛灰という人物とは二度と出会えないだろう」という宿命に似た感情はどこに行ったのか?


批評家のさやわか氏は、これまでのポップカルチャーが「泣けるだけで中身がない」「文化の停滞だ」と語られがちな状況の問題点を次のように述べる。

彼らがとらえきれていないものとは何か。筆者はいま、それを「時間性を持つジャンル」だと考えている。冒頭に挙げた音楽(BABY METAL、Sound Horizon)などは、その代表的なものである。あるいは演劇など、ライブパフォーマンスにかかわるジャンルもそうだろう。これらのジャンルは盛況を迎えていたにもかかわらず、少なくとも二〇〇〇年代以降のポップカルチャー批評で、重視して語られることはなかった。また最近のスマートフォン用のゲームのように、日々刻々と状況が変わり、新しいシナリオが追加され、決して結末が訪れないような作品も同様だ。                     それはつまり、厳密なテクスト論の俎上に載せられない作品群だと言うことができる。今日のコンテンツは、テクストそれ自体と同等に、受容される場、時間、相手、環境などによる刺激を重視していて、それによって評価が揺れ動くことを歓迎してすらいる。コンテンツは環境依存的になり属人的になっている。YouTubeなどの動画サイトでも、人気の動画配信者は「ユーチューバー」と呼ばれ、動画配信で収入を得て生活している物も多い。彼らは身の回りを属人的なコンテンツとして動画化し、その一挙一動が注目の的になって、スターのようにもてはやされている。                           さやわか「最初のあとがき 我々は何をアップグレードするのか」『キャラの思考法: 現代文化論のアップグレード』

さやわか氏は、こうした状況をアップデートするためには、「作品の読み取り」だけに注目するのではなく、「作品を読み取った我々が、本来ならば改変できないはずの登場人物の運命を、消費者と言う一方的にコンテンツを与えられる立場なのに、なんとか改変しようとする」二次創作の画期性に見なければならないと考えた。


二次創作とはまた違うが、上や下の選択肢だったら黛灰くんはにじさんじからいなくなっていたかもしれない


これは、漫画の中のキャラクターを一生変わらない静的に見る見方を退け、動的・アップデートができるものとして見ることを意味する。さやわか氏の場合、例えば狩野英孝さんのように、「残念なイケメン」という性格・パーソナリティに近い使い方をする。しかし、狩野英孝がゲーム実況や歌を始めると、一気に違うキャラクターが開けてくることが分かるだろう。EIKOはこの前に、50TAという謎のアイドルとなって歌を歌っていた。そこには一定の歴史性が存在している。

狩野英孝が「残念なイケメン」のキャラクターを確立させるときのヒントとなったのは、ちびまる子ちゃんの花輪くんだという。

ご存じの通り、黛くんの憧れの人はラーメンズの小林賢太郎さんである。つまり間違いなく演劇の人であり、キャラクターを演じる時がある人だ。舞台の上では、観客と役者はコミュニケーションを取る。観客がいなければ演劇はないというのはよく言われることだ。一方で、黛君の物語はこの相互性・時間性を抜き取り、物語だけで語りたくなるような素材で溢れている。

しかし、我々はすでにスマホやパソコンという、コミュニケーションの道具を手にしてしまっている。


私は、すでにさやわか氏の言説を参考にして、6月30日以前に「黛灰の物語」のプレイヤーは、「そもそも」リモコンの延長線上にあるものとして作られていたスマートフォンを持っている視聴者に他ならないと述べていた。そして、Vtuberは間違いなく時間性を持ったコンテンツだろう。

ならば、語り方は単なる物語を超えて、キャラクターへの目線を確保しなくてはならない。



「演劇を演劇する」時代 ーーアイドルと関係性オタク


ももクロは、それぞれのメンバーにカラーが決められており、ヒーロー戦隊もののようにキャラ付けをしていった。しかし、人の脱退などの時間経過によって、「ももクロ」の物語の中でキャラ付けも変化していく

少し寄り道をしよう。

実は、知り合いのにじさんじファンの方にも、自らが関係性オタクでありながら、関係性オタクの気持ち悪さに悩んで相談してくる人がいた。本音を言うとそこまで病む必要はないと思う。関係性が無かったらビートルズもQueenも日本で流行してない。そして、さやわか氏によれば、ももクロのような演劇的な状況を演劇するアーティストの出現は、現実の人間関係が関係性の中の「キャラ」によって変わる時代になったことを表しているという。関係性オタクは時代性のある現象だ。

