桜の黄昏

2020・12・13
 僕には目的があり、やらなければならないことがあるので自殺はしません。夢などというものに踊らされません。全ては真実であり自然であり、美しく平和で保たれるべきなのです。わからないのではありません。わからなくなる仕組みなのです。争う人間もいます。それと対峙する為に学をつけてきたのです。底から生まれたそれを利用されて今日があるのです。その方達に感謝するのであれば見なければいけません。その方達の目にならなければいけません。見て感じ伝え想い続けてください。自然と行動になり結果になります。それが違うと思うのであればまたやり直してください。何回も何回もそれをやり続けて、そして誰かを想って進み続けて創造していくのです。右左だとか白黒だとかに踊らされてはいけません。数字に侵食されてはいけません。具体性に並行してはいけません。五感を屈指して、六感、七感、八感、九感まで解放していき、抽象を楽しみ身を委ねる必要性を見つけ出し自らを創造していってください。
 あなただけの僕でいさせてください。感じてもらえたならそれが本望です。


 十九時。
 みんなが家路につく頃、僕は公園の木の上でみんなを眺めていた。みんなが見えなくなると目を瞑り、僅かに聞こえるはしゃぎ声が聞こえなくなるまで、穏やかに安らかに黄昏と出会う準備を始める。黄昏は今日もお疲れ様と僕に安らぎを与えてくれた。
 目を開く。枝葉の背後に広がる夜と、星々の煌めきが僕の話し相手だった。今日はどんな一日だったのか、楽しかったのか苦しかったのか、みんなと仲良くできたのか新しい出会いはあったのか、笑みを浮かべて問いかけてくる貴方との時間が大好きだった。僕の家には門限があったから、十五分程の会話を交わして、又明日と別れを告げて僕は家に帰りました。
 帰り道。静けさの中とぼとぼ歩く僕の心には淋しさを埋めるように貴方がいてくれた。家や学校では常に誰かしらが居るのに僕は常に孤独感を抱くのだ。混ざれない。混ざる前に見てしまう。飛び込めずに止まってしまう。心が稼働せずまるで歯車の間にゴム板のようなものが詰まっていて、ギシギシギシギシと進めず悶えているような感覚。初めはそれが嫌で嫌で苦しくてなんとか無理矢理にでも歯車を回そうと試みていたが、今はもうそれで良いのだと思うようになっていた。ただそのゴム板が外れる唯一の時間が貴方との、黄昏時のあの空白だった。
 今はもうそれで良いのだと、僕はそれで良いのだと、考えずに固まり続けて居ようと止まったのは貴方のお陰なのかもしれません。毎日の十五分程しかない僕の喜びを僕はいつしかもっと欲しくなってしまって、だけど時間の有限性には到底抗うこともできなくて、貴方はいつも優しくて暖かくて哀しくて、僕を虜にしてしまった。僕はいつの間にか貴方の魅力の捕虜となっていた。捕虜となり窮屈さと退屈に苛まれ始めて、石壁と石壁の隙間からこちらにふき抜ける風の方へと向かうことにしたのです。
 今はもうそれで良いのだと、このままで良いから混ざってみようと、霧がかりの旅路の途中で僕は沢山の処世術を学びながらひたすらに歩み続けた。呑まれる前に笑い飛ばし寄りかかられる前に離れてしまえば良い。できあがる前に壊してしまえば何も問題は完成しない。先の見えない真っ平らな砂利道を這い蹲りながらも俺は俺だけの今へと辿り着いた。ボロボロと削れ落ちた記憶と何も見えない今へと。手がかりと言えば、ぶくぶく育ち肥えた癇癪と曖昧な生命力。人見知り故の洞察力と執着がましい想像力。厚化粧なピエロ。生かすも殺すも自由な僕だけの世界。目を合わせられない鏡の中の誰か。今僕が所有する醜悪な表層が唯一の手がかりだろう。
 僕は一体誰だ。心の高揚を探している。それを探している時は僕自身になれている気がした。旅は内側へ内側へと潜り手探りしながら自分探しに溺れていた。風の入り口を渇望している。この温く淡く焦ったい風が煩わしくて、風穴を塞ぎたくて、会いたくて、そんなことをしながら僕は夢想に耽る十代を終わらせた。
 ここはどこだろうか。静けさを手にするにはまだまだ未熟な僕だった。一人が怖かった。だからよく眠る。死にきれないことだけはわかった。それならば、生きるのならば僕は僕を愛したかった。自己愛を育み生きていこうと。今はまだ愛しきれないけど、愛でながら楽しもうと。
 しかし霧がかりの世界での一人遊びは意外にも早く限界を迎えた。脱力が訪れ視線が土へと這いつくばる。背中が丸まり首が痛む。何かに寄り掛かりたくて虚ろな意識に呑まれながらも手探り求める。ザラザラとしたものに触れる。瞬間気持ちが悪く手を離したがそんなことを思っても身体はそれを求めてしまう。僕はそのザラザラしたものに凭れ掛かり背中を預けた。
 頭を上げる。首が座り空を見上げた。どんよりとした灰色の世界。無音。今僕は瞬きをした。みつめる。悠々自適に流れる心が無二無三に幸福を探し求めて寒気を切り裂く。渦巻く世界と捻れる思い出。吐き気に泣かされながらも向かうべき場所がぼんやりと姿を見せ始めた。重ねた思い出の一つを捲り、なぞり眺める。

 全くもって幸せではない。こうして筆を走らせなければ心を保つことができない。普段は換気扇の下で吸う煙草も今はこの日記と向き合いながら吸うことを僕は許しています。
 難しい。只々難しい。好きになればなるほど苦しくなる。好きになればなるほど離れて行く。こんな陳腐な台詞を自分が言うとは思いもしなかった。近づけば近づく程に困難になっていく。君は僕のことをごく稀に好きだと言ってくれる。だからこそ尚更その言葉をその時は信用してしまう。そして幸福らしき幻想の中で僕は君の温もりを感じながら前を向いて歩き出すことができた。
 しかし今は嵐だ。息もできない嵐だ。冷たくて寒くて鼻風邪を起こし吐き気がする。心地よく鳴いていた鳥たちもどこかへ隠れてしまった。僕にも隠れる場所が欲しいがそんな場所はどこにもない。このまま発熱し倒れることができたらどんなに楽なことか。くたばりかけの精神は悶えながら倒れて楽をしている。ただの身体だけが行き場を失い停滞している。そして朝が来ることが嫌で嫌でしょうがない。
 辛い。苦しい。わからない。こんなに女々しくてだらしなくて先に進まず立ちすくむ僕を、僕は君に気づかれたくない。だって君は離れて行くでしょう。君はいとも簡単に僕との繋がりを断ち切るでしょう。君の瞳は輝いている。どんな時も輝いている。未来は明るいと信じている瞳だ。君の内に向けるその眼差しは輝きを放っている。その輝きにより心は育ち、君は君の中の、そのまだ小さい芽吹きを一生懸命育てている。周りなどには目もくれず。
 僕は真っ暗な斧を持ち、君が大事に育てているその木を薙ぎ倒したい。だけど僕はその木の前に行くことすらできない。なぜなら君の周りには、美しい泉が護るように流れていて、小鳥やあめんぼ、小さな蝶や蜜蜂たちが、目もくれないあなたと共に生きているのです。僕はその平和を崩すことができずに、ただじっと眺めて魅了されてしまう。君の前では善人にも悪人にもなることができず、ただひたすら孤独と対峙するだけ。
 もしいつか僕が、孤独から逃げ出すことができ一人で旅に出られたら、僕はやっとあなたから立ち去ることができるのでしょうね。あなたは決して目もくれず。大災害が起きればいいのに。

 これではない。こんなのは最近の記憶だ。遅かれ早かれこうなることはわかっていたようなことをべらべらべらべらと語り尽くしている。 僕の根はもっと乱れている。蔓のように渦巻きながら心臓を覆っている。その証拠としてなにか提示してみろと言われたら困るが、言葉を信じてもらえるとしたら僕は自由の記憶を持ち合わせていない。なにも提示できない、ただ手元に無い。それが俺の証拠だよ。だから俺はページを捲れる。手元に無いから探すことができる。渇望に渇望を重ねて強欲に何もかも食い尽くし呑み込み当たり一面を野晒しにしてやる。
 夢もなく希望など知らず一人称も定まらず帰る場所も無く、脚は何も支えられずにぷかぷかと浮遊しながら獲物を探している。見つけたとしても僕は翼を持ち合わせていないので、鷹のように素早く鋭く刺すことはできないから、ゆっくりと降下しながら一度地上に降り立ち背後から襲うのが俺のやり方だ。
 前ばかり見やがって誰も僕には気づかない。幸せな奴等だよ。背後から忍び襲うことを卑怯者と言うのかい?ならば問おう。なぜ背後を気にしない。なぜそんなに堂々と前へ焦点を定めて歩き続けることができる。それは君が大地に愛されて地に足をつくことを許されて真っ直ぐ立つことができて夢と希望に心躍らせながら望む未来へと突き進むことができるからだ。
 幸せな奴等だ。馬鹿の一つ覚えのようにケラケラと笑顔ばら撒いて背後も頭上も気にせずに我儘にあるがままに突き進み、時にたまたま居合わせた人間を同志だ仲間だ親友だのとほざきながら横並びに道を塞ぎながら唾を飛ばしながら進み続ける。
 目障りこの上ない群衆が。お前らはそうやって生きていける。それを許されたお前らは果たして卑怯者とは言わないがあまりにも不公平だとは思わないか?別に不公平を嘆いているわけではない。生きることは不公平な道のりばかりなことくらい理解している。だから俺はその道のりの道中でお前らを見つけると嫌気がさす。俺の近くを歩くな石ころが。石ころを蹴り飛ばして何が悪い。君たちもお構いなしに無自覚に蹴散らしながら進み続けているじゃないか。
 お前らは何を見てるんだ?なぜそんなに前を向けるんだ?前を向くしかない程の絶望を味わったのか?そんなはずはない。絶望を知る眼差しを俺は知っている。侘しい呻き笑いと快楽で穴埋めした笑顔の奥の、禍々しく蠢めく深い紫を。ヘドロが停滞したダムの中を写し出した瞳の景色を俺は知っている。心と言葉が擦り切れる音。淋しく項垂れて丸くなり絶望と添い寝する夜を知っている。まるで真理を見ている君達は何を知っているんだ。突き進む君達は何が見えていてどこへ向かうのだ。俺は問いかける術を知らずに眺めるばかりだ。
 お前らは卑怯者だろう。他人の主観まで指図できないだろう。自我が主観を創り出し、主観が世界を映し出す。僕はフィルムを保持しているのです。僕だけのフィルム。僕だけの物語を知らしめなければ、僕は私を知り得ない。貴方達は私を形成する為に必要な大事な大事な素材なのです。ありがとうございます。
 またいつかどこかで。僕は頂きを目指します。そして詩を書き続けましょう。


 夢に焦がれた。
 夢想に溺れた。
 好きは募り積もって虚栄心はすくすく育ち、誰も寄せ付けぬ極寒の頂上へ。好きは溶けぬ雪のように妄想は吹雪の如く、誰も寄せ付けぬ極寒の大地へ。
 空気は薄く、脳は酔いしれ、孤独をツマミに淡々と。思い思へば酒には呑まれず、みるみる濃くなる熱と隈。
 眼差しは未来へと駆け巡り、悠々自適に流れる龍と戯れながら飛んでいく。眼差しは遥か遠くへ、水平線を超えてゆく。
 羨望していた景色は幻想となり、憂いが虚無へと行き止まる。
 真っ白な空ばかりを見ていたんだ。
 通り過ぎた者、引き返した者、恐らく僕に呼びかけていた者。僕の周りには彼等の、彼女達の足跡が残っていた。知り得ない過去の経過をなけなしの後悔でなぞりながら、山を下ることにしました。

