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お金と(お金に換算する)価値について

最近探求して書いているお金と価値に関すること(注1)と、NVC仲間のまささんのお金の投稿(注2)が、私の中で勝手にオムニバスになって、探求・究が進んだので、忘備録的に書いておきます。

注1:りんご1個の値段と400ドルの時給
    お金がないと食べ物が手に入らないのか?

注2:  お金について(試し書き)その1 
                  その2
                                                           その3

あ、「お金がないと食べ物が手に入らないのか?」の余談ですが、昨日、共感カフェを開催して、会場としてお家を開放してくれている友人が「水菜とケール、レモンバームが庭で採れたから持ってって〜」と大量かつ全員にお裾分けしてくれました❤️ (作物のための土地が必要じゃないか!と思う人がいるよね、と気づいたので、コモンの話をそのうち書きたい)
(写真左から水菜、レモンバーム、ケール、そしてお裾分けのチリオイル)

まささんのお金についての試し書きに対する私のコメント

まずは過去に書いたことの忘備録。

まささんの投稿その2に私がコメントとして書いたのはこれ↓。

まささんの学びと得たもののくだりを読んで、養老さんが「臓器移植について」話していたのを思い出しました。「最近の人は、自分の体が自分のものだと思ってる。だから自分の体なんだから誰が臓器移植しようが勝手だろうって。それは、西洋から来た考え方です。個人主義、個人のものっていう考え方。」
私にとって、養老さんが言っていることとマーシャルが言っている「お金のために何もするな」や「compassionate giving and receiving」はつながっているようか気がします。

その上で、私は資本主義経済の元、自分のことは自分でやるように育てられ、自分が困っていたら自己責任、と刷り込まれているので、どう恐れや不安なしに「compassionate giving and receiving」できるか、は、常に挑戦です...。

まささんの投稿その3に私が書いたコメントはこれ↓。

心の底から自分と相手に思いやりを持ち、compassionate giving and receivingを人だけでなく、地球や宇宙全体を思って差し出し、受け取る時、そこにはお金は必要ないんだなぁ、というのと、喜びからできることを差し出す人とそれを感謝と慈しみと共に滋養として受け取る、いただくこと、循環が起こることが自然なことと思える私が、今のお金を使っている&お金にまつわるたくさんの想いや経験、痛みや亡霊(!)がある世界からシフトするのにNVCが必要だなぁ、と改めて感じました。

そして、他の人に自然にシフトが起こるためにも、NVCを実践し、興味を持ってもらって周りの人にも伝染(うつ)したい!と思ったので、NVCを切磋琢磨します〜!

このその3のコメントに書いたことについて、もう少し詳しく書き残しておきたくなったのでこのnoteを書いています。

お金は媒体&概念

まず、お金という媒体、概念が入り込んだ途端に「それはこれだけの価値があるか?」という外の判断基準で判断しようとすることに気づきました。

つまり、NVCでいう、「イマココ」にいる「私」の「いのち」が「この瞬間に」「これが一番大切、欲してるのー」というニーズ意識からの価値判断とは違う判断を基準として採用している、ということ。

だから、「いのちから切り離された」「思考」や「判断」をして、ますます「いのちから切り離され」て、「(自分の、そして周りの)いのち」からのメッセージが受け取りにくくなっていく。

さらにいうと、お金は、コインや紙という実態を持ちますが、その実態に価値をつけているのが、概念、知識、考え、体験です。そのコインや紙自体には私が思うほどの「価値」がない、と思えてきています。その概念に振り回されている私は「人間本来の」「自然な」感覚につながりにくくなっているんだなぁ…これを取り戻すには「つながりを取り戻す」には、相当覚悟と探求・究と体験が必要だ、というのがようやくわかってきました。

…と書きかけていたら、共感バディの時間になったので、昨日私の中に起こったお金にまつわることを聴いてもらったら、さらに進んだので、進んだ先の話を書いてみます。

お金で買えるもの買えないもの

共感バディに聴いてもらっている時に、「それを聴いて話したくなったので…私にとってお金とはなんなんだろう、とよく考えているんですが、今のを聴いて浮かんできたのが…」と返してくれたりして、大きく分けると、

お金で買えるもの
人が作ったもの
人が金銭的な価値をつけたもの

お金で買えないもの
自然にあるもの
 (無理やり値段つけて売り買いしてるものもあるけどね。
  土地とか水とか…)
人が値段をつけていないもの

こう分けて考えると、私が「お金がないと手に入らない」と思っているものがどんなものかが見えてきました。人工的なもの、都市部にいて「必要だと考えているもの」にも気づいたので、私にとってお金と健全に付き合うために「今ここで」「具体的で」「実行可能で」「結果にこだわっていない」状態で望んでいるもの・ことに意識しつつお買い物をすると、いのちとつながった状態、マインドでお金と健全にお付き合いできそうな気がするなぁ、と思いました。

これからしばらく、「これは私に必要なものか?」を問いながらお買い物をしてみたいと思います。

さらに、これをすると、不安と恐れにも気づけそうな気がします。
買っておいたら安心、と思って大して欲しくもないものを「とりあえず」買うのか、ニーズにつながって買うのか、にもアンテナを立ててみます📡

他人と家族の境界線


2022年10月28日(投稿日の翌日)追記です。

書き忘れていたことがありました!
共感バディと話していて、ふと思ったのが「お金が間に入る時、それは他人との間、または他人行儀になる」ということ。

そして、「おごって〜」とは言いやすいけど(冗談でも)、「2,000円貸して(または2,000円ちょうだい)」となると、途端にいつ返すか、信用できるのか、返してもらわなかったらこの関係はどうなるのか、などの不安がどっと押し寄せてきて、その恐れや実際に関係性が壊れるというリスクを考えたら「たかが2,000円でも借りられない」ということが起こるなぁ、と思いました。

私にとっては、コーヒー一杯でも「おごるおごられる」には親密さのニーズが満たされる感じがあります。
これが「500円ちょうだい」だといきなり、使われている、たかられている、大切にされていない、感じがする不思議さ…。

お金にまつわる思いや思い出、信念などなど、奥深いものがあります…。


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