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ガラスをめぐる連想と思い出(言葉は魔法・04)

 私には、連想にうながされ、みちびかれて書く癖があります。

 簡単に言うと、

・「AだからB、BだからC、CだからD、Dだから……」という論理っぽいつながりではなく、また、
・「Aして、次にBして、それでもってCして、それからDして……」という物語っぽい流れでもなく、
・「Aといえば、Bといえば、Cといえば、Dといえば……」という連想っぽい運ばれ方が、

いちばん、しっくりくるのです。

 そんなわけで、私の書く文章は、脱線と矛盾と飛躍と重複と破綻だらけになります。申し訳ありません。

 今回は、ガラスと言葉について書きます。

 言葉はガラス。


硝子戸の中


 言葉はガラス。
 言葉は硝子。

 まったく違った「物」に見えます。ガラスのすべすべとした無機的な字面。硝子の異物性。言葉が物に見えてくる瞬間です。

 夏目漱石の『硝子戸の中(がらすどのうち)』が好きです。タイトルの字面が気に入っています。硝子戸から外の世界を眺める漱石の眼と寝そべっている姿が浮かんでくるようです。

「ガラス戸の内」では、何だか気分が乗りません。『硝子戸の中』に慣れ親しんでいるからでしょう。

     *

 白いレースのカーテンのあるガラス窓から外を覗き見る人。反射のせいで、外からは中が見えない。一方的に見るという暴力。見る側にとっては、密かな喜び。窃視。要するに覗き。

 家の中から外を覗くのは、けっこう誰でもやっていますよね。外から家の中を覗くのは犯罪です。これは許されません。

 パソコンの画面でいろいろな文章や画像を閲覧していると、窓から外を覗き見ているのではなく、自分は「内」を見ている(覗いている)のではないかと錯覚しそうになるコンテンツがあります。

 誰かの住まいの「内」、誰かの心の「内」を覗き見ている後ろめたい感覚なのですけど、あなたにも心当たりがありませんか?

 私なんか思わず赤面していたり、あたりを見まわすことがあります。

 言葉は硝子戸。
 言葉は硝子窓。
 言葉は白いレースのカーテン。
 言葉は液晶パネル。

ウィンドウ


 ショーウィンドーは飾り窓ともいいます。

 大きなガラスが嵌め込まれているものをいうわけですが、その大きさを考えると大したものだと思わないではいられません。店にとっては相当な投資ではないでしょうか。

 ショーウィンドウと言えば、映画「ティファニーで朝食を」のオープニングシーンを思いだします。お好きな方は、ぜひ拙文「立ち姿が美しい人」をご覧ください。

 ガラスを通して陳列された商品が見えるだけでなく、ガラスに映る自分の姿を見たり、つまり鏡代わりにしたり、まわりの人を観察するのにも使えます。

 誰かに後をつけられている。そんなふうに感じたときにも使えそうです。そうしたシーンをテレビドラマや映画で何度も見た記憶があります。

 言葉は飾り窓。
 言葉はショーウィンドー。
 言葉はショーウィンドウ。

 同じものを指すはずなのに、カタカナだとイメージががらりと違います。ウィンドーとウィンドウも違って感じられますが、個人的なイメージの問題でしょう。自分だけのものですから、イメージは大切にしたいと思います。

 字面も音の響きもいい言葉なのですが、「飾り窓」というと別の意味にもなりますね。詳しくは、ウィキペディアなどの解説をご覧ください。苦手な話題なのです。

ガラス張り、鏡張り


 以下の映画の冒頭でも、ショーウィンドーが出てきます。片足をあげて靴をガラスに映すジョン・トラボルタの身ぶり(0:56あたり)。さらにはダンスに出かける前に鏡に向かうトラボルタ。鏡が似合う人です。