 どこでもいいからつれてって


 晩秋。
 逆転する四季の流転。
 たかが孤独に目もくれず、湿った紅葉に足を取られぬように自分の足で下山する。
 彷徨い辿り着いた山の頂で、僕は確かに龍を見たんだ。産まれ落ちたその土地で、僕は夜もすがら夢と戯れていた。寒空の中で、彼に必死にしがみつき確かな温もりを感じたことを憶えている。寒気を切り裂き雲を退け、青天の海空を突き進むあの光景を確かに憶えているんだ。
 自由。これが自由だと知り、心が激しく高揚した俺は必死にしがみついた。爪を立てて首を締め付け髭を掴み角まで握り締めたのだ。暴れるように唸りをあげて津波のように激流していく。
 このまま彼と一緒に行けるのならば、俺はどこまでも遠くの、誰も寄せ付けぬ頂へと逃避行できる。俺だけの世界がもうすぐ手に入る。俺はその世界で只々孤独を満喫するのだ。社会も時間も存在しない世界で、俺は孤独と共に、影と共に悠々自適に暮らすのだろう。
 どんな世界なのかはまだ知らないが、海は近くにあってほしい。その浜辺で肌触り程度の音楽と、かつて皆に混ざり造れなかった砂の城を、遅れを取り戻すようにせっせと造るのだ。
 その城には風がよく通れる窓がニつと、華奢な玄関にスミレの花を咲かせましょう。決して大きい城ではなく、素朴で頑丈で凛とした城。安息の地で、鳩の休息地点で、俺は自由に生きていく。大自然の循環に清く正しく適応しながら一日一日を確実に終えて、やがて海へと還るんだ。夢に焦がれた。
 その刹那。龍は突如小刻みに震えながら渦を巻き上昇していき、蒸発する程の熱気を放ち始めた。表情は見えないが憤慨していることだけはよくわかった。怒り狂った彼の動向に耐えきれなくなった僕の握力は緩み、両の手はするりと彼から離れてしまった。僕は何度も空を切り裂くように縋るようにジタバタとしながらも、確実に離れて行く彼を目の当たりにするのであった。
 落ちたのだ。また落ちてしまったのだ。痛みは無い。粘着質な絶望にゆったりと包まれる。 時の流れの浸透をできる限りの言い訳を持って、世界からの拒絶にできる限りの防衛を備えて、僕はここに堕ちたのだ。
 先程の青天は何処へやら。脂っこい湿気と歯痒い小雨が真っ直ぐに降り注ぎ、風が無く土臭い今へと堕ちたのだ。
 そして彼とは誰なのか。戯れとは。何を、何処を指していたのか。何処とは。僕は海空を泳いでいたのか。溺れていたのか。尽きぬ疑問は徐々に徐々に諦めへと導かれて、僕の世界への好奇心は探究心を沿いながらも一時的な終わりを迎えたのだ。
 暮れてた途方は閉じてゆく。白が濁る。灰色が空を満たしている。

 低気圧か。耳鳴りと頭痛が酷く目眩がする。目的地など見当もつかず向かっている先など分かりもしないが山を下っている。今はただ、このまま前のめりに倒れてしまわないように出せる限りの力を脚に込めて、踏ん張りながら山を下る。自分がよろめく度に倒れてしまうのではないかと怯えて、それでもなお足を運び下って行く。
 いつの日か思い描いた安息の地への執着なのか。自分の居場所はこうでなければいけないという思い込みなのか、理想を追い続ける自分自身への依存から私は推進力を得て前進しているとみえる。依存心は自分の都合の良い取捨選択を続けて、理想を這いつくばり可能性を歪ませ醜く畝りながら私の首を絞め、遂には口の中から内臓にまでも侵攻するのだ。
 そこまでして辿り着かなくてはならない場所なのか。呼吸は難しくなるばかりで酸素は回らず脳は徐々に真空へと近づき酷く窮屈で今など忘れ主観がぼんやりと濁り自我は透明になっていく。
 背後の気配。忘却の空。これまでの乱雑な過去が、感情が、歴史が、心が、血相を変えて鬼となり、我を睨みカチカチと歯を鳴らし鳴きながら訴え続けるのだ。
 我思う故に鬼はあり。追いかけられている。聞こえない聞こえないと耳を塞ぎ目を瞑り、一息をも漏らさずに逃げ惑い続けた。
 その時、何かが脚を掬い僕は転んでしまった。手をつき再び起きあがろうとしたら既に、カチカチカチカチと、もう僕の真上に佇んでいるのであろう影と音と雨ではない、とろみのある生温かい雫が僕の首筋に滴り落ちてきていた。喰われると思った僕は意を決する暇もなく反射的に、咄嗟に後退りのできるような体制をとりながら振り返ったのだ。
 鬼はすぐ目の前。こちらを見下している。鳴き声は変わらずに、形相どこか侘しくただこちらを見下ろしている。
 鬼はふらふらとそのまま倒れてしまった。僕は下敷きになった。鬼は熱を帯びていた。消えそうに眠るのだ。酷く疲れているのだろうか、脱力しきり眠るのだが重さはなく僕の胸の上ですやすやと眠る。
 生い茂る樹木の中で僕も疲れていたのだろうか、そのまま眠りの中へ吸い込まれた。そして夢の中で僕は鬼と対話する。
 「忙しなく、まるで永遠の課題かの様に、あれこれ色々試すから、君は心が疲弊するのだよ。肉体が心を置いて行き、君は無理に社会に馴染もうとする。置いてけぼりの心は今この瞬間に刻々と腐り始めている。それはもう悲惨だよ。蝿もたかり蛆まで湧いている。その姿に君は目を背ける筈だ。なぜならば、君は肉体の可能性を未だに信じている。回れ右をした君は、背後に魂を隠し始めた。物質に魂の住処を移行した君は、終わりなき旅に、そして満たされることのない愛に向かっていく。陸のない海。収束の知らぬ無限。止まらない涙。絶望の甘美にすら君は依存していくだろう。行ける者ならば行けば良い。君の頭上を飛び回る鳥のように。君の頭上を泳ぐ鯨のように。突き進む自由な夢のように。いつしか戯れた龍のように。行けるのならば行けば良い。有限を知らぬ者よ。見ぬ者よ。君が志した生き場所は、こんなにも無理難題な、こんなにも自傷的な世界だと。これらを可能にする善悪を君は必要とするのかい。君は真理を知っている。僕の様な一人ぼっちではないだろう。抗えない愛の行き止まりも知っている。君だけのものは君だけのものではなくなる。その辛さを知っているから、君は理から離脱した。それもわかるよ僕ならば。君は実に苦しそうだ。君の喉の詰まりの正体を僕は教えてあげるよ。それはそれは巨大な蛇さ。君を蝕むその蛇は、君の内臓を食い散らかした矢先に他の肉体へと移行する。そんな無責任な寄生獣を君が所有する必要はない。孤独の奴隷よ。首輪の代わりに蛇を飼う無様な者よ。僕の眼を見てください。あなたの姿に耐えられません。けど僕は離れません。あなたのその喉奥に住み着く蛇を、もうすでに口元から溢れ出る頭を、今すぐ噛みちぎれと伝えるまで、僕は君の瞳を待っています」鬼は僕にそう告げた。
 僕は応えた。
 「背後にある魂よ。泣き叫ぶ我が子よ。僕はようやく君に眼を向けた。君はとても疲れている。そして酷く汚れている。蝿もたかり蛆まで湧いている。しかし懸命に生きている。今までごめんと言う僕を責め立てて欲しいが、君は実に寛容で、僕の帰還を喜んでくれている。ありがとう。ありがとう。ありがとう。罪滅ぼしなどと言う侮辱的な行為ではなく、僕は君が教えてくれたただ無償の眼差しを優しく包み込み抱きながら、君の無償の結晶を拭い取ります。美しい我が子よ。こんなにも純粋で希望に満ち溢れる眼を僕はこれまで見たことがない。初めは眠ることに恐怖を覚えた僕だったが、あなたを感じること、温もりに触れることで僕は眠りを知れた。そしてその博愛な瞳に疑問を抱いていた狼も、包まれ沈み、熟睡を手に入れました。ありがとう」おやすみなさい。


 鳥の鳴き声。ゆっくりと眼を開ける。
 僕は胸に手をあてる。鬼はいない。朝を迎えた。虚ろな記憶と馴染んでいく思い出。目を閉じ感じる神の抱擁を。
 歩かなければ。進まなければ。僕はとても大切で大事な人と一緒にいる。その人は確実に山を下ることを願っている。僕は立ち上がった。
 太陽が目の前に昇る。とても眩しくて直視することはできないが、それでも全てを見てみたかった。早くこの山を下り、生い茂る木々を退けて太陽の全容を感じてみたいと思った。踏み出した右足がとても軽かった。
 その時、右足の踝辺りを何かに噛みつかれたかのような痛みが走った。同時に裾から何者かがするりと抜けていき茂みの中へと消えた。呆気に取られて虚空を見つめながらも確かにある痛みが身体に溶けてゆく。僕は歩みを進めた。
 今日はとても暖かい。快晴というものを忘れていたが久しぶりに肌で感じると良いものだな。昨晩も久しぶりに眠りにつけたがここまで次の日が清々しいものだとは知らなかった。鳥が小気味よく鳴いている。欠伸を誘う長閑な時の流れに身を任せて軽快に山を下りれている。目を擦ると目の下から頬にかけて皮膚がカピカピに乾いていた。泣いていたのだろうか。しかし哀しみはもう憶えておらず感傷に浸る術もないので、乾ききった涙の痕跡は山に捨てて歩こうか。
 何故だかわからないが楽しみなのだ。何が楽しみなのかわからないが向かいたいのだ。どこへ向かう。わからないが行きたいんだ。山の麓へ向かうのだ。君は登りたいのだろう。ここから抜け出して別の頂きを見たいのだろう。僕が君の手となり足となり、共に歩き続けようね。
 素晴らしき時間素晴らしき人生。何をもって素晴らしいのか。それはきっと気づきであり発見だろう。こんなに沢山の宝が僕の周りには溢れていた。灯台下暗しとは正しく己自身なのだ。あとは分け与えそして受け止めてまた与え受けての循環に乗るだけではないか。
 簡単には言うものの。
 いや簡単なことなんだよ。
 僕もその輪に加わるのかい。
 そうさそれしか麓へは行けないよ。
 ああ、わかってるさ。
 下を向くな吐くなため息。食いしばってはにかんで空を見るんだよ。美しさはもうすぐさ。
 僕は語りながら無心に足をすすめる。
 美しさ。美しいとはなんだろうか。長らく人と語らうこともなかったからわからなくなっていた。しかし、人がいなければわからない美しさなど幻想に過ぎないのではないだろうか。寄せ集めの価値観が一体僕に何を与えたのか。安らぎか、喜びか、幸福か。世の中は、押し付けがましい同調圧力の刀を色の無い瞳でこちらを覗きながらゆっくりと僕の目玉を刺していく。刃は壁まで突き当たり、僕は身動きも取れず痛いと叫んで良いのかも分からず見せ物になり、諦めた途端にケラケラと嘲笑れた。僕は荒唐無稽だったのだ。悲観的なエゴイストだと言うのかい。仕方がないさ。僕のエゴはずっと一人ぼっちだったから、やっと語り合えたのだから、この子と向き合い語らい笑って泣いて眠るのさ。
 今はまだわからないけどいつかわかる気がする。美しさ。包まれてみたいものだ。

