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病に倒れると「いのちだいじに」が身に沁みる。

何をするにも相応のエネルギーが必要。

 恥を知れ恥を!で一躍有名になった安芸高田市長の石丸伸二さんが、初のYouTubeライブで、冒頭に「肉体か精神、いずれかの休息は死守する」という体調管理の話題が出てきて、20代半ばで病気で倒れた身としては沁みるものがあった。

 京都大学卒、三菱UFJ銀行出身で、現地駐在員を経験するなど、誰もがエリート銀行マンだと思うような経歴の持ち主であり、昨今の日曜劇場さながらの市議会やマスメディアとの「ぶつかりあい」を見ていると、どこか半沢直樹を彷彿とさせる。

 あえて「対立」と記さず「ぶつかりあい」と記したのは、「対立」だとネガティブワード感が強いが、岡本太郎さんの名言にある、「ほんとうの調和とは、ぶつかりあうこと」が、本来あるべき姿だと考えているため、意見の相違からぶつかり合うことが悪いことだとは思っていないためだ。

 1970年の大阪万博で、太陽の塔がシンボルになり、結果的に大屋根をぶち抜く形になったのは周知の事実だが、建設時の経過としては、大屋根の案が先で、大屋根の範囲内で太陽の塔を創る予定だった。

 しかし、太郎さんが現地を視察して、屋根に穴を開けるかで建築家と揉めたエピソードがあり、ぶつかり合ったことで、べらぼうなスケール感を誇る太陽の塔が建設され、これだけは解体を免れ、当時の姿のまま保存されている。

 現代日本でよく見る、他者との衝突を恐れるあまり、他人を慮って、なぁなぁ、まぁまぁで短期的にラクな方に流れて、現状維持と判断の先送りを繰り返すだけでは、既得権益層だけが得をして、全体ではジリジリと悪化の一途を辿り、縮小再生産で良くないことくらい、誰もが薄々気づいている筈だ。

 石丸さんが支持されているのも、「ほんとうの調和とは、ぶつかりあうこと」という、多くの人が現状を打破するために必要なことだと思いながらも、自分が傷つくのを恐れるが故にできないことを、先陣切って代弁してくれているからではないだろうか。

 とはいえ、ぶつかりあうことに限らず、何をするにも相応のエネルギーが必要だ。エネルギッシュであり続けるためにも、肉体か精神、いずれかの休息は死守しなければ、HPが消耗しきっていつか潰れてしまう。

 多忙な環境に身を置いている人が、自分の言葉で伝えるからこそ、言葉以上に響く何かがあるのかも知れない。

命とは、すなわち時間。

 最後の一文に「気力と体力の両方が尽きる(=潰れる)と、再起動に時間がかかるので要注意です。」とある。ここでの注意は、文面だけ見れば、気力と体力の両方が尽きないことに対応したものだろう。

 深読みすると、石丸さんが市長として、新成人に向けたメッセージで、ドラクエの「いのちだいじに」に準えて、「命=時間」と伝えている。

 この考え方から、個人的には再起動に時間がかかることは、命の一部を失っている状態に等しく、避けて通れるなら、それに越したことはないことを、喚起しているようにも解釈できる。

肉体→精神の順で尽きた話。

 そんな私は、冒頭にもあるように「いのちだいじに」が守れず、20代半ばに病気で倒れ、1ヶ月間の入院と手術に至った。

 内臓を悪くした手前、手術で完全に元通りとは行かず、現在もリカバリーしている最中ではあるが、経験談を記すことで、類似の状況で泥沼にハマりかけていることに気付ける材料に、少しでもなれば幸いである。

 鉄道員としてシフト勤務を繰り返したことによる不摂生が諸悪の根源で、倒れた直接原因は肝機能障害だが、酒を飲んだ訳ではなく胆石由来。しかし、入院時まで胆石持ちとは知らなかった。

 そもそも健康を害する職業柄、半年毎に健康診断があり、血液検査も毎回ではないが実施されていて、肝臓に異常が見つかれば早期発見できた筈だが、倒れる前に受けた直近の健診では異常が見られず、ものの半年〜1年で急激に悪化したものと思われる。

 最初は寝違えたような肩甲骨の凝りと、腰痛が一向に直らないところから始まった。整形外科で異常は見られなかったが、入院して初めて内臓がむくみ、脊髄の神経を圧迫していたことによる痛みだと知り、個人の努力でどうにかなる類のものではなかった。

 その後は全身倦怠感に悩まされ、仕事で気を張っている時以外、ぐったりしている状態が慢性化した。食欲低下、腹痛、嘔気の3点セットに悩まされ、只事ではないと思い内科を受診するも原因不明。

 主観ではこれだけ体調が悪いにも関わらず、健康診断は異常なし。医者にかかってもどこが悪いとも診断されない。この時点で体力(肉体)ゲージは既にエンプティーで、気力で動いていた。

 周囲には仮病を疑われ、体調不良が誰にも理解されない状況下で、徐々に身体が蝕まれていき、鉛のように重くなった辺りから疑心暗鬼に陥り、気力(精神)ゲージがゴリゴリ削られていたのだと思う。

 エナジードリンクを飲んでいる訳でもないのに、尿が蛍光色となるが、これが黄疸によるものだと知るのは倒れてから。皮膚が痒くなり、肝機能障害の症状をコンプリートする目前に発作で倒れて入院した。

 当然、何の発作か心当たりなどなく、身体は倒れるも意識が飛ばなかったことから、「マジか!ここで死ぬのか?」と、激痛でのたうち回りながら思い詰めた。

 それから入院生活でも、同い年の大卒が入社3年目で人生これから的な時期に、高卒で社会に出たが故に、既にボロボロになっている自分との対比から、精神的に来るものがあり、気力ゲージが尽きた瞬間だった。

 肝臓は沈黙の臓器と言われるだけあって、初期症状を自覚することはなく、症状が慢性化する頃には末期まで進行していることを、身を以て知ると同時に、体力が限界領域、気力まで削れ始めてから、入院に至るまでが50日程度だったことを振り返ると、石丸さんの言うとおり長くは持たない。

 周囲の同世代が病気や死を意識すらしないような20代で、大病を患い死の恐怖に直面したからこそ、「いのちだいじに」が身に沁みる。

 周りから何と言われようが、主観で辛いと思ったら、内なる声を尊重して「いのちだいじに」するためのアクションを起こす。これには勇気がいるが、自分にしかできない行動だ。これを読んだ方が、私みたくリカバリーしなければならない状態に陥らないことを願う。


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