 ディスコの壁には大きな鏡が張られています。ダンスのスタジオやジムもそうですが、体を動かすという行為と鏡には親和性があるにちがいありません。

 ナルキッソス、ナルシシズム、水面、鏡、鏡の国。

     *

 鏡を見てください。覗きこむという意味です。そこにはがあるはずです。そこには自分あなた=eyeという他者自分=memeが映っているはずです。 

 瞳は鏡。
 ひとみは人見。ひとみは日止視。※諸説あり。
 自分あなたeye
 他者自分meme

 ※めめ、meme(英語の「ミーム」)、même(フランス語の「メム」:……自身・同じ・同一)

 ちなみに、虹彩は英語で iris です。iris の二つの  i(eye) の点が目に見えてきて(涙を流した目)、目が点になります。

 こういう馬鹿なことをやっていると、eye も顔に見えてきます。e y

 1)文字が文字として見える瞬間と、2)文字が文字に見えなくなる瞬間を体感していただけたなら嬉しいです。どちらの場合も、文字の向こう側(かなた)に文字の指ししめすものや意味やイメージを見るのとは別の体験です。

     *

 ところで、鏡の中にいる自分は自分なのでしょうか? いまだに私は確信が持てないでいます。自分の像であるとは思いますけど。

 自分と自分の「影」を区別するのはとても大切です。とりわけ、「似ている」と「同じ」とが混同されている時代には。世界はフェイクに満ちています。かといって「本物」(「同じ」が自力では確認できず「似ている」の世界に住む人間とって「本物」は言葉でしかありません、本物の「実体」など人には見えないのです)を探そうというのではありませんけど。

 鏡の中の像が自分だと感じるためには、鏡の存在を忘れなければ、あるいは忘れた振りをしなければなりません。

 文字に似ていませんか? 文字を見るためにではなく、文字を読むためには、文字の存在を忘れなければ、あるいは忘れた振りを装わなければならないのです。

 その意味で鏡と文字はよく似ています。そっくりなのです。

 文字を文字だと思っていては文字は読めないし、鏡を鏡だと思っていては、そこに映っている像を自分だとは思い込めない(信じることができない)のです。時計も、そうだという気がします。針の形(アナログ)や数字(デジタル)に見入っていては、時が読めません。

 目の前にある文字を文字として見ないことから、すべての学問は始まる。
 目の前にある文字を文字(letter)として見ることから、おそらく文学(letters)が始まる。

 いま述べたことに、万が一興味をお持ちの方は、「【レトリック詞】であって、でない」をお読み願います。とても愛着のある記事なのです。

     *

 文字どおりに取ってください。
 猫とはぜんぜん似ていないのに猫であるとされて、猫の代わりをつとめ、猫を装い、猫の振りをし、猫を演じている。そんな不思議な存在であり、私たちにとってもっとも身近な複製でもある異物。
 いま、あなたの目の前にある物です。
(拙文「異物を定義する(異物について・01)」より)

 そんなわけで、私は文字です。文字ではないものを装った文字なのです。

     *

 話をウィンドウにもどします。

 映画「ティファニーで朝食を」では、以下のシーンにも窓が出てきます。

 トルーマン・カポーティの原作を読むと、主人公ホリーという女性の生い立ちや、そもそもなぜ「旅行中(Traveling)」なのかが分かります。

 Moon River を歌う気だるい歌声に、ホリーの暗い背景を重ねないではいられません。ヘビーで悲しい物語が裏にあるのですが、これは映画ではぼかしてあるので原作を読まないと分からないかもしれません。

覗く


 裏と言えば、アルフレッド・ヒッチコックが監督した映画「裏窓(Rear Window)」を思いだします。

 一方的に見るという暴力。見る側にとっては、密かな喜び。窃視。要するに覗き――。

 この映画は、テレビの映画劇場で見た記憶があります。私は閉所が苦手なので、映画は劇場での鑑賞は無理です。

 三十分以上じっとしていることができないので、劇場でもトイレやロビーや売店の近くででうろうろしていて、最後まで通して見た映画は少ないです。

 じっとしていられないのはテレビの前でも同じなので、映画をビデオで見る習慣もありません。

 それでも予告編は大好きです。あれよあれよという間に終わってしまうところが好きです。予告編は宣伝ですから、いい場面を選んで編集してあり、なかなかよくできたものが多い気がします。