切り抜きから人間が読み取れる関係性は、おそらくある時期の静的なデーターベースである。そこにあるのは、人狼ゲームでいえば、一回のゲームの結果、それも一番盛り上がったゲームの結果である。そこでは、その場面で決まっていた配役(キャラクター)が刻み込まれている。

関係性オタクは、おそらくその一点への中毒症状(思い出への執着)・分析のし過ぎが問題である。かといって、「切り抜きを見るのをやめよう」では止まらないのが、人の性だろう。

個人的おすすめは、アニメでよく「0話」があるように、徹底的に切り抜きを見てそれで彼ら個人個人の活動の原点までさかのぼること、そして自分自身の欲望をアップデートしていくことである(関係性の分析をアプデするだけではないことに注意!)。重要なのは、自分が何の感情を昔の切り抜きから得ているのか、自分の欠けている何を埋めようとしているのか考えることだ。

これは間違いないことなので言えば、にじさんじSeedsは最初の最初は広義の営業の一種だった。わざわざグループを小分けにして作ったのだから、そこには一定のユニット性があった。そもそも、みんなバラバラで、それぞれに葛藤があった。だから、ひとりひとりを見つめてみることは、実は関係性を見ることと部分的に重なり合っている。


三枝明那くんの初期の活動の悩み(男性ライバーへの風当たり)から、黛君の存在の大きさを見た記事。

バンプのこの曲は、関係性を「赤い糸」(常につながっている)のではなく、結んだり、結び方を変えたりすることもできる気づきを与える


緑仙は、にじさんじSeeds一期生の中でも、特に企画を頻繁に作り、ライバーの間を取り持っていた。そんな緑仙は今は「緑仙」というキャラクター自身と向き合い続けている。この曲の「僕は変わっていくよ」という台詞は、仙河緑だけではなく、ファンにも向けられている




人間に自由意志は「そもそも」ない ーー「中動態」の世界


黛灰くんの物語では、「誰の意志でこの行動がとられているのか?」を皆がずっと議論していた。しかし、私の見方は相当特殊だった。実は、哲学や科学の世界では「自由意志というのはそもそも存在しないのではないか?」ということが、依存症の臨床や脳科学の世界で話題によくなっているのだ。

哲学者の國分功一郎氏は、「能動態(する)」「受動態(される)」だけでは説明のつかない動作・行為の存在を解明するために、「中動態」という概念を使い説明しようとした。

例えばここに舞元啓介がいるとする。

「舞元が、女の子に惚れる」という時、この「惚れる」という言葉は果たして能動態だろうか?受動態だろうか?答えは「中動態」である。惚れるというのは、自分がある人に対して「好きになりつつある」という『プロセス』としてしか理解ができないはずなのである。「能動態」と「中動態」は、プロセスが外部にあるか内部にあるかで区別される。

さらに、例えば舞元が警察に事情聴取を受けたとして、「お前はあの女の子を好きになってしまったんだな?」と聞かれるとする。この時、果たして本当に舞元に「能動的に意志がある」と言って責任は取らせることができるだろうか

國分氏は「完全に自由で能動的な意志」は近代の信仰であるとする。例えば依存症の人であれば、意志の力で危険なものを「ダメ、ゼッタイ」と言って止めても、やめることは困難だ。

 意志の力で、「もうやりません、絶対やらない」と思ってると、絶対やっちゃうんだそうなんです。そもそも依存症を抱える人は、自分の意志で能動的にアルコールや薬物に手を出したわけではないんです。心に苦しいものを抱えていて、それが薬物依存・アルコール依存のきっかけになっている。自分の意志で能動的に始めたわけじゃないものを、自分の意志で能動的にやめられるわけがないんです。ところが世の中は尋問する言語が当たり前だと思われているから、「なぜ自分の意志でやめられないのだ。それはお前の意志が弱いからだ」となる。
 僕は依存症からの問いかけは、ある意味で哲学への挑戦だと思ったんですよね。哲学の中で、近代的な責任主体というか、意志をもって自発的に物事を選択して生きていく、理想的な人間像が批判されていることは知っていたけれど、それがまさしく生きられた問題としてそこにあるような気がしたんですね。意志とか責任という言葉で考えている限り、解決しない問題がある。「【考える時間】人生は「それはお前の意志が弱いからだ」では解決できない問題で満ちている【再掲】」より引用