 躓きながらも下っていた道のりも今や平然と進めている。険しかった道のりも慣れてしまえば問題にもならない。
 問題と定義するのは常に孤独を逸脱した一人からの世界でしかなくて、その世界とは一人が映し出す主観でしかなくて、孤独と真正面から向き合い和解と反発を繰り返して自分の足で歩み疲れを得て癒やしての繰り返しの中で探求し続ける。自分が変われば問題も先へと進めるのだ。孤独そのものが前進すれば世界は変わるのだ。自由から身勝手を覚えて、身勝手が規律を創り、規律を知り得た我が子はまた新たな自由へと旅に出る。自分の脚で進むことによって過去の自分が問題だと思っていた根元事象と向き合うことができる。変わらなければという義務感ではなく変わらなければ駄目だと自分で気づくこと。変わると決意すること。変わりたいと思えること。発見すること。周りは手掛かりのみを提示するばかりで変わるにはやはり己の意志が必要不可欠なのだ。
 自由は快楽へ向かい、自由意志はケラクを求める。
 快楽的人生を選択してはならぬ。快楽に先導されてはならぬ。肉体が精神を先導してはならぬ。肉体には欲が付き物だ。欲など初速で十分なのだ。精神が肉を引き摺りながらでも先導し続ける。でなければいずれ快楽に飲み込まれる。煩悩が煩悩を呼び我が子を犠牲者にする。煩悩からの解放。ケラク。そこを目指す。その為には意志が必要不可欠である。主導権は肉体ではなく精神へと。じゃ精神に欲はないのかと君は問う。無いさ。あるのは愛と夢と自由だよ。
 俺の意志は、思いは、憂い侘しく海へと流れて世界へと流れゆく。あとは己の身だけではないか。やっと分かり合えた我が子が望んでいるその景色を共に眺めに歩み進もうではないか。
 海だ。俺は知っていた。憶えていた。いつの日か、両親と両親の仲間達に混じりながら交わした幸福を知っているではないか。浜辺でバーベキューをしながらみんなは飲んで食べて僕は父に抱かれながら海へと放り込まれる。恐れはなく僕はされるがまま飛び込めた。それは父への絶対的な信用そして絶対的な愛で精神の繋がりだ。俺は父を知っているじゃないか。親父。俺はどうしようもなくあんたが好きだ。純粋無垢に俺を愛してくれた。連れ子な俺をとことん愛してくれた。愛に有償も無償もないだろう。
 俺は、俺は。ごめん。知っていたからわからなかった。隠れていた。それ程にあなたの愛は無限に僕を覆ってくれていた。次は僕の番だ。あなたの全身全霊を僕は引き受けた。僕は登る。そして上る。山を越えて雲を越えて愛の輪を広げて伝えていく。だから見ててくれ、俺は突き進むから。己を愛して家族を愛する。何事も手前からだ。夢は純粋意識故に自由だ。ただ僕にとっての一番の肥料は夢ではなく愛そのものなんだよ。
 雲が切り開く。僕は包まれている。こんなにも未来が楽しみで明日が待ち遠しくて一日を確実に終えることができるとは思ってもいなかった。二十五年越しの事実を、俺は愛せる程に愛を貰っていました。貰いすぎて、愛はいつの間にか過剰な肥料となり、訳もわからないまま頂戴して、母は木陰を創れる程の木々を育て、僕は太陽を浴びれずにぶくぶくと栄養過多に育ち、情報にまみれ呑まれ理屈を捏ねることで発散していた。教科書。猿の真似事。世間体。普通。そんなものばかりに目を逸らし、知り得なかった豊かな和みから逸脱しながら呼吸をしながら惰性を満喫していた。
 だけどねお父さん、微かな言い訳をさせてください。最初で最後の反抗をさせてください。親父の言葉一つ一つが世間だった。僕はここにいるのに遠くを眺めて夢に放り込んだ。僕は自由なはずなのに、どこかに翼を置いてきていることに薄々気づいていた。僕は薄々気づいてはいたんだ。自分の始まりを求めていた。探していたが放り込まれてしまい、橋は壊され道は無くて立ち止まり僕は不自由に苛立っていたのだ。手当たり次第に探し続けて気がつけば極寒の頂上へ辿り着いた。
 あるべき道を進むこともできた。なんならその気だったのだが。父よ。貴方はあの時の僕のあるべき道を進ませてはくれなかった。家業を継ぎたいと願い父の背中を追っかけたくて只々貴方に追いつきたくて越えたくて。けど今なら少しだけわかる気がするんだ。僕は父じゃないからわからないけど、僕に自由を見せてあげたかったのかななんて思ったりもするよ。夢に放り込んでくれてありがとう。僕は何も怖くなかったよ。僕はお父さんが大好きだから。
 僕は放り込まれたその先で龍を見たんだ。気高く逞しく美しく一気に魅了されて、僕も一緒に青天の海空を泳ぎたくなった。だけど僕には翼がない。どうしてこんなにうまくいかないんだろうか。やっと出会えたのに目の前にいるのに、僕の手は雲すら掴めない。
 悠々自適に流れていく。虚無に包まれ酒に呑まれて夢想に溺れて、吹雪の如き妄想の中で胡座をかいて斜に構えて嘲り罵り目は血走り言葉を重ねに重ねて。
 初めて鏡を見た猿が一生懸命その鏡に話しかけてるけど話が成立しなくて、苛立ちをぶつけるもそれも全部自分に返ってくる猿回し状態に陥り、気づけば話にならぬ現状に対峙するのも馬鹿らしくて笑うことを選択し逃げて逃げて涙が溢れて苦しくて笑うしかなくて、僕は僕だけの楽と手を繋ぐ。世界は籠り灰色に、音も匂いも色もない世界。全く唆られずに触れたいとか味見したいとも思わない。だけど只々温もりだけは探している。いつしかの記憶で触れた温もりを俺は探している。

 夢想に耽る。
 青い夜。星も無く月も見当たらない。たまにはこういう日もある。僕は瞳を閉じる。
 書きたい。表したい。生きた心地がしないんだ。痛みは治るけどもひたすらにやるせなくて苦しい。痛みなど沢山寄越してもらって構わないから僕はこの苦しみの正体との出会いを渇望します。
 自由意志を投げ出さずに良かった。何が苦しいかと聞かれたら、それは揺れながらもその場に留まり続けることだろう。綱渡りの最中歩みを止めてからが怖くて苦しくて逃げたくて、その停滞から最早このまま堕ちてしまった方が楽だとすら思えてくる。先は見えないが足元位を照らす光があるならば、つべこべ言わずに進むべきなんだ。その光すらもないと言うのならば足元を視認できるように暗闇と混じり合いゆっくりでも良いから確実に一歩一歩踏み出して行け。その綱は必ず世界と繋がっていて貴方を眺めて待つ者達のところへいずれ辿り着けるのさ。君の意志がある限り。神は実に単純で真実はいつも側にあるのだから。
 真っ暗な世界を眺めている。存在していると実感できる世界にいる。しかし今自分がどの様な姿でいるのかどのような顔でどのような感情を持ち合わせているのか分からずにいる。どこを見ているのか、前か後ろか、そもそも前とは何処を指すのか。高さはどうだ、高さがわかれば自分が立っているのか座っているのかわかる気もするが感覚が無くあるのは意識だけなのだ。そもそも僕に目はあるのか。肉体は。僕とは。恐怖心は無いのだが気持ちが悪く居心地も悪いのはわかるのだが、心が著しく乏しい状態であるのがわかる。
 よく婆ちゃんが片足はもう棺桶に突っ込んでいると言っていた。今の僕の意識は棺桶の中で彷徨っている。善悪も無く酸いも甘いも何もなく右左前後上下の概念すらもない世界。どれだけ自分は指標によって生かされていたのかを身に染みて痛感した。
 痛感。痛みは知っているのか俺は。そしてここは暗闇。光も知っているのだな。なんだやっぱり此処は棺桶ではない。少なくとも意識だけが棺桶へと入り流れていき感覚は僕としてここにいるんだ。存在している。
 呼ばれる。いや、呼ばれていたのだろう。呼ばれている方を見る。後ろを振り返る。後ろがあったことに少し感動する。
 「すみません。全然気づかなくて。存在できてようやく聞こえました貴方の呼びかけが。しかしどうやって僕を呼んだのですか?何となく呼ばれたことはわかったので現に今こうやって振り返り貴方の方へ意識を向けているのですがなぜ僕は、
ああ、だめだ言葉は詰まる。言葉が、詰まるかな?言葉は難しいですね。そもそも僕は意識を持ち合わせていなかったようで、感覚だけで貴方の呼びかけを感じ意識が生まれ存在できたようです。恐縮なのですが、どうかなんでも良いので何か応えてください。何でもいいので。とにかく今は貴方に返答してもらいたい。じゃないと僕はここに居れない気がするんです。せっかくならまだここにいたいから。それにしてもしかし、貴方は何と僕を呼びましたか?僕を、呼びましたよね?」
 何も返ってこない。耳を澄ますと尚更何も返ってこない。溜め息溢れて目頭が熱くなる。確かにここにいる筈なのに、僕も貴方もいる筈なのに、貴方が呼び僕は呼ばれてこうして出逢えた筈なのに、貴方はもうそこにはいないみたいだ。存在している僕はもっともっと明確に明瞭に明快に存在を存在とたらしめて僕を明るみに晒したいのに、これではもう何処にも行けずに何者にもなれないよ。
 目頭を摘み涙を止める。泣くなんて卑怯だと言われている。だけど涙は出てくるから止めようにも止まらないんだ。指をつたって手首を通過して腕まで濡らしていく。このままでは下へ落ちてしまう。涙は僕だけの物にしとかないとまた卑怯だと言われてしまうから、滴り流れる雫を左手で堰き止める。だけど。止まらないなあ。どうしたものだろうか。疲れてしまうよ本当に生きるということは。
 堰き止めきれずに落ちる涙。僕は諦めて脱力する。滴り落ちて地面で弾ける。地面てこんなに遠くにあるんだ。僕は浮いている。そして下は向こうらしい。とりあえず下へと降ろうか。地に足をつけてみようか。天孫降臨とはこのことか。何を言ってるんだ俺は。
 降りてゆく。暗闇の中を降りてゆく。降りながらの最中、懐かしい視線を感じた。辺りを見廻す。キラキラと輝く星々が僕に囁く。
 誰一人としていらない人間なんていないのではなくて、いるいらないとかの物差しの中で生きるべきではない。その指標の元で思考が加速すればする程、自分なんていらないとなる。それはそうだよ。自分ってのは一人で一人ということは他人が二人から何十億といるわけだから、悩みもそれなりにあるわけだ。まずそんな概念を捨てて、生きてる意味なんて言う褒美は死ぬ時まで取っといて、今やるべきことをやればいいし、それがないならそのままでいいし、駄目だと思ったら動き出せばいいし、駄目だとならないならそのままでいい。自ずと時の流れに触発されて出会った発見を大事に、それに感動して感謝して、次へ次へと自分の脚で進めばいい。たまには振り返ってもいいと思うよ。振り返れないならそのまま行けばいい。自由であるがままな大地に足をついて目で見て聞いて香って触れて生きて感じて行けばいい。いつのまにか自分は貴方で貴方は自由で自由は自分で、無限の悩みに嘆いていた一人は無限の住人で、輪になって踊れなくても和になって循環してるから君は一人じゃないよ。
 君はね。只々孤独なだけなんだよ。孤独は絶対的だよ。普遍的で観念だよ。産まれ落ちたその日からもう孤独なんだよ。逃げるとか無理だよ。時間と同じ。神様だよ。めんどくさいよね。頼んで産まれてきてもないのになんでこんなに苦しまなければいけないのかわからないよね。けど逃げられないんだよ。じゃ死のうかなって思うよね。死ねるなら終わりだよ。全うしたと思うよ。全うしたから死ねると思う。ただ全うを狭めて死に急ぐのは不自然だよ。まぁそれで納得なら良いんだけどね。君が決めたことは正しいよ。君を全肯定するよ。君の苦悩は正しいよ。死ぬのもしょうがないね。僕は君の味方だよ。
 生温く無償な正体。これが孤独の正体だよ。孤独に従うな。孤独に呑まれるな。孤独に預けるな魂を。孤独は常に味方でいてくれる。その性質を認識するべきだ。人間は認識されて初めて人間になれる。認識されなければ物体でしかない。街中で無心に働く物体はこちらが避けるしかない。認識とは相互意識によって成立する対立。その対立によって人は思考する。君が辺りを見廻し認識してくれたお陰で星々は煌めき輝いている。孤独も同じだよ。人間が孤独であるように、孤独は人間そのものだから。孤独との向き合い方に努めることで自分という1人の概念からの一時離脱ができる。無限の歯車の核が孤独なのです。頼んで産まれてきていない。自分の意思で産まれてきたのだと、そう思える時は必ずくる。あなたが望めば世界は輝き動きだす。
 数多の星々の数多の見識。囁きを浴びながら、深くどこかへ沈み落ちる。星々の煌めきが僕を照らしてくれている。


