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あやしい動きをするもの

 今回は小話っぽい文章を二つ投稿します。そのうちの「抽象を体感する、具象を体感する」は「【小話集】似ている、そっくり、同じ」に収録したものです。少しだけ加筆しました。


「【小話集】似ている、そっくり、同じ」は、かなり盛りだくさんな記事なのですが、これまでのアクセス数(全期間・全体ビュー)がいちばん多かったものです。よろしければお読みください。

 この記事は新顔の「人間椅子、「人間椅子」、『人間椅子』」に首位の座を奪われたばかりなので、応援してやりたいのです。

抽象を体感する、具象を体感する


 眠れぬ夜によく考えることがあります。

 定番は、地動説を体感できるかとか、脳が脳を思考するとはどういうことか、です。最近では、具象と抽象とか、具象と抽象を行ったり来たりとか、です。頭がさえて眠れなくなることもあります。

 先日は、外と中について、考えていました。あっちとこっちと同じく、相対的なものです。向こうから見れば、中が外になります。

 こそあど。こっち、そっち、あっち、どっち。here、there、where。

 こういうのも不思議でよく考えます。言葉の綾と言葉の抽象と言葉の具象の間を行ったり来たりするのです。そのうちに眠くなります。

     *

「そと」と「なか」だけなら、まだいいのですが、「よそ」と「うち」を加えて考えるとまた眠れなくなります。

 上下もそうです。「うえ」と「した」ならいいのですが、「かみ」と「しも」を考えるととたんに目がさえてきます。邪念や雑念や妄念――こういうのは言葉の綾という名の抽象ではないかと睨んでおります、いや踏んでおります――でいっぱいになります。

 あと、前後(ぜんご)になると、「まえ」と「うしろ」だけじゃなくて、空間と時間にまたがっているので、真剣に考えると徹夜しそうになりそうな気配があります。

 それだけじゃありません。

 ほら、時間の前後(ぜんご)の場合には、「未来」と「過去」、つまり行く年来る年の「来る」(未来)と「行く」(過去)もあるし、さらにその逆っぽい「来し方」(過去)と「行く末」(未来)なんかがあって、この種の判断をとっさにできない私はパニックになってしまいます(いま書いた文も辻褄が合っているかどうかに自信がありません)。

 外は外なの、中は中、上は上、下は下、前は前、後ろは後ろ、真実と事実はすごーくシンプルなの。なんて言い聞かせても無理みたいです。

 さらに裏表(うらおもて)と表裏(ひょうり)まで考えたら――。

 どうでもいい、つまり不毛なことにこだわって、不毛の二毛作三毛作どころか、不毛の多毛作になってしまうじゃないですか? もう毛がないのに……。いまのは私のことです、誤解なさらないでください。ちなみに最近は儲けもありません。

     *

 実は、昨夜というか今朝というか、トイレに立ってベッドに戻り、眠れないので寝返りを打っていたところ、上と下が気になり始めて、仰向けになって体感する上と下と、うつ伏せになって体感する上と下と、右を向いて寝ていて体感する上と下と、左を向いて寝ていて体感する上と下とが、異なって感じられることに、この年になってはじめて気づき、唖然となり、七転八倒していました。

 ベッドで逆立ちは危険なのでしませんでした。

 いまこの文章を読んでいらっしゃる方は、たぶん立っているとか座っていると思います。その状態で「上・うえ」と「下・した」を想ってください。考えるというかイメージしてみてください。次に仰向け、うつ伏せ、横向きに寝て、やはり上と下をイメージしてみてください。

 訳が分からなくなりませんか。特に、うつ伏せです。

 次に「かみ」と「しも」で試してみてください。考えるというかイメージしてみるのです。こっちだと、どの姿勢でも、あまり違いはありませんよね。人それぞれですけど。

 個人的には、「うえ」と「した」は具象で、「かみ」と「しも」は抽象ではないかと踏んでおります、いや睨んでおります。

 具象は体感に左右されます。天動説がそうです。抽象は体感には関係なく観念として記憶されている知識や情報だという気がします。地動説がそうです。

 今夜、また考えて、いやイメージしてみます。

     *

 ところで、無重力空間ではどうなんでしょう? 