イマージュ


 イメージ、イマージュ、幻想、鏡像。

 共同幻想は幻想。個人間の差異を無視した、誰かの粗雑な私的イメージ。誰かの幻想やイメージに付き合う気持ちはない。

 イメージは愛おしい。おそらく死ぬまでついてきてくれる、きわめて個人的なもの。たとえば、ガラスについてのイメージは、あなたと私では異なる。それがあなたと私との差異。

 誰かのイメージや幻想に付き合うことで、主従関係が生まれる。ひいてはファシズムに至る。他人の幻想に頼ったり、共同幻想を求める願望は誰にもある。

 幻想や幻影やイメージへの人の偏愛は、おそらく言語と関係がある。言葉はシステム。幻想やイメージもシステムだからだ。

     *

 イマージュ――この言葉を見聞きすると、くすぐったくなります。なんだか、こう、この辺がこそばくなるというか……。いまああぁじゅぅうっ、という感じ。それが、この言葉についての私の個人的で愛おしいイメージなのです。

 変なことを言ってごめんなさい。というか、個人的なことって変じゃありませんか? ひとさまの前で披露するものではなさそうです。

ガラス、グラス


 ガラスはオランダ語の glas から来ていると辞書にあり、英語の glass でもあります。glass はグラスでもあることが思い出されます。glass を英和辞典で見ると、面白い発見に満ちていて楽しくてたまりません。

 言葉はグラス。
 言葉は半分だけ水の入ったグラス。
 言葉は満たしても満たしてもいっぱいにならないグラス。

 このように書くと何か深い意味がありそうなフレーズに見えるから不思議です。隠喩や寓意(アレゴリー)ではないかと思ってしまうわけです。自分で書いたにもかかわらず、そう思ってしまいます。もし、これが他人の書いたものなら、よけいにそう見えるかもしれません。

     *

 このところとくに、「真理」(「でたらめ」でもいいです)とか「真実」(「フェイク」でもいいです)とか、真理っぽさ(または「でたらめっぽさ」)とか「真実らしさ」(あるいは「フェイクらしさ」)というのは、とどのつまりはレトリックの問題ではないかとよく考えます。

 言い方次第、書き方次第、口調次第、プレゼン次第で、本当っぽくも嘘っぽくも、意味ありげにも、深遠そうにも見えるという意味です。言葉は空っぽなのに、です。

 言葉は空っぽ。
 言葉は「らしさ」。
 言葉は「っぽさ」。

 言葉は魔法。

 人が求めるのは、詩ではなく詩のようなもの、小説ではなく小説っぽさ、哲学ではなく哲学っぽさ。いかにも芸術らしい、いかにも文学らしい、いかにも真実らしい。

 まるで透けたガラスみたい、いや向こうのない鏡みたいかも。glassはglass。

 見えるようで見た者はいない。

 その意味で、透明なガラス――比喩的な意味では鏡と文字とおそらく時計も――は、自分の顔によく似ています。

 そもそもガラスはそのものを見るために用いるのではない。誰がって、人が。それではない何かを、あるいは向こうや彼方を見るためのもの。

 やっぱり言葉と文字と鏡と鏡像は似ている。

時計、眼鏡、宝石


 hourglassという言葉を思いだしました。砂時計のことですね。hourglassというと、以下の映画を連想します。

 YouTubeで、この動画を見つけた時には歓喜したものです。懐かしい。

 いっしょに見た人を思い出します。いっしょに行った映画館も覚えています。その人の服装も覚えています。場所は東京、渋谷。あの時は最後まで見たような記憶があります。

 あの人はいまどうしているのでしょう。この映画は後にレンタルで借りて見たこともあります。私としては珍しいことです。忘れられない映画です。

 映画は「ジェレミー(Jeremy)」、主題歌は主役を演じたロビー・ベンソンが歌っています。この映画の内容というかストーリーは、主役の少年がユダヤ系だと考えるとよく分かります。その意味では時代を反映している気もします。