 香りがした。好きな香りだ。好きという言葉と久しぶりに出会えた気がする。僕にも好きがあったんだ。
 昨日はとても長い夢を見ていた気がする。夢の中で僕は懐かしい人と会った気もする。会話をしたのか何をしたのか。ぼんやりと記憶の靄を見つめていると、好きな香りが流れてきた。
 そうだ僕はこの香りで目を覚ましたのだ。香りがする方へと視線を移すと、そこには集落があった。
 ああ、遂にここまで来れたのか。ずっと山に篭っていたからか、立ち並ぶ家々がとても可笑しく奇妙に見えた。あの中で、人々が笑って泣いて悔やんで怒って罵り合って支え合っているのだろう。どんなものだったか家族というものは。友人や恋人や人間はどんな生き物だったか。僕は集落に足を踏み入れた。
 なんて正気のない村だろうか。静寂と風の音だけがこの村を形作っている。人の気配はなく動物もいない。あるのは自分の期待だけだった。なんだこんなものか。久しぶりに見てみたかったのだがないものはしょうがない。とにかく喉が渇いていたから水源を探すことにした。
 本当に誰もいないのだろうか。砂利道を歩き進む自分の足音がいやに響く。悪いことをしてはいないが、もし誰かが見ていたら僕のことをどう思うのだろうか。見知らぬ男が不気味に村へと侵入してきたと思われるのではないかと思うと誰かに見られているような気がしてくる。
 なんてことはないよ、誰かに出会ったらまずは挨拶をするんだ。こんにちは、はじめまして、道に迷ってしまいましてここに辿り着きました。僕の名前は。名前は。まだありませんが、怪しいものではありません。だからどうかそのような眼で私を見るのはやめてください。僕がなにかをしたのなら謝りますが、僕は貴方達と変わらず只々生まれ落ちてしまったが為に呼吸する為の酸素を求めて生き永らえる術を探している旅人じゃありませんか。貴方はもう旅は終わったのですか?それとも初めから旅などせずとも許しを得た特別な方達ですか?それならば私は何者なのでしょうか。旅という概念のない貴方達から見たら、私は浮浪者のような者でしょうか。そうだとしたら私は、そんな私は、私を、愛することができません。だから、僕は貴方達が、大嫌いだ。殺してやりたいとさえ思えてくるよ。もっと普通な眼で僕を捉えてよ。僕も仲間に入れてほしい。僕には一体何が足りないの。知ってるのならば教えてほしいよ。
 使い古された井戸の中から水を掬う。水鏡に写る僕の瞳は、誰かを求める赤子そのものだった。
 水を飲む。ざらざらとした水。少し臭う。だけど飲まなければ生きてはいけない。喉を通る。腹に溜まっていく。
「ああ、 美味い」
 自然と声が溢れ出た。
 好きな香りがした。香りの在処を探しに行く。
 歩き続けていると、聞き馴染みのある音と流れる空気の変容を感じた。懐かしさに縋るように僕は音のする方へと向かう。歩く速度が速くなる。砂利道を外れて道なき道に突き当たる。無理やり足を踏み入れて茂みを掻き分けて進んで行く。草木の棘が身体と顔中に刺さり痛みと痒みはあるのだが気にする暇なんてなくて、ただこの茂みを抜け出して音のする方へと向かっていく。音が徐々に大きくなり始める。光が見える。高揚が心からくるものだとわかる程の律動が身体中に響き渡る。掻き分けながら進み続ける。
 切り抜けると、一つの川が流れていた。懐かしさの正体はこの川の音だった。さらさらと流れる水。さらさらという音を知っている。さらさらと、清らかに、美しく。流れに流れる数多の水が、果ての見えない世界へと流れてゆく。気持ちよさそうに朗らかに、運命と共鳴している。この仲睦まじい光景を目の当たりにした僕は、今美しいと言った。やっぱり僕は美しい世界を知っていたんだ。
 好きな香りがした。川の流れに乗ってきたのか風の悪戯か、僕が探していた香りが美しい出会いと同時に現れた。上流の方からだ。美しさが運んでくれたのかな。頬が緩み笑みが流れる。香りの始まりはすぐ近くだろう。僕は始まりを探しに行く。せっかく山を下ってきたので上流の方へ向かうのは少し気が引けたが、せっかく好きな香りがしたのだから、とりあえず会いに行きます。
 静けさの中とぼとぼ歩く僕の隣にはさらさらと流れる川の音が流れている。だんだんと香りも強くなり僕は自然と足を運べている。
 それにしてもわからない。僕をこんなにも衝き動かす、こんなにも会いたいと思わせる香りの正体が。どんな形でどんな色をしているのだろう。想えば想う程に僕の脚は軽くなり、前へと進むことができます。なにかを得られるかもしれない、記憶の靄を吹き飛ばす程の発見があるかもしれない。気づきを知れるかもしれない。期待は大きくなり楽しみが膨れていく。
 好奇心が蘇ったのだろう。探究心は、狼は、眠りから目覚めたのだ。やはり俺は知りたいのだろう世界の始まりを。陰性からの始まりだったかもしれない。だから今から零地点に辿り着きたい。探究心は常に鎮座しているものなんだ。そこから深く深く掘り進み燃料となる肥料を、好奇心となる夢を、我が子の自由を尊重する。
 探究心を見失わずに良かった。失わなくて良かった。人間に産まれてきて良かった。俺はちゃんと強欲なんだ。必ず見つけて抱きしめたい真実があることは昔から知っていたんだ。俺の秘密は俺の秘密だから俺が知るべき秘密だろう。それを探し続けることがやはり俺の最初の自由だろう。隠し通そうと周りは躍起になっていたのだろう。その中で、秘密の露見を防ぐ過程の中で、わかり合えないと見なした周囲のもの達を突き放しながら、家族で漂流しながらも隠し通したい愛の形があったんだろう。僕を守りながら家族を護りながら。
 素敵な家族の記憶が蘇る。靄が晴れ始める。家族みんなが安らぎを得られるように、俺は自らの足で探しだし自らの愛の力を知り、夢を抱き自由に世界へ飛び込むんだ。それが俺の目的地だよ。指標は己の魂に。肉体は魂を護り支える城そのものだ。これからは自分で護りながら戦うんだ。
 心が温もりを帯び始めた頃、目の前にはオレンジ色の簾のようなものがあった。そして鼻を刺すほどの強い香りがした。今日の朝から探していた香りの正体だ。近くで嗅ぐとあまりにも刺激が強くて頭が痛くなる。しかしどこか馴染みのある香り。よく見るとオレンジ色の花だった。小さな花びらが沢山連なっていて犇きあってはいるが、不思議と窮屈そうには見えない。気持ちが良さそうに咲いている。馴染みのある香り。だけど僕はこの花の名前を知らなかった。名前は知らないがこの花の香りは知っていた。綺麗に咲いている。揺蕩う心が愛おしい。
 この花の美しさを知っていることが僕の秘密なのか。こんなに綺麗な真実が、秘密にされていたことなのだろうか。それにしても綺麗なお花だ。僕は花弁を頂戴しようとしたがそのままここで咲き続けて欲しく、手をつけなかった。またいつかと軽く撫でて、山の麓へ歩き出す。花の名前には興味がない。綺麗な花と逢えました。

 素敵な出逢いを心に仕舞い、川の流れに沿って歩いている。長閑な旅。この川に沿いながら山を下ることができる。なんて素敵な旅だろうか。さらさらと、清らかに、目的地へと流れていく。このままこの先の目的地へ思いを馳せて川の流れに思いを乗せて、さらさらと流れるように歩いていこう。この川の流れに、流してもらおう。僕の身も心も思い出もこれからも。
 オレンジ色の花の名前は知らなかった。しかし素敵な香りであった。ただそれだけで、ただそれだけでいいではないか。野に咲く花を綺麗だと、舞う蝶を、地を這う蟻を守りたいと、僕は、僕はそう思えるのだから。またあの頃も良かったと、初めて今がこんなに美しいと思う程に変化することができたのだから。
 心の故郷はもう見つけた。僕には田舎がないけど、視覚的には感じれないけど、心では感じれると、そう信じる力はもうあるんだ。もう十分に僕は幸せを知っている。そしてまだ沢山の幸福があることも知っている。同時にまだ知らないことを知れたのだから。あとはもう川の流れに任せながら、ゆらゆらと、さらさらと向かおうか。楽しみは、ずっと前から僕のことを歓迎してくれていたのだから、もう手を繋ぎましょうか。


 あの頃の、重ねた思い出の一つを捲り、触れてみる。

 季節に温もりが帯び始め、冬服を仕舞い押し入れから春服を出していた。俺は服に興味がなく、毎年決まった服を着ている。三年程前にアルバイト先の店長から一万円で買ったジージャンと三万円で買ったどっかとsupremeとか言うブランドのコラボしたスタジャンを押し入れから出していた時にラインがきた。
 普段人に携帯を覗かれても困ることがないし隠すような面白みのあるプライベートでもないので、ラインの内容は待ち受け画面からすぐに確認できるようにしてある。送り主は中学の同級生からだった。めったに連絡をしてこない相手なだけに俺は待ち受け画面から確認できる限りの内容を読んだ。
 内容は、元太が死んだということだった。