 あと、左右も気になってきました。

 ぐるぐる回りながら左右が分からなくなった子どもの頃の記憶がよみがえってきました。時計の針の方向に、つぎはその逆に、という具合に回るのです。

 右が左に、左が右になったりします。しまいにぶっ倒れると、左右が上下になったりします。

 左右上下は単なる言葉じゃないか、なんて言いたくなります。

     *

 恥ずかしい話なのですが、私は右左がときどき分からなくなります。老化の進んだ今だからではなく、幼少期、少年期、青年期……から今に至るまで、ずっとそうなのです。とっさに言葉として出てこない感じ。

 上下ほどではありませんが、やっぱり左右は単なる言葉だという気がしてなりません。「ほら、あれ」、「えっと、なんて言ったかなあ……」というふうに言葉を探すことってあるじゃないですか? 右と左は私にとって、そんな感じのものなのです。

 とっさに「右、どっち?」とか、「さあ、左手を挙げて」なんて言われると頭の中が真っ白になります。現に、いま考えただけで冷や汗が出てきました。

 上下と違って、どちらから見て右か左かという相対的な位置関係とか方向であることから来る戸惑いと混乱もあるにちがいありません。それだけではない気もします。

「そういうのはね、心理学的に言うと――」とか、「あ、それは〇〇シンドローム(エフェクト・効果・現象)だよ」というふうに、言葉で名づけることで、手なずけたり、なつかせたり、飼いならそうとしても、体感はいっこうに消えてくれないのです。私の場合には。

 手なずけようと名づけてもなつかない。まるで猫みたい。Naming doesn't work for taming cats.

     *

 それはさておき、みぎとひだりは、右大臣左大臣の、左右とは違うみたいです。政治的な「みぎひだり」とも違う気がします。どっちかというと右往左往のほうみたいです。

 右往左往。あっちへ行ったり、こっちへ行ったり。ふらふら、ぶらぶら。

 私の人生そのものじゃないですか(足腰が弱まり最近は千鳥足も加わりました)。

 これから、ちょっと久しぶりにぐるぐる回ってみます。転倒に気をつけながら。

あやしい動きをするもの


 UFOは空を飛ぶわけの分からないものを指しますが、昔は「空飛ぶ円盤」とも呼ばれていました。でも、円盤状だけでなくいろいろな形状のものがあったみたいで――葉巻型なんてあった気もします――いまではUFO(未確認飛行物体)という言い方が定着しているようです。

 みなさんは、どんな形の物が空を飛んでいれば不気味に感じますか? いかにも定番っぽい円盤状、火の玉みたいな球状、あるいは葉巻とかウィンナーみたいな形、立方体、直方体、昇り龍や蛸やネズミみたいに生き物っぽい形――いろいろ考えられますね。

 私は丸かったり球状のものには洗練を感じます。形として見事で美しいのです。あと、丸いものは広がるというか拡散する気がしてなりません。無限に大きくなっていくのではないかという怖さも感じます。固体や液体よりも気体をイメージしているのかもしれません。

 輪っかとか丸いイメージは人を安心させます。ぐるぐるまわる――アナログの時計の針が円をえんえんとなぞりつづけているさまが好きです。ぴょっこり、あらまた、ぴょっこり――デジタルの時計の数字がなんどもなんども反復してあらわれるのもいいですね。時計は絶え間ない既視感の製造装置。えんえんとつづく既視感をともなう記憶。循環する日、週、月、年。

(私は時計やカレンダーは循環する思い出の製造装置ではないかと思っています。時計を生き物にたとえるなら、人は地球上の無数の時計と共生していているかのようです。でも、もし人が時計に依存する度合いが高いのであれば、ひょっとすると人は時計に寄生しているのかもしれませんね。これはすべての器械や機械や器具に言える気がします。)

 いずれにせよ、時間と空間を直線ではなく、めぐりめぐる円環だとイメージすることで、人はずいぶん救われるし励まされもするのではないでしょうか。

 一方で、長方形や立方体だと職人的な完成度を感じて、こんなのが空を飛んでいたら手強い気がします。人工的というか作為を感じるのです。長方形や楕円形だと知的な生物がつくって操縦しているのではないかと考えてしまい、やはり恐ろしいです。とはいえ、なにぶんにも、UFOらしきものを見たことがないので、空想はしますが現実味を覚えません。

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 個人的には、形よりも動きに注目したいです。動きのほうがリアルに怖さをイメージできそうな気がします。そもそも、動きのない顔よりも動く表情、姿や格好よりも仕草や身振り、形体よりも動作のほうが生々しいし不気味じゃないですか? 動きは予想がつかなくて不安になります。

