『伝習録』(でんしゅうろく)を知る⑨:読書と講演会、解読力と認知の拡大

王陽明は「龍場の頓悟(とんご)」後、
天理に対して「天理即是明德、窮理即是明明德」と新しい理解を得ました。「明德」は、私たちが言う心の本体であり、生まれながらに持っている、一切の汚れのない心です。
「明明德」の最初の「明」は「磨き上げる」という意味であり、生まれながらに持っているその心を磨き上げ、外部の汚染から守り、善良な人の心、本来の姿を失わない心に保つことです。

聖人というのは
天下に明徳を広めることであり、天下の人々に一連の法則や堅苦しい規定を守らせることではありません。
聖人は天下の人々に愛する心を持たせるべきです。
そうすれば、人々は規則を必要とせず、自然と善行を行い、天下は厳しい法律や刑罰を必要とせずに安定するでしょう。
これが王陽明の言う「心即理(しんそくり)」であり、非常に理想的な境地です。
王陽明は、この心が私欲に曇らされなければ、それが天理であると考えました。
いわゆる格物(かくぶつ)、窮理(きゅうり)とは、天理の追求を意味しますが、それは外部の法則の追求や遵守、厳しい要求ではなく、自分自身の心を絶えず磨き続け、塵一つない状態に保つことです。
これが心学における最も重要な第一の観点です。

この観点は非常に大胆でした。

それは、それ以前の程朱理学(ていしゅりがく)※1には多くの厳格な規則があったからです。
一部の道学者たちは「天理を保存し、人欲を滅する」というスローガンを掲げ、人々の正常な感情や欲求をすべて滅ぼすべき人欲とみなし、理によって人を殺していました。
例えば、多くの貞節牌坊(ていせつぱいぼう)※2が建てられ、寡婦(かふ:夫を失って独身の女)は再婚できず、子供たちは孝行を示すために自分の肉を削ってスープを作り、親に捧げるといったことです。
このため、長い間、封建の礼教(れいきょう:礼儀道徳)は人を食うものだと言われてきました。
王陽明の観点は実際、これらの非人間的な規則に疑問を投げかけたのです。

※1:程朱理学(ていしゅりがく)とは、中国の北宋の程頤(ていい)と朱熹(しゅき)を指す言葉で、日本では「程朱学(ていしゅがく)」と読みます。
※2:貞節牌坊(ていせつぱいぼう)とは、
貞節とは、妻が配偶者の死後も再婚せずに婚家に残り節操を守ることや、家庭で妻が夫に貞操をつくすことを指します。
牌坊は、中国の伝統的な建築様式の一つで、扉がなく開放的な門型建築です。

封建の礼教の問題の原因はどこにあるのでしょうか?
それは、天理が具体的な規則に変わると、それが一部の人には有利で、他の人には不利になる一連の硬直した規範となるからです。
多くの規則は「死理(しり:死んだ道理)」となり、その「死んだ部分」とは人の心です。
人の心を認めず、尊重しません。
王陽明はこれを見抜き、「聖人の道はすべての人の心の中にある。この心の外に、格物すべきものも、追求すべき理もない」と言いました。

注意を外部の事物に向け、修養の努力をそちらに注ぐのは間違いなのです。

『伝習録』には、
段階的に学問する方法がある。
より高く自己修行する入門書である。
認識の拡張が展開されている。
批判的思考(クリティカルシンキング)がある。
心即理(しんそくり):修行は心である。


自燃人、不燃人、可燃人とは


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