 中学の入学式、親父のキャデラックエスカレードに乗りながら学校まで向かった。助手席には、まるでバブル時代で時が止まったかのような母親と、中途半端に髪を染めた、中学入学などに心も躍らず只怯え身構える俺がいた。爆音と真昼間にネオン管を光らせるキャデラックが学校の校門前に止まり、逞しさと優しさを兼ね備えた親父と、儚さに押し潰されないように懸命に生きている母と、それらの色を纏った不貞腐れた少年が降車した。なんだかとんでもないのが来てしまったと悟る視線を感じたが、怯え構える俺からすればそれらの眼差しは優越感を齎してくれてちょうど良かった。俺はこの私立中学に行きたくなかった。
 俺は小学校時代サッカーに夢中で取り組んだ。中学は地元の中学へ行き馴染みの同級生とサッカーをしたかった。そしてその中学で初の都大会へ行くという小さくて威勢だけの夢かも知れないが確かな夢があった。俺は父にその旨を伝えたが、サッカーでは飯は食えないの一点張りで当時コロナウイルスのように流行していた中学受験という流れに放り込まれた。行きたくもない公文と塾に行き、好きでもない勉学と褒められても何も感じない講師達と生気の色の違う同学年の人達に囲まれながら、俺はもくもくと数式と答えのある現代文と一切興味の唆られない化学やらをやらされていた。この時から俺はもう既に閉じ込められていた。ただ社会学というよりも歴史の勉強だけは興味が唆られ楽しくて学べていた。
 小学生の時に、学校のテストでそこそこ良い成績を取れると婆ちゃんが歴史の本を買ってくれたのだ。小学生でも読みやすい活字の本だったが、織田信長や豊臣秀吉、毛利元就、伊達政宗などの歴史に名を残す名将の本を読むことが好きだった。それは俺が昔から婆ちゃん子だったから、婆ちゃんと手を繋ぎながら町中や電車内やらのありとあらゆる文字を読んで教えてもらっていた時間が好きだったから、そんな好きな婆ちゃんから貰える本が嬉しかったから読んでいたのだと思う。
 当時強く鮮明に覚えていたのが、織田信長が親父の葬式の位牌に焼香をぶん投げたことと、明智光秀が叛逆したこと、豊臣秀吉が草履を温めていたことなどは強烈に覚えていた。だから公文や塾でも歴史だけはなんとか楽しみを見出せてはいたのだが、後々、信長が明智光秀に浅井長政の頭蓋骨に酒を入れて飲ませたことや、秀吉の虐殺ぶりなどの嘘か真かわからない話に好奇心はみるみると吸い寄せられていた。嘘か真かなどはどうでも良かったのだ。歴史上の偉人とされる人物達の奇怪で狂気じみた行動原理など理解できなかったが、理解できないのが楽しかった。理解されないが歴史に名を馳せ語り継がれている事実と、理解してもらえないようなことでも行動してしまうその反応の原因に興味を唆られた。中学受験の問題には出ない知識かもしれないが、理解からは程遠い彼等のことを知りたくなっていた。知的好奇心を得た俺は歴史の勉強は楽しめたので他の科目もこなしながら徐々に偏差値を上げていった。しかし僕は父に期待されていないことを知っていた。
 父は僕を別の塾に行かせようとしていた。受験生御用達の塾だ。その塾には入学試験というものがあり、それに合格をしなければその塾に通うことも許されないというものだった。遂こないだ迄サッカーばかりしていて学校のテストもカンニングで事無きを得ていた俺がいきなり見知らぬ建物に連れて行かされエレベーターに乗り部屋へ通され不気味に羅列された細長く白いテーブルに座り見知らぬ人間達がぞろぞろと同じ部屋に入ってくる光景に恐怖を覚えた。僕はとんでもないところに連れてこられてしまったのだろうか。僕はもう見限られて見放されて捨てられたのだろうかと不安がよぎる。
 反抗期のない僕だったが、一度だけ、反抗ではないが意思を表示したことがある。父と母が食卓で喧嘩をしていた際に、僕は扉に耳をつけて話を盗み聞いていた。すると父がもう離婚しようと言った。その時の僕はまだ幼稚園生だったのだが、離婚という言葉の意味をなぜか知っていた僕は扉を開けて、二人が離婚するなら僕はお婆ちゃんと一緒に住むと言った。その時だけ僕は自分の思いを両親に提示したのだ。
 それとは別に意思表示ではないかもしれないが意思の露出が狭間見えた時がある。僕がまだ幼稚園児で始めてお留守番を婆ちゃんに頼まれた時、僕と婆ちゃんの部屋のテレビで従兄弟から貸してもらった三國無双というゲームをしていた。ただ一人きりの時間での退屈に耐えきれなくなった僕はリビングへと向かった。そして飼っている金魚を眺めていた。餌を与えると金魚が飛びつく光景に楽しみを覚えた僕は、水槽に手を突っ込み金魚を捕まえてみた。捕まえて水槽から持ち上げて顔を眺めた。口をパクパクとする金魚が面白かった。その金魚に、手に持っていたおもちゃの部品の連結部分にあたる突起物を、パクパクとする度に口に突っ込み出して突っ込み出してを繰り返していた。徐々に口の動きは鈍くなりとうとう動かなくなった。その行程を水槽の中にいる六匹の金魚全てに行った。そして全てをそのまま水槽の中へ戻した。部屋に戻り三國無双のゲームしていた。数時間経ち婆ちゃんが帰ってきた。ゲームをしている僕に何をしていたのと問いかける。僕はずっとゲームをしていたと伝えた。数分後婆ちゃんは戻ってきて金魚のことを問うてきた。初めは知らないと言っていたが本当のことを言いなさいと言われ僕は事実を伝えた。婆ちゃんは誰かに電話をし始めた。僕は婆ちゃんに裏切られた気持ちになった。何時間経ったかわからないが、普段クリアできてないステージをクリアしていて、ゲームが大いに進展しているのはわかる。誰かが家に帰ってきた。誰かと言っても父と母なのだが帰ってきたのだ。僕はどうなるのだろうか。そんな漠然とした不安が襲う。父が部屋に入ってくる。金魚鉢の前へと連れて行かれる。これはなんだと問われる。
「死んじゃった」
 父は僕のズボンを脱がせ尻を露わにし尻をひたすら叩き続ける。酷く痛くて僕は何度も謝罪をした。この話には同日に僕は友達と留守番をしていたという話もあるが僕の記憶にその友達は誰なのかは全くわからないので僕だけの記憶としている。
 この二つの記憶が、僕が過去に表示と露出したであろう意思だ。受験室の長いテーブルに座っている際に僕はこれらの記憶を思い出し、それのせいで今僕はここにいるのだと、捨てられたのだと悟った。ああそうか。やっぱり僕は駄目だったんだ。僕は見限られたんだ。そんな憶測が飛び交いながらも時間は無慈悲に進み続けている。
「開始」
 座っている僕とその他の他人達とは別に、教室の前方の真ん中で突っ立っている禿げ散らかしたヒョロメガネの大人が一言放った途端に周りの他人共、いや人なのかもわからない物体が途端にペンを持ち何かを描き始めた。僕は何が何だかわからずに数分間その席に座り続けていた。なんとなくそういうことなのかと思った僕はペンを取り問題用紙に目を通す。しかしどうしても僕はなぜ今ここに居なくてはいけないのかがわからなかった。何をしているのか。楽しかった思い出などなくて、毎日が新しくてその新しさが怖くて幼稚園でも泣くことしかできなかった僕が、やっと芽生えた喜怒哀楽の様々な素顔を知れて出逢えて夢ができて、これから新しい人生が始まると心躍らせていた矢先に、今僕は塾の受験会場にいるその現実が、やるせなくてまたしても昔から着いて回る恐怖が僕を包み込み、今向き合っている問題用紙の内容を正しくも只々読むことも答えるという単純明快な自然もできなくて、カタカナを選べと書かれているのに漢字を選んでしまうような、自分の反抗心を答案用紙にぶつけることしかできず頭は空っぽで脳は真空へと近づきぼんやりと虚な時間の中、気づけば試験は終わっていた。
 次の日なのかその日のうちになのか覚えてないが僕はその試験で不合格となった。一四五〇〇人中一四四八七位という功績だった。頭を抱えずに失望する父の顔と、わかりやすく絶望する母の姿は未だに憶えている。どうやら僕は駄目な子供らしい。そんなことを思い続けながらなんで僕は駄目駄目なんだろう、もう項垂れる両親を見るのは自分が辛いからという理由で、父が行かせたかった塾とは違う塾だけど、なんとかこなして中学受験だけには合格しないと駄目だ、また失望と絶望の空気を吸うことになるからそれだけは本当に辛いから合格しよう。そのようにして形作られた意思により、僕はこの中学に入学したのだ。
テレビや映画では夢を追いかけることを推奨されていたが、追いかけることを許される人間がいて許されない人間もいるのだとこの時には知っていた。同時に父を説得できなかった自分の訴求力の無さ、訴求力を底上げする言葉の枯渇、知識の無さを悔やんだ。訳の分からない塾へ行き、興味の唆らない勉学に勤しむふりをして、ただ悔やむ毎日だった。俺が中学受験はしたくない思いを当時所有する数少ない言葉を使って自分なりに訴えていた際に、逆上して教科書を見習ったような言葉を並べる父親も、俺を想って限界を超えて理性を置いてけぼりにしていたと思うと、非常に虚しくいたたまれなくなり勉強なんてこなすことができたんだ。
 所謂俺は諦めたのだ。仏教ではこの諦めるを明らかに見るというらしい。明らかに見た結果俺は諦めたのだ。ただこの諦めには復讐心が宿った。

 入学してすぐに周りの奴等が俺を珍しく思い好奇心に駆られているのがわかった。
「あいつに話しかけろよ」
「いや俺が行くの?」
「俺は別に興味ないけどね」
 沢山の声が聞こえた。兎に角煩わしくてどうにかできないかと考えたが答えは出なかったので、俺は見ず知らずのそいつらの立場になって考えてみることにした。
 俺は中学からの人間でそいつらは小学校からここにいる人間だ。自分達の馴染み深く居心地の良い場所に、髪を染めたよくわからない不貞腐れた奴が来る。どんな奴なのか知っとかないと俺達のこの場所が、今が、寄り掛かっている記憶と拠り所が崩されてしまうのではないか。しかし攻撃はできないから、親に、先生に怒られるから、突いて振り向かせて目を見てまずは沈黙が居心地の良い人間なのか、それとも歪みが生じる存在なのかを見極めなくてはならない。けれども自分が確かめるのではなく、誰かがやってくれることを望んでしまっている自分もいる。内在の蟠りから生じる外在のなすりつけあいを見てとれた俺は、彼等は俺と仲良くしたいのだとわかった。そして仲良くなった結果、この煩わしさも減るのだとしたら利害が一致したのでどうやって仲良くできるだろうかを考えた。
 集団というのは生き物で兎に角鈍い。何が一番鈍いかと言うとそれは行動力だ。問題が共感されるものが多く、その問題を抱えるのが自分以外にもいるという安心感からか解決を急がない。それ故に集団に属せている。集団に属する彼等の鈍さは時が遅く、俺が決断に至るまでの時間からすれば止まって見えた。そこで俺が生み出した答えが
「ピンクローターって知ってる?」
 これが最初で最後の俺の武器だ。俺は下の知識を多く所有した。小学校の同級生でパソコンを扱える人間がいてよく彼の家に行っては沢山のエロと言われるものを物色した。そこで乱用される隠語を俺は武器とした。初めて耳にした言葉と、興味は唆られていたが行動に移せない対象からの話しかけに驚き、目が点になっていた。
「知らないけど」
 ただ知らないわけではないらしい。知らないけど。この「けど」が俺との進展を望み期待していた。
 俺は球体のものを女性器に入れて振動させる道具だと伝えた。時が止まった。沈黙が続き情報を整理しているのがわかった。しかし赤の他人からいきなり話しかけられて内容が未知のエロ。いやエロなのかどうかもわからない知識。そんな未経験の状況から情報が纏まらず溢れでる笑みがとても愛くるしくて、僕も仲良くしたいと思った。
 何故か。何故僕は仲良くしたいと思ったのか。そんなことを考えるようになってしまった。理由なんていらないはずなのに、全ての事象に原因を探すようになってしまった。
 強引で雑なアプローチにより何とか俺は中学の人達と仲良くなれた。ひとまず安心した。物事は始まりが重要である。この始まりによって俺は彼等にとって、未知の知識をくれる人間になった。好奇心旺盛な彼等は腹を空かした犬の如く俺に沢山の知識という餌を求めた。ごく稀に俺自身も知らないことを聞かれたこともあったが、知ったふりでもまんまと喜んだ。一人になりたい時間もあったが、この時にはもう学校内の自分の地位に優越感を感じ離れられなくなっていた。俺自身も、承認欲求という餌を求めた犬になっていた。この学校に入学した時には既に胃の中は空っぽだったのだ。