 とてもセンチメンタルな物語なのですが、懐かしくて、その感傷に浸らずにはいられません。主題歌には正式はタイトルはなく、Hourglass Songと呼ばれているようです。

 余談になりますが――連想がテーマの記事に余談なんて変ですけど――、上の動画では主人公の男の子の部屋にある本棚が映しだされます。あそこに並んでいる本が気になってなりません。画質が悪いので、一時停止にして目を細めてにらむことがあります。背表紙に Emily Dickinson なんて見えたりしますね……。

     *

 glass は glassesと複数形になると、二つのレンズから成る眼鏡の意味にもなりますね。

 言葉は眼鏡。
 言葉は虫眼鏡。※虫眼鏡とは、よく考えると不思議なネーミングです。
 言葉はルーペ。

 言えてますね。

     *

 昔は時計と眼鏡と宝石を売っている個人のお店があちこちに見られました。

 時(とき)は、かつて叩いてみんなで聞くもの(寺の鐘・clock)であったのが、個人的に見るもの(懐中時計・腕時計・watch)へと移り変っていったと、小中高時代に何度か授業で聞いた記憶があります。

 時計は、昔も今もただ見るだけのものではなく財産にもなります。時は鐘なりが、時は金なりになったということでしょうか。

 また、鐘の鳴るところには金の成る木がある、というのも変わりつつあるようです。とくに、この国では。

 信者で儲ける。漢字はよく出来ていると思います。

     *

 時は見えません。自分の姿と同じで見た人はいません。

 時計で見ているものは時ではありません。また、鏡をのぞき込んでそこに見えるのも自分ではないのです。時そのものではない、自分そのものではない。こう言えば分かりやすいかもしれません。

 文字を読んで見えるものや知るものも、そのものではありません。でも、そのものだと人は信じたがります。文字は錯覚製造装置なのです。

     *

 まとめます。

 言葉と文字は人を錯覚させます。快い錯覚です。一度覚えたらぜったいに手放したくない錯覚でしょう。
1)自分が隔靴掻痒の遠隔操作をしているのではなく、世界と無媒介的(直接的)に触れあっている、と錯覚する。
 この錯覚を維持するためには、言葉が言葉だと、文字が文字だと意識してはなりません。
2)自分は「似ている」かどうかを基本とする印象の世界ではなく、「同じ」かどうかの世界に生きている、と錯覚する。
 この錯覚を維持するためには、言葉が言葉だと、文字が文字だと意識してはなりません。
(拙文「言葉は嗜好品(言葉は魔法・03)」より)

     *

 鏡と時計と文字はよく似ています。そこに見えているはずのそのものに出会えないのは、人の宿命なのではなく、ごく当然で自然なことなのかもしれません。きっと人がぼんやりしているだけです。ぼんやりしていないと人をやっていられないにちがいありません。

「似ている」かどうかを基本とする印象の世界に住んでいて、「同じ」かどうかを判断するためには、自分の外部にある「はかる」ための道具や器械や機械やシステム(広義の「はかり」)に頼んで、代わりに「はかってもらう」しかない人間にとっては。