國分氏と共同研究を行っている小児科医の熊谷氏は、依存症の回復のためには、一旦、意志確認による尋問のようなやりとりを止め、依存症によって蓋をされている「忘れたい過去」「トラウマ」と少しずつ対話していくことで、新しい、心の中から感じることのできる「責任」を作り上げる必要があるという。

自由意志の問題については、特にスピノザ『エチカ』が議論の出発点になることが多い。面白いことに、國分さんは主体というのは「仮置き」、レンズで集められた一点のようなものと考えた方がいいという。「仮置き」と言う言葉ほど、バーチャルとなじみ深いものもないだろう。

この話は、鈴原さん、黛くんの話それぞれに大きな意味がある。

鈴原さんの側であれば、やはり考えるべきは「誹謗中傷」の問題である。行動分析学の知見では、攻撃的な人は「本質的に攻撃的」であるというよりも、「攻撃的な行為をすることで得をした経験が習得・学習されている」と考える。また、好きであって依存的に行動してしまう人も、この章の中動態の議論にあるように、従来の意志の力では考えにくいことが多い。以前から、私が「嫉妬や不安など、ファンの中にある感情をどうするか考えた方がよい」というのは、この目線からずっと考えてきた。(どう考えているかは、過去記事を参照いただきたい)

黛君の側であれば、まずエンディングの「魂」という言葉の解釈に関わる。黛君は、「自分の魂がここにあった」ことを叫んでいる。これは、黛君の魂が、他の人に指示される依存の瞬間を抜け、思考のルーティンが書き換わったことを意味する。この時の「依存」というのは、他人と仲良くしないという意味を意味しない。彼はリスナーの意図(選択)を受けた上で、まさに中動態的(内面が変わる)に心のシステムを書き換えたのである。

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(黛灰『。』放送終了間際のエンドロールより)

黛灰が魂を書き換えた後、エンドロールが流れてくる。ここでわたしが「皮肉にも」という言葉を使わないのは、前述のさやわか氏の「動的なキャラクター」の目線があるからである。

もしもこのエンドロールが「皮肉」に見えるならば、その時の目線は「メタ的」あるいは「視聴者」的と言える。この視点に立てば、「この物語は出来のよいご都合主義フィクションでしかない」と言ってもいいし、それは明らかに正しい。

しかし、黛灰は明らかにバーチャルユーチューバーである。故に彼との体験は時間性が想定される。そして最も重要なこととして、このエンドロールが流れて来たことと、「黛灰が魂をアップグレードすることすら、所詮は作り物で筋書の上だった」ということは一切の関係がない。誰もそんなことは言ってもいないし、「黒い文字の上に、関係者の名前が流れて来ただけである」。そこに関係性を見出すかどうかは、プレイヤーにゆだねられているのだ。50/50と言う結果に対して、黛灰がアドリブで応答した可能性もあるのに、それをエンドロールらしきものが出てきただけで、「これを皮肉だ」と読み取ってしまう視聴者側の方が、台本の上で踊らされている可能性がある

この物語とその体験に一義的な解釈は存在しない。だから、ここでの倫理はこうである。我々は黛灰の物語のプレイヤーとして巻き込まれていた。だとすれば、この物語を受けて、確かめるべきは自分の魂のありかと、自分の知覚への在り方である。それが、少なくともこの物語を消費だけに終わらせない倫理になる。

私は、少なくとも、黛君の魂を感じたし、自分の中の何かが変わった。  そう、感じている。


行動分析学は、人の危険な行為を冷静に判断するために役に立つ学問

西尾維新や小林賢太郎さんは、小説、演劇をエンターテインメントとして捉えていたが、それは消費の先にしか「贅沢」はないと分かっていたからだ。メタ的に「消費」、インスタントに満足することを批判するのはたやすい。問題は「欲しがりません勝つまでは」ではなく、個人個人が「贅沢」をする方法を探すことである。