 つまり、固定よりも変化を恐れるのです。なにしろ、変化(へんか)は「へんげ」とも読みます。ゲゲゲの鬼太郎みたいで、「げ」という濁音が不気味ではないですか? 七変化(しちへんげ)の変化ですし、語呂から変幻自在(へんげんじざい)を連想するのかもしれません。

 こういうことって大切です。こういうことというのは、濁音が不気味だかとか、語呂を楽しんで一人でにやにやするようなことです。

     *

「みなさんは、どんな形の物が空を飛んでいれば不気味に感じますか?」に話をもどします。

 直線で落下するように動けば、隕石の可能性があり得体が知れて安心するかもしれません(落ちるのが自分のいるところでなければ、ですけど)。つまり素直なのです。直線で水平に動けば何かが乗っている可能性を感じて恐ろしいです。でも飛行機かもしれないと考えると安心しますね。ミサイルの可能性もありますが、もしミサイルならまわりが大騒ぎしているはずだと考えそうです。

 ふわふわ――こんなのが飛んでいれば妖しいです。見たことはありませんが、火の玉を連想します。ただ人魂だと思えば、気心の知れた同士ですから、手を合わせてひたすらお祈りをすることで消えてくれそうな楽観と安心感があります。

 いちばん怪しく妖しいのはジグザグです。これは不気味だし、マジで怖いです。知性や人間もどきっぽさや、感情を感じるからだと思います。感情は動きのなかでも、とくに予測がつかなくて不安です。しかも人魂と異なり、話の通じなさそうな生き物とか生命体めいていて怪しくて恐ろしいのです。中に乗っている「物」の姿までが勝手に頭に浮かんできて、鳥肌が立ちそうです。

 ZIGZAG、zigzag、ジグザグ、じぐざぐ。字面と語呂があやしいですね。音と形が蛇の形と動きを連想させるのかもしれません。蛇を敵として知覚する生き物は多そうですね。もちろんヒトも。かたちそのものがうごきを思わせます。

 意味するもの(音声・文字・物・具象)に意味されるもの(イメージ・意味・観念・抽象)が擬態する、逆に意味されるものに意味するものが擬態する感じでぞくぞくします。オノマトペがそうです。なにしろ、擬態とか擬音とか擬声ですから。

 最強のオノマトペは擬人偽人擬神偽神(ぜんぶ「ぎじん」と読みます)だと思うことがあります。ギジンギジン、ギジンギジンですが、音読不能のオノマトペなのです。⇒「音読不能文について」

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 半分冗談はさておき、動くというのは、あくまでも人間としての枠内で判断しているものかもしれません。知覚に左右されるという意味です。

 植物を考えてみてください。特殊なカメラと特殊な撮影法で――この「特殊な」ってテキトーな言葉で便利ですね、知らない複雑そうなものだったり、得体の知れないものはぜんぶ「特殊な」と形容すればいいのです、ニュースでよく出てきます――、数秒とか数分のあいだに、何か月、あるいは何年にもわたる動きや変化を映す動画があります。

 ああいうので見ると、植物ってめちゃくちゃ動いているじゃないですか。ひゅるひゅる、にょきにょき、動きます。場所は移動しなくても、その動きはすごいです。あと、地殻運動を見える化した映像がありますが、あれも感動的です。日本列島やそこにある山脈やまわりのプレートがどのように形成されたかをCGかなにかで見せているわけですが、めちゃくちゃ動いていますね。

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 動きって不思議です。というか、人には見えなかったり知覚できない動きがいっぱいあって、私たちはそれに気づいていないだけなのでしょうね。なんだがぞくぞくしてきました。あたりを見まわしています。

 よく考えると、身のまわりのすべてのものが移動してここにあるわけです。それに、いつまでもここにあるわけではありません。

「ここ」にある「これ」は、以前は「こう」ではなかったし、「どこか」にあったはずです。万物流転。万物動転。気も動転。びっくり仰天。

 はあ。ため息が漏れました。すべての物が長い目で見れば動いているのですね。目の前のペンや本やリップクリームが健気で愛おしく感じられます。みんな頑張っているんだね。よくここまで来てくれたね……。

 あ、自分もそうだと気づき、いまビビっています。というか、さっきからこの部屋でいちばん動いているのは、この私じゃないですか。千鳥足で右往左往。たぶんジグザグを描いています。いちばん怪しく妖しい動きであるジグザグ運動です。

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