     *

 かつては鏡と時計と文字がきわめて大切なものとされ、畏怖の対象でもあった時代が長くつづいていた。そんな話を学校でならった覚えがあります。

 授業で聞いていてもぴんと来なかったのですが、いま考えると分かるような気がします。

 鏡と時計と文字は、神と(人の)魂が出会う場とか物と考えられていたのではないでしょうか。

 たま、玉、珠、球、魂、魄、霊というイメージです。

 人は太古から一貫して(いまもという意味です)呪術の世界に生きているようです。だから、鏡も時計も文字も見えないし、見ようとしないのかもしれいません。

ジャズ、アドリブ


 言葉はレンズ。言葉はレンズ豆。言葉は豆。言葉は大豆。言葉は畑の肉。言葉は畑。言葉は肉。

 こういう連想が好きです。「なるほど」と、うなる連想もいいですけど、ときには荒唐無稽な連想を楽しみたいと思います。

 言葉はジャズ。
 言葉はアドリブ。

 言葉は即興。
 言葉は叫び、うめき、なげき、うなり。
※どれも即興です、いちいち考えてから出すものではありません。
 言葉は自動筆記。

ぎやまん


 ビードロという言葉を思いだしました。

 あれもたしかガラスじゃないか――と辞書で調べるとポルトガル語から来ているとのことでした。日本に渡来する言葉の順では、ポルトガル語が先でオランダ語が次と学校で習った記憶があります。

 葡萄牙(ポルトガル)、和蘭陀(オランダ)。いい感じ。漢字のもたらす不透明感が心地よいです。こういう表記を、まだ使ってもいいのではないでしょうか。

 西班牙、白耳義、独逸、丁抹、瑞典、諾威、波蘭……と、国名をカタカナで入力すると漢字の表記が出てきます。便利ですね。

 言葉は透明。← これは嘘。または建て前。
 言葉は不透明。
 言葉はドロドロ。
 
言葉はビードロ。
 言葉はぎやまん。
 言葉は硝子。

 ぎやまんは、ダイヤモンドから転じたらしい。ガラスを切ったり削ったりするのにダイアモンドを使ったことから、そうなったという。この「転じて」(要するに、間違って、ずれたために変わった)が好きです。

 人と言葉が生きていると感じるからです。転石苔を生ぜず。

 人は常に辞書を持って話したり書いているわけではありません。規則は後付け。辞書は死亡診断書の草案。言葉はいま生きている人の中でしか生きません。

 いまも起こりつつある、言葉のずれや変化。私はこれを「国語の乱れ」だとは思いません。言葉は生きているから揺らぐし変わるのです。

アリス


 言葉はレンズ。言葉は顕微鏡。あ、鏡が出た。言葉は実験室。言葉は望遠鏡。言葉は天文台。

 やはり、ガラスはそのものを見るためではなく、向こうや彼方を見るものだと痛感します。それどころか、ひょっとすると別世界や異世界を見るためのものではないでしょうか。

 考えれば考えるほど、言葉と文字に似ています(鏡と自分の鏡像と時計にも)。

 言葉と文字は目の前にあってそれが見えないときにだけ(あるいはその存在を忘れたり、忘れた振りをしたときにだけ)、人に何かを見せてくれるからです。

 人が言葉を見ることは稀で、その向こうにある意味やイメージを見るという意味です。

     *

 話をもどします。

 glass の続きです。

 looking glass で鏡の意味になりますが、ルイス・キャロル作の Through the Looking-Glass, and What Alice Found There、つまり邦訳で『鏡の国のアリス』を思いださずにはいられません。

 よく分からない小説です。いや、いまでもさっぱり分からない小説というべきでしょう。

 言葉が言葉(文字が文字)であることを忘れると読めない小説であることは確かです。

     *

 言葉は鏡。言葉は鏡の国。言葉は不思議の国。

 鏡、ガラス、眼鏡、虫眼鏡、望遠鏡、顕微鏡、写真機――。ルイス・キャロルはこうした「もの」と、こうした「ものの彼方」をつねに行き来する瞬間に生きていた気がします。

 向こうと彼方だけに目を向けていたのではない。何にもまして、ここにあるもの目を向けていた――。

 見えるのに見過ごされるものたち、人が世界を見るためにもちいられる見えないものたち。こうしたものたちの象徴が言葉であり文字なのでしょう。

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