意識は何かについては、ずっと研究が続いている

「ぼくらの」と月ノ美兎 ーーすべては既に決まっているということ

鬼頭莫宏作品では人はあっさり、運命に飲み込まれるかのように死ぬ。しかし鬼頭先生は、その人が死んでいく様を、手を抜かずにどんなに醜かろうと全てを書き切る人だった。そのゲームの法則は、あまりに残酷で、人は理由を求めようとする。しかし、異常な状態・ルールの下に置かれ続ければ、人はあっさりその考え方に馴染んでしまう。実際、『ぼくらの』に出てくる子供たちも、かなり早い段階で世界の危機に対処しようとした。そんな彼らを、無意味な死は次々襲ってくる。

……私も少しだけ、月ノ美兎さんについて隠していた解釈を出してみよう。とはいってもぼかしてしかまだ言えないし、所詮は「分かったつもり」なのだけれど…。

私と友達たちで考えていたのは、彼女の活動はそういう「絶望」からはじまっていたことである。人が、真に物事を俯瞰的にみるようになるのは、現実という名前の残酷さに直面した時だけである。

そして、その残酷さとむごさが変わりようがないことに気づいた人だけが、「クソゲー」であるところの人生を、変えることができる。ただし、それは一定の制約(キャラ設定)の下で果てしなく続く、実験を繰り返す孤独な営みにしかなりえない。

だから、以前の記事で彼女が優しいと書いたのはこういうことだ。例え単純化されたキャラクターになろうとも、人間じゃないと言われようとも、変な二次創作されても、月ノ美兎はそれでいいと言ったのだ



鈴原るるの遠回り


そうだな…わたしは「結果」だけを求めてはいない                                 「結果」だけを求めていると人は近道をしたがるものだ……………                           近道した時 真実を見失うかもしれない                                                           やる気も次第に失せていく                                             

大切なのは『真実に向かおうとする意志』だと思っている                                             向かおうとする意志さえあれば たとえ今回は犯人が逃げたとしても                    いつかはたどり着くだろう?向かっているわけだからな                              ……………違うかい?

ジョジョの奇妙な冒険第五部 黄金の風より


鈴原るるは、「人間じゃない」「化け物」とよく称されたバーチャルユーチューバーだった。るるさんは、ずっと変わることもなく、超高難易度のゲームに立ち向かい続け、好きな歌を歌い続けた。

勇気づけられて変わっていったのは、おそらく彼女の周りにいるファンとライバーたち、そしてゲーム開発者の人たちだった。

「作品」ではないので立ち入って解説することはしないが―—「鈴原るる」というキャラクターと一緒に過ごしたその時間は、「みんな」の心に刻まれている。


私が通してみたのは「ヨッシーアイランド」と「デトロイト」「パラッパラッパー」「ドンキーコング」。

私の洋楽の推しは、二人(John LennonMarvin Gaye)が銃撃され亡くなり、二人(Chester benningtonAvicii)が自ら死を選んだ。Ed Sheeranは、一度SNS上の誹謗中傷で危険な状態になり、「自らを守る(Save Myself)」ことを選びながらも、今も曲を作り続けている。先日、Bad Habitsという曲を復活してリリースした。


奥華子『変わらないもの』は、鈴原さんがたびたび歌っていた一曲。


人間の残酷さに直面しても、変わらずに彼女は負けなかった。負けずに、元気に魔界村へと旅立っていった。

だとしたらファンに出来ることは二つである。ひとつは、彼女がいたところの心の余白を残しておくこと。もうひとつは、少しずつでもいいから、ライバーの方の活動がよくなるために、アイデアを出していくこと。

それは、Vtuberという物語のプレイヤー(Player)であり、その存在のプレイヤー(Prayer)である残された人たちができることである。

にじさんじの物語は、鈴原さんがレッドアリーマーに立ち向かい続けたように、絶望の中でも、やるせない現実に直面しても、出来ることの中で、何とか攻略法を探して、失敗しても何度でも立ち上がるところにあった。クソゲーとか鬼畜ゲーであっても、擦り続けて神ゲーにできるかもしれない。それが、鈴原るるさんが体現していた、あるにじさんじの物語だった。


鈴原るるさん、楽しい時間をありがとうございました。あなたの物語と過ごした時間は、ファンやライバーの方が、ずっと忘れずに覚えています。





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