 僕は独りぼっちである。そんなことを脳味噌で考え始めたのは何歳の頃だろうか。
 俺は幼少期から身体が弱かった。身体は弱くてすぐ泣いてしまう子供だった。保育園の記憶まではあまり覚えてはいないが、まだ歩行器を付けてペタペタと歩いていた時の記憶はある。その頃は母の弟の家族と共に生活をしていた。母の弟とは要するに俺の叔父にあたる人で、叔父には二人の子供がいる。俺の三つ上の男と一つ上の男がいた。まるで三兄弟のように暮らしていたことを覚えていて、二人の従兄弟は勿論俺よりも早く歩けるようにもなっていて、二人が階段を駆け下りて外に遊びに行く景色を歩行器の俺は指を咥えながら眺めていたのを憶えている。
 他にも夜寝付けずに、その日は婆ちゃんではなく叔父の妻が僕の面倒を見てくれていた。父の車が駐車場に停車する音を聞いた俺は慌てて二階の窓の方へと向かった。その時床に落ちていた鉛筆の芯を踏みつけ足の裏にその芯が入り込んでしまったがその痛みに耐えながらも、窓から車を降りる父と母を眺めていたことも憶えている。
 両親は共働きで父は運送会社の社長で母はまだ当時ホステスをしていたのだと思う。父の運送業は世の中が眠りについた頃から始まる。ホステスは仕事終わりの人達を楽しませるお仕事だ。どちらも夜からの仕事でまだ一人では寝付けない俺の面倒をみてくれていたのはいつも母型の祖母だった。なかなか寝付けない俺に祖母はよく子守唄を歌ってくれた。数種類の子守唄の中で
「眠けりゃよ〜、寝るのかっ寝ないのかっこのガキめっ!!」
 という子守唄があったのだがその子守唄を聞くと笑いが止まらなくなったのを憶えている。中々寝付かない子供に腹を立ててヤケクソになってる様子が実に面白かった。その子守唄を聴きたいが為にわざと寝なかった。大いに笑い切った後はすんなりと眠れたものだ。そして毎朝俺を起こして朝食のトーストを焼いてくれて手を繋ぎながら幼稚園まで送ってくれたのも祖母だった。幼稚園の迎えももちろん祖母で手を繋ぎ一緒に家へと帰る。家に着いた頃には母はいつも寝ていて父は仕事から帰ってくる時間だ。所謂おばあちゃん子だった。反抗的な態度を見せたこともなく、大人しく従順な子供だった。俺は子供ながらにわかっていた。祖母は祖母でしかなく親ではない。祖母は俺の親からお願いをされて俺の面倒を見てくれていることに。その人に俺は感情を露わにすることができなかった。しかしやはりどうしても募る感情は存在していたのだろう。
 月に一度、母の休みと通園の日が重なる日があった。まずこの時に母が仕事をしているかどうかもわからなかったのだが、母が僕を幼稚園まで連れて行ってくれる日があったのだ。手を繋ぎながら幼稚園に向かう道中は緊張からか毎回とても長く感じた。母は花が好きだ。母の鎖骨辺りには薔薇の花の刺繍がある。それ程に花が好きな母に少しでも喜んでもらいたくて、野に咲く花を摘み幼稚園の女性の先生にあげることを告げた。すると母は笑顔で
「それは先生喜ぶね」
 と僕の頭を撫でてくれた。とても嬉しかった。他にも道中に咲く蜜を吸える花を啜ったり、飛ぶ蝶の種類を教えてもらったり、散歩中の犬に怯えて母に隠れたり、歩道側に僕を歩かせる母から安心を覚えたりと沢山の長い時間を過ごし僕は幼稚園に着いてしまった。
 いつもなら、祖母となら、すんなり離せる手が離せなくなっていた。同級生がずるずると横を通り過ぎて幼稚園に入って行く中で僕の身体は固まり動けなくなっていた。母と繋がった手には力が入り、先生にあげると言い摘んだ花は手から落ちていた。そして涙が止まらなくなり母に抱きついた。あれだけ長いと感じた時間は終わりの予感と共に瞬間的な時となり、戻りたい時間へと変わった。母は落ちた花を拾い先生にあげるのでしょうと僕に渡したが、そんなものはもうどうでも良く、地面に叩きつけるように投げ捨てた。駄々をこねる僕に母は少しだけ僕を叱った。僕はあまり親から叱られることがなかったから驚き涙も止まりそのまま大人しく先生に手を繋がれ幼稚園に入って行ったが、落とした花に気づき僕は後ろを振り返り花を拾いに行こうと思った。しかし先生の握る手は強く笑顔で手を振る母がいる。僕は大事なものを捨ててしまったような気がしながらも幼稚園に向かうことになった。園内に入ってからの僕は、押し入れに隠れ入り泣きじゃくっていた。楽しそうな同級生達が怖かった。
 周りは僕とは反している。逆も然り。ズレを感じざるを得なかった。持っているもの達と持っていない僕。逆も然り。人はそれぞれ大小はあるしなんならそもそも欠落もある。今はそう思えるものも、幼稚園生には解き得ない難題が僕の知らないところから沢山やってくる。そんなもの誰しもが経験することだと言われることもあるしなんならそれが人生だろうと意気揚々に語り散らかす方達に問いたい。解き方から自分で見つけなくてはならない問題を解いたことはあるのか。数学を現代文をもって解き挑んだことはあるのか。化学を肉体を用いて解き挑んだことがあるのか。問題かどうかも自分ではわからず、周囲との齟齬から見定めて問題として自ら問題用紙を作り解き挑んだことがあるのか。別にないのならないでいいから、お願いだからわかったような態度と見識を呼吸するように披露しないでいただきたい。貴方達の自由奔放な御託が、秩序もクソもない通り魔になり得ることを重々承知の上で生きていただきたい。言葉も視線も沈黙も貴方が生きているという只それだけのことですらも、貴方は常に刀を所持していて人を斬り殺すか刺し殺すかの危険性を保有していることを今一度明確に自覚して日々を紡いで生きていただきたい。退屈に耐えられずに歩き続けることしかできない人間は刺激を求めてしまう生き物だ。ならば一度、自分は他人を生かすも殺すもできる武器を保有しているという事実を大事にしてあげれば、刺激的な人生などいつでも側で織りなすことができるだろう。僕は何度も何度も殺されて生かされてきた。だからそれなりに強さもあるが、強さを保たなくてはならない原因の弱さも兼ね備えてる。そして強弱の指標が存在しない欠落した価値観もある。そして貴方達の知らない美しさも知っている。どうかお互い心地の良い距離感で、共に生きて笑える人生を探していきましょう。隣人から友になるにはどうも僕は難しく考えてしまう性分でして、貴方が僕に、僕が貴方に唆られた瞬間からは、大切に私たちを紡いで生きましょう。そんな風にして生きていくしか生きていけない僕なんだ。
 そんな僕は憧れた。桜の花のように誰もを虜にして、屈託のない、偏見のない、眩しく無垢な笑顔で、自由にそして確実に翼を保有していて空を飛ぶこともできる人。周りからの嫉妬や執着すらも気にせずに自分の泉を掘り続ける人。たまにその泉を汚しにやってくる妬ましい悪魔と何が何でも真っ直ぐ立ち向かい泉を護り通す力のある人。それが元太だった。

 中学に入学して数ヶ月経ちクラスの人間達とも馴染み始めた。その中で小学校からこの学校にいる1人が、他のクラスの人間達にも僕の存在を伝え始めて色んな人間達が俺のクラスに来るようになった。俺は相変わらず人見知りなので多く語らうことはしなかった。しかし相手から色々話しかけてくるのでそれに受け応えての毎日。まだ数ヶ月しか経っていなかったが異様に疲れてしまっていた記憶がある。面倒になり始めていたのだ。あの頃共に時間を過ごしたであろう方達には申し訳ないが、僕は退屈でつまらなくて全く楽しくなかった。
 色々な大人を見過ぎたんだと思う。沢山の動物がいる動物園で生きてきた一人が、いやその中の動物の一種類だったかもしれないが、この学校にいる動物達は何も個性が無く一様な猿ばかりに見えていた。この学校は個性と自由を尊重しているらしい。その割にはあまりにも色の乏しい連中ばかりであった。この学校は私服で校則の緩い学校であった。乏しい連中は色の乏しさを埋める様に服で着飾り化粧と毛染めで嘘をつく。指を入れられれば辿り着く底を見破られない為に隠すように着飾る猿ばかりだ。歴史という証明から化粧という専売特許を得ている雌猿共が服やらメイクやらを駆使して雄猿共を選別している。
「あの髪はイケてるけどプリンはださい」
「あのパンツにその靴は無い」
「パーカーを捲って見える腕の血管が好き」
 その内に
「笑顔が可愛い」
「声がいい」
「背が高い」
 などと持って生まれた物までも選別の対象にして調子にのりだす。自らの私利私欲を満たせるこの学校という名の社会の中で生かされている雌猿共は自らの本能の赴くままに取捨選択をしている。しかし取捨選択をしている手の内はバレぬように女社会特有の戯言混じりの主観を小出しして自らの価値観が社会に乗っ取っている物なのかを確認する。その作業の材料となっている雄猿共。雄猿共は雄なりに其々徒党を組んで自分の居場所を探している。その中でも身体がでかい奴や自己主張の激しい奴や利口な奴や資産という武器を生まれながらにして持ったドラ猿が其々のグループのボス猿として徒党を組み毎日を満喫してる。それらを眺めて其々演じながら社会で息ができるように酸素を求める雌猿達。眺められていることに気づきながら意識をしながら演じながら自分の居場所を模索する雄猿達。男を材料に自分を保つ女と女を指標に自分を探す男。この構図に飽きてしまい、疲れ果てた雄猿共が流れてくるのが俺のいる教室だった。そんな雄猿共の色の乏しいキャンバスに色を加えるのが俺だ。
 何も知らない人達と知っている自分。知らないが故の目の輝きが疎ましい。その輝きを僕は知らない。持ち合わせていない。けど君達は知っている。俺が知っているものは俺しかまだ知らず俺が教えれば君達は知れるが君達の知ってるそれは一体誰が俺に教えてくれるのか教えてくれないのか。不安がよぎる。劣等感が沸々と湧き上がってきていた。腹の中が煮え切る。内臓が溶けだす。この教室でこの人達と同じ時間を過ごすことが苦痛に変わってきた俺は、奇怪な行動を取るようになる。奇声を発して顔を歪めて弁当の食い物を咀嚼した物を口から吐き出して嗚咽する。そして慌てふためきながら後退りして俺を見つめ眺める君達。それを見ると僕は自分を見ているようで笑顔が溢れるのだ。その目だよ。吐き気と疑問が混濁したその目なら俺にだってわかるよ。そんな奇行が俺の学校の日常へとなっていった。そうすることで俺は君達と溶け込むことを選んだ。そうしなければ苦痛で何年も君達と一緒に居ることなどできるはずがなかったから。
 最初は引き攣っていた君達の笑顔も日常と化した光景に心から笑えるようになっていったね。たまに度を超えることがあっても君達は不貞腐れる態度を見せては駄目だと俺は叱った。不貞腐れるということは周りに陰性な空気を吸わせることになるから何が何でも不貞腐れてはいけないんだよ。なに泣きそうになってるんだよ。泣いたらぶっ飛ばすから堪えて笑えよ笑うしかないだろうと問いただしたものだ。理不尽極まりない理論に悩める君達の表情は実に面白くて勉強になった。
 俺もこんな顔をしていたのだろうか。自分の感情や倫理観の吐露を自ら押さえ込まなくてはならない。人間のもつ反射的な反応すらも抑えなくてはならないという矛盾に耐え忍ぶ君達の顔も心も俺にはよくわかる。そうやって抑制していくうちにやはり君達は笑うんだ。なにかを諦めたように酸素を欲するように緩み受け入れ溢れる笑みと、煌めきが淀みボヤけた瞳に光を差し込む術として眼を見開いて爆笑しだす君達を見ていると、僕は自分が知る人間という生き物にこの学校でも出会えた気がして嬉しくて嬉しくて安心を覚える。
 元々君達は警戒心から俺に近づいてきたのだろう。その結果が今なのだよ。やはり俺は君達にとって知らないものを見せてくれるでしょう。君達の好奇心は君達の望むものを引き寄せたと思うよ。その結果俺も安心を得られたわけでお互いに得られたものがある。君達が知りたいのなら、得たいのなら、それなりの代償が必要だろう。対価として色々教えてあげるよ。僕は安心を得るために君達の好奇心故の接触を受け入れたのだから、君達は発見を得る代わりに未知の世界に飛び込む必要があるわけだ。何かを得るには何かを捨てなければならない。腕がニ本しかないように、眼が前を向いているように、何かを捨て得て諦めて進むのが生きるということだろう。なんなら君達は既にそれを心得ているように見えたのだが。
 俺は夢を捨てて意思を抑えつけて好きを忘れて嫌いを忘れて笑顔を手に入れてここにやって来た。何故俺は夢を捨てなくてはならなかったのか。何故俺は自由を諦めてしまったのか。何故俺は不自然を自然とする術を得たのか。何故俺は心に血を巡らせなくなったのか。何故俺はありのままを恐れたのか。何故俺は目の前の景色を信じたのか。俺は何故、自分自身で旅に出なかったのか。そもそも俺は、何を得る為に生まれてきたのだろうか。
 疑問ばかりであった。生まれてこの方疑問ばかりであった。君たちの瞳が輝いているのは好奇心故なのだろうか。僕の瞳が荒んでいるのは疑問ばかりだからだろうか。何かが違うその何かがわからずに生きている。わからない、何も知らない、経験はあるのかもしれないが忘失した記憶を探究するにはまだなにもない僕だった。遠くに行くにはまず車が必要だろう。何かを得て何者かにならなければどこにも行けないことは知っていたが行きたい場所なのか何なのかもわからないが、向かいたい方向、見たい景色、感じたい温もりはこの時からあったのかもしれないが、それを解くにもまず問題が見当たらないから問題を作るしかなかったんだ。この時にはもう既に幸せになりたいと思っていたよ。奇行に走り騒ぐ奴は抑圧して、笑顔の同調を恐れ馴れ合いとし蔑み嘲り気持ちが悪いとして叫び罵り貶して脅して俺は僕を保ち続けていた。
 そしていつのまにか、俺は弁当を一人で食べるようになっていた。楽ではあった。一人の方が早いし何より飯を美味く感じる。一人で食べれば口から吐き出すこともないから大事に食べて心から味わうことができる。俺の家は父が弁当を作ってくれていた。仕事がある中、毎朝作ってくれてテーブルの上に置いてくれていた。弁当は美味くて何よりも有難かった。だから一人になっても感じる豊かさはあった。
 ご馳走様でしたと呟き、弁当箱を鞄にしまい足早に教室を出る。甲高い声がうじゃうじゃと沢山の教室から聞こえてくる。階段を降りて校庭を通る。校庭のベンチ。売店横の食事スペース。花壇の縁。体育館前の段差。色んなところで色んな男女が犇めきあっている。校庭を通り過ぎて校門へと向かう。警備員とは目を合わせず校門を出て行く。左へ曲がり反対側の歩道へ渡り数十メートル進んだ辺りの路地へ入る。窮屈な住宅街を通り見えてくる団地。団地のフェンスをよじ登り屋根のある駐輪場に座り込む。パンツの中からセブンスターを取り出し煙草に火をつける。この時間が1人で弁当を食べることで余る空白を埋めてくれていた。今までにない緊張感と孤独感が僕だけの楽しみとなり、この毎日に依存していった。なにもかもがつまらない毎日には丁度いい刺激だ。淋しくはあったのだが淋しさと対峙するのは悪くなくて、自分自身になれている気がした。
 俺は一体なんなのだろうか。好きなものも嫌いなものもない。物差しを持ち合わせていない。夢とか愛とかどうでもよくてただ生きているだけのことが不思議に思えてくる。どうしたいのか、何が好きで嫌いなのか。蟻の巣に水を入れて殺す奴等は許せないから蹴飛ばした。1人の女に主観を伝えたら彼氏が生意気に挑発してきたからぶっ飛ばした。ボールを投げたら知らない奴にぶつかってしまって不貞腐れたから顔面にボールを蹴り入れてやった。泣く子供が嫌いだし泣いているふりをする子供はもっと嫌いだ。五月蝿いのは嫌いだし馴れ合いも嫌い。嫌いは沢山ある。しかし嫌いはあるけれど嫌いなものというのが明確にわからない。好きはもっとわからない。なぜなら好きがわからないから好きなものにもならない。でもこの時間は好きなのかもな。そんなことを考えながら、物思いに耽りながら煙草の煙で遊んでいた。
「なにしてるの」
 時が止まった。時が止まると息も止まり思考も停止することがよくわかった。ゆっくりと目を閉じて呼吸を整え僅かな数秒の中俺はなにをどうすれば良いのかを考えた。目を開ける。煙草は消さずに俺は声のする方を睨みをつける。ニヤニヤとしながらキラキラと眼を輝かせながら、駐輪場の壁から顔だけ出してこちらを覗く男がいた。
「それ美味しいの?」
 言ってる意味がわからなかった。こいつは何をしに来たんだ。何故ここがバレたのか。バレたということは俺はどうなるのか、親父に殺されるのか。学校はクビになるのか。そもそも学校の奴ではなくて団地の住人の可能性もあるから大丈夫か。しかしそうだとしてもチクられたら面倒だ。学生証は学校に置いてきたから年齢はバレない。俺は20歳だとしたら何年生まれかを知っている。しかし20歳がこんな所で煙草を吸うのはおかしいか。小雨が降っていたから雨宿りをしていたとでも言おうか。とりあえず対峙しよう。数秒間目を閉じて考えた内容の全てを忘れさせる程のニヤけ面をした変態が話しかけてくる。そしてそいつは、元太だった。
「なにしてんの」
「え?着いてきたんだ」
「なんで?」
「なにしに行くんだろうと思って」
 元太は俺の隣にしゃがみ込んだ。前々から昼休みに俺が外に行っていることや学校内では噂になっていること。昼休み終わりの教室が異常に煙草くさいことなどをぺらぺらと喋っていたが眼と心は煙草をずっと捉えていた。こんなにも心と行動が如実にあべこべな人間を俺はこの時始めて目の当たりにした。
「吸う?」
「え?うん」
 疑問からの返事の差が激しい。どうせ吸いたいのだろうと思い聞いたのに、なんならずっと俺のことよりも煙草に興味は吸い寄せられていたであろうに、俺の問いかけにそこまで驚くことがあるのだろうか。そしてそのあとの「うん」は俺の問いかけを待ってましたと言わんばかりのニヤけ混じりの返答で、もうワクワクが止まらない子供そのものに見えた。俺は煙草を渡した。すると元太は俺の煙草の持ち方を真似て、人差し指と中指で受け取ろうとする。そんなに伸ばしきらなくてもいい人差し指と中指。ジャンケンのチョキ。そして遺骨を箸で挟むように丁寧に煙草を挟み、慎重に口元に持っていく。長い睫毛をした瞳で火種を見つめながら煙草を口に咥えて深呼吸しながら吸い込んだ。険しくなる顔の表情。口から溢れる舌。そして肺からの拒絶音を含む破裂した咳。おえーっとえづきながら、泪ぐみながら苦しむ元太。
「まっずいぃぃ!」
 そう言葉を吐きながら俺に煙草を返してきた。煙草のフィルターには大量の唾液。俺は腹を抱えて腹筋が捩れる程に笑い、同じく泪ぐみながら元太の背中をさすった。
 こいつはなにをしているのだろうか。なぜ着いてきたのか。偽善に俺を学校にチクる訳でもなくて、なんの目的があってここに来たのか甚だ疑問ではあったのだが、彼も煙草を吸ったことで俺の緊張は緩み笑えて楽しかった。楽しいを久しぶりに味わった気がする。この学校へ来てから勉強ばかりであった。学校行事は相変わらずサボりながらもまだやり過ごしていたが、それよりも人間関係での学びばかりであった。その学びは別に誰かが採点してくれる訳でもなくて評価はなくてひたすらに自分の中で自分を守る為に生き抜く為に必要な処世術を見つけだすことだった。指標は常に己の中にあるが明確な結末付けはできずに、曖昧に気分が良いか悪いかが判断基準であった。
 否、気分が悪いかどうかのみであった。気分が悪くないのであれば良いとはなれず、それは無関心でしかなくどうでもいい事象に過ぎなかったのだ。それは何故かと問われれば答えは簡単だ。俺は基本的に怯えているからだ。何故にそんなに怯えているのか。それは俺がこの学校に入学したのは、実質強迫されてここにいるという主観が常に付き纏っていたからだ。
 別に今に始まったことではない。物心が付いた頃から、僕はちゃんとしなくては駄目だ。僕がちゃんとしないと母がまた階段から飛び降りてしまう。お婆ちゃんが涙を流して土下座をしながら僕を返してくれと嘆いてしまう。父に泣くなと言われる。箸の持ち方を小学生までに正しく持てなかったら引っ叩かれてしまう。そんな強迫の中生きてきたから、それが通常運行であったから、怯えながら生きるというのが普通になっていた。その結果自分の心が踊る感覚など麻痺してしまい、ただ言われたことと言われてないことを自分なりに考えて発表して、それが彼等の心を癒す物であれば正解で癒さない物であれば不正解で、不正解は僕にとっては一度の終わりで、冬で、全てを枯らしてしまう異常な寒波と視界を潰して重くのし掛かる吹雪で、自己嫌悪に苛まれてながらの現在なのである。芽吹きに感動を覚える間も無く枯れて朽ちて土へ帰る日々であった。感動とは気づきであり発見だ。しかし気づきと発見を得られなければ感動には及ばない。結果の前の経過すらも歩めない日常が普遍化した人間が好きも嫌いもできるはずがないだろうと思っていた。
 しかし俺は、今嫌いな人間や景色や空気を漠然と感じれている。これは一種の成長なのか。好きも嫌いもなかった、何もかもどうでもいいと思っていた僕が今嫌いを手に入れたのだ。幼稚園や小学校とは違い、自我の芽吹きではなく主観の芽生えを得た若草達に揉まれながら俺は、嫌い、不愉快、壊したいを手に入れたのだ。俺は壊したくて消したくて引き摺り回して殺してやりたい奴等を手に入れて、理性が俺を抑えて、俺は理性を再び見つめて、そして学校を抜け出して路地に入り団地へ踏み入れ、創り出した空白を埋める時間を手に入れたのだ。物思いに耽りながら、心を鎮めながら今を見つめながら無我夢中に自分と対峙しながら、闘い和解し手を繋ぎ慰めながら生きていた矢先に、楽しいを背負った可愛い猿が好奇心を抱きながら俺の元へやってきたのだ。
 元太は成績優秀な類の人間であったと思う。そんな彼が好奇心に唆られて、というより、何故唆られてしまったのかが甚だ疑問であった。彼はこの学校に通いながら芸能活動をしていた。芸能活動をしながらも学校での成績は上々で、側から見れば文武両道に学生生活と人生を謳歌している彼が、何故俺に着いてきて煙草を吸ってみたいなどと思ったのか。彼も彼なりに退屈を抱き刺激を求めていたのだろうか。勉学と仕事の日々をいつしかこなすようになってしまい、新たな旅へ出掛けたくなったのだろうか。そんな時にふらふらと学校を抜け出す俺を見て唆られて着いてきたのか。こんな煙草のひと吸いでその穴を埋められるのなら、俺はとことん一緒に付き合ってあげたくなった。
 何故か。それはやはり、隣に誰かがいるというのは嬉しかったのだろう。俺の楽しいにはそんな嬉しさが隠っていて君の楽しいには一体何が混じっているのだろうか。僕は君の持つ色は知らなかった。目の当たりにした景色が新鮮で、綺麗で、寛容で、美しくて飛び込みたくなったんだ。学校の教室に充満している一様な色でも、息が詰まる同調でも、蝕む孤独も、踊れない自分でも疎外感のない、綺麗な景色を目の当たりにしたんだ。
 元太はもう一本吸いたいと言ってきた。俺は煙草を差し出して火をつけてあげた。しかし火がつかない。元太は目を点にして「なんで?」と首を傾げる。吸う人が吸いながらではないと火はつかないと伝える。最初は何故吸えたのだろうか。彼はもう一度、不器用に煙草を持ちながら俺の灯す火種に近づけて煙草を吸い込んだ。ジリジリと燃える煙草。顰める顔。恐る恐る肺に煙を流し込み、飲み込むように煙草を味わう。眉尻を落とし頬を膨らませながら俺を見つめる。そして咳き込み泣き笑う。何度も何度も繰り返す。それを見て笑う僕。

 昼休みも終わりが近づき、俺は元太と共に学校へと戻っていた。校門からではなく学校裏の使われていない大きな門をよじ登り学校の中へと戻る。学校の外へ出る際には誰かに見られていてもそのまま外に逃げ出してしまえば良いのだが、中へ入る際に誰かに見られてしまうとそいつからは逃れられないので中へ戻る際はこの大きな黒く錆びた門を使うことにしていた。毎度こんなことを続けているとなんでここまでして学校に来なくては行けないのかと思う日々であったのだが、今日は共に過ごしてくれる者がいるからか、普段は感じることのない高揚感に包まれていた。
 先に俺が門をよじ登り元太が後に続く。元太は恐らく筋力と運動神経はあまり優れてはいなかった。一人で門をよじ登ることができずに苦戦している。俺は門の上から腕を差し伸ばし元太の手を掴み引き上げた。元太を門の上へと座らせて、俺は門の上から中へと飛び降りる。俺に続き飛び降りる元太。地面に膝をつき痛みに悶えている。俺は心配になった。何故自分にできないことまでやってしまうのか。何故自分の能力では賄えないことがわからずに飛び込んでしまうのか。俺はその場で立ち、鼻で笑いながら元太が立ち上がるのを待っている。
 すると、体育館から1つ歳上の男女が出てきた。手を繋ぎ寄り添いあっている。こいつらは恐らく体育館の更衣室で、お互いの性を弄り慰め合い気持ちよくなっている奴等であった。前からこいつらが更衣室に入り浸っていることは知っていた。今では校門から外に出るのが一番安全で効率的であるとわかっているが、最初はどこから外へ向かうのが最善かを探っていた際にこいつらのことを見かけていた。俺は一度だけ扉に耳を当てて、中の様子を聞いたことがあった。恐らく接吻をしている。そして欲情し合い、遂には男が逸物を曝け出して、それを女が口に咥えて搾り出し受け入れることをしていた。俺はその光景を音で聞いて想像力で映像化し眺めていた。男が頂点へと達し女が悶えている。慰め合い微笑む光景を聞き眺めた俺は、そっと扉から耳を離して、その日は外へ行かずに昼休みを過ごした。気持ちが悪くなってしまった。校庭のベンチで仰向けになり空を眺めていた。小学生の頃、知り合いの家で見たパソコン越しのそれとは違い、現実で行われているそれはあまりに刺激が強くて頭の中が混乱した。耳を近づけて覗きたくなった自分の辱めを流れる雲に宥めてもらっていた。
 あんな風にして愛し合うのだろうか。愛し合うのは実に生々しくて気持ちの悪いものだ。あれが世の常だとしたら、俺は非情にならずして向かい合うことなどできないのではないか。あそこまで曝け出し委ねる術をどこで知り得たのか。教室にいる彼等、彼女等はその術を心得ているのだろうか。だからあんなに甲高くケラケラと同調し、くだらない会話と馴れ合いで寄り添いながら、日常を受け入れ社会に溶け込み手を取り合って輪になって踊れるのだろうか。知っている者は知り得ながら、心得ながらということすらも知らない。自分自身が万物の欠片であることを知り得る君達は、その上で生きていく術を心得ているのだろう。只生きること自体に疑問を抱くこともなく、既知を疑う必要もなく、旅に出る必要もなく、愛し愛され慰め触れ合い生きていくんだ。俺には到底無理であった。気持ちが悪くて吐き気を抑えて、空に縋り、雲に宥めてもらった。
 そんな奴等の発する波長やリズムが俺には見えた。まだこの頃の俺は知らないことを認めたくなかった。だから君達の生きる社会で共存する為には、何かを上書きするしかなかった。君達が着飾るように僕にだって着飾る権利はあっても良いはずだろう。そして君達は既に物質的に完成された着飾りを脱いで脱がされて触れられてなぞられて弄られて、肉体の中へ中へと触れ合い深めて果てることの赦せる相手を探しているのだろう。着飾りとはなんて不毛なものだろうか。そんな物で飾れる程の個体が何を有しているというのか。
 このように、俺は俺で着飾り生きていた。今目の前を通り過ぎて行った男女は俺が吐き気を催す類のそれだ。俺はそいつらをじっと眺めていた。すると元太が、彼等は一つ上のカップルだよね。ニ人で体育館で何をしていたのかな。と、またニヤけ面で眼を輝かせながら聞いてくる。俺は体育館の更衣室で男の逸物を女が口で愛撫してることを伝えた。元太は一瞬時が止まっていた。俺は笑いながら教室へと向かった。


 初秋と杪夏の狭間。
 せせらぎに揺られながら進みゆく紅葉と鈴虫の鳴き拍子。名知らず花の芳香。鳴りを潜める蝉の声に日照りの温い残暑と黄昏。吹き抜けてゆく風。
 記憶の蓋は実に重く、退かすことはもうできないと思っていた。だからもう見ることもないし出会うこともないから思い出すことも耽ることもしないと決めていた。しかし、壺の中で蠢く物。者達。まさか君達が、貴方自身が、私が、壺の中で蠢きながら、活発に動きながら仲間を増やしながら成長しながら、遂には壺の蓋を浮かせてしまったのだ。僕があの時あの場所で、諦め見限り棄てた思い出の数々が、まだ棄てるなと見限るなと、俺を私を僕を我を必ず捉えて抱きしめろと、咆哮しながら数多の表情と念で俺を振り向かせたのだ。あとはもう簡単だった。浮きずれた蓋を指で弾くだけであった。しかしどうしてもまだ恐怖がしつこく纏わりついてくる。臆病に流し目で壺を見つめている。
 今更会ってどうするのか、何を話すことがあるのか、今更僕は戻らない。別に詫びられる気も詫びる気もない。まぁ詫びて欲しいのなら詫びるが、もう僕は昔と違って自分如きの尊厳も意地も何もないし、そんな物で支えられる程の個体ではなくなってしまった。そしてなによりそれらを手放したことで得た景色も記憶も好きもあるから、心と言葉をあべこべに使うこともできるので詫びることなど容易なんだ。そんな状態の僕に会って君達は何を求めるのであろうか。僕にはわからなかった。只わからないからわかろうと頑張ってはいた。それは僕自身の話だが。その結果が今なんだ。
 そうだ。わかろうとした結果、壺は蠢き響めき震えだし、この重い蓋を突き動かした。僕はわかろうとしていたことを、解き挑み続けていた。そして確実に進んでいた。動き出したんだ。あとは答えを見る覚悟があるのかどうか。ずっと求めていたものではないか。真実は目の前。進む時間と進まない心。臆病は病だろうか。不治の病だろうか。病ならば治せる。治すには、この壺の蓋を退かさなければならない。
 僕は自分にそう言い聞かせて、壺を思い切り蹴飛ばした。鈍痛。壺は酷く重かった。鈍い音と痛みがじんわりと身体に纏わりつく。ゆっくりと倒れる壺。膝をつく。壺の中からうじゃうじゃと溢れる大量の蟲と、ドス黒い液体がぶくぶくと泡立ち異臭を放ちながら零れ出る。その中から、一匹の真っ白い蛇がのっそりと姿を現した。顔を出しこちらを眺めている。蛇はゆっくりとこちらに近づいてきて俺の腕に絡みつく。牙を剥き出し、左手の親指と人差し指の間に噛みついた。何かが身体へ入ってくる。痛みはない。意識がぼやける。朦朧とする意識の中、蛇は手から離れていき蹴り入れた壺の方へと向かう。壺へ入る手前でピタッと動きが止まりこちらを振り返る。真っ赤な眼をしている。数秒こちらを見つめている。徐々に意識が途絶えていく最中で、僕は誰かと出逢い話していた。
 君はつまらない人間だ。全く面白味のない人間だ。個性がないのだ。無味無臭。突いても反応が無い。其処に存在していないのだと思うよ君は。空気のようだ。いや、空気はまだ役に立つ。君は役に立たない。なぜ生きている。生を与えられた意味がない。なぜならば君は変わらないのだから。生を返せ。死ね。
 確かに言われてみれば僕は何にも感じないのかもしれない。あなたから沢山の言葉を頂いても僕は何にも感じない。ということは、つまり、僕はつまらない人間なのだね。面白味もない個性のない無味無臭。良い言葉ですね。全くその通りだと思います。そして僕は存在もしていない。人間では居る者の存在はしていない。空気が役に立つ。その言葉には驚きました。僕は空気が役に立つなんて言葉を思いつきませんからね。だってそんなことを考えたことが無いので思ったこともないんですよ。そうなんです。僕は変わらないんですよ。ただ此処に存在しているだけ。ごめんない。存在もしていないんですよね。ならば僕は。存在していない人間。言わば透明人間のような者でしょうか。しかしこうやってあなたは僕を認識はしている。なので透明人間ではないですね。透明人間にもなれない、半透明人間だ。けれども世の中僕を認識していない人達が大半でしょう。ということは僕は存在していないのだから透明人間になることができますよね。意外と簡単ですね。透明人間になると言うことは。しかしこれはとても寂しいです。僕は目視できるし香りもするし気配も感じる。触れようと思えば触れることもできるが相手が怖がるでしょう。だって認識していない何かの存在に触れられるのだから。それはかなり労しいでしょうに。そして僕はこのように相手に対して同情ができる。相手はできません。僕は存在していないのだから。口に出せば出す程に嫌になってくる。ありがとうございます。僕を認識してくれて。僕は透明人間にはならずに、半透明人間のままここに居ることができました。
 その前に。何を言っていたのですか。誰ですか。何者なのですか。いや、何者かであるならばまだ身も心も構えることができるが、まずその何かがわからない。そこには何も無いことは確認できるのだがそれと同時に何かが頭の中へ纏わり付く感覚がある。雁字搦めだ。逃げる場の無い。生き地獄だ。俺は何年位生きているのだろうか。こんな事になるのなら初めから始めなければ良かったと思うが始めないと言う選択肢は俺には無かったような気がする。そんな一方通行の道中行き着いた結果がこれだ。こいつは何だ。俺が何かしたのか。俺は何もしていないだろう。俺は何にも興味がない。ただ普通に生きて普通に死ぬ。それさえできればそれで良い。何も求めていない。それなのにお前は、俺であろうとするのだね。怖い怖い怖い怖い。孤独の方がまだまともだ。孤独になりたい孤独にしてくれ。頭が痛くなってきた。この痛みが身体を伝って俺を衝動させる。変わりたくない。変わる必要など無いのだからこのままでいさせてください。
 誰かがいて、共に生きている感覚。今も尚纏わり付くこの感覚も、飼い慣らしてしまえば俺のものだ。俺を進ませるこの事象が何の仕業なのか、それは未だに特定できない。透明人間でも居るのかしら。もしいるのなら、僕達は常に一緒だから。君の瞳を捉えることも、抱きしめることもできないけど、僕は君だから安心しててね。僕は絶対に君の味方だよ。君が僕の味方のように。愛しているんだよ。

 抑制して解放せずに淡々と、今日何食うかとか天気が良いだとかいつもの毎日で生きる本能と、欲情して貪り傲慢に相手を黙らせる。それを強さと信じ潜り込む。これも本能で。これらの板挟みに存在している我々が頂点だと盲信して、野面で他人を騙し蹴落とす精神。人間的本能の輪郭が浮かび上がってきた頃。人間的本能、即ち本能への知性混入形態の誕生。自我の芽吹き。創造。
 知恵が、言葉が形成し可能性を広げた。知恵の実は、本能という数多の生物的要因で雁字搦めな知恵の輪を解き開示しようとする意志。自由への渇望を叶える為の肥料となった。試行錯誤を繰り返して、平和の拡張を実現しようと争い排除し残骸を隠し、燃やし火と共に神へ捧げるとしてのカガミのガ。即ち『我』を浄化し祈り纏めて真実を追求する意志の肥料とし、着飾り彩り香り付けして音は自然の赴くままに。音色の流れに身を任せ、自然との繋がりを創造して愛でて酔いしれて。憎しみ特有のどんよりとした重く苦しく纏わりつく氣に愛を練り込み波動をあげて突き進む意志。主観を武器に自由意志の旅へと向かう。維持。
 暴力とは無縁の破壊。衝動。ビックバン。収束からの膨らみを。無慈悲に息もさせずに呑み込み、真っ白に現実も夢も圧倒的情報と堕落と悟りを。皆を巻き込み自然の絶対的権力を最大限に淡々と、微笑み企み好奇心を踊りに躍らせ、衝動に身を任せ築き上げた砂の城を掻っ攫う引き潮の如く呆気なく無へと帰還する。絶対的な黒。認識されることのない闇。白黒の出逢う前の世界。イデアのカタルシス。無限。客体との衝突。破壊。
 それらは実に新しく、新鮮で、どこか懐かしく、赤子から今現在までを見つめる眼差しの純粋な光を放ち広がり包まれる和を誕生させることになるだろう。知性は創造を。知性と本能は維持を。本能が破壊を。本能と知性の衝突が創造した我が子を。創造維持破壊の和を楽しもうではないか。永劫回帰は愛の名称か。愛は永遠か。きっとそうなんだ。僕はずっと包まれていたいから、歩みを止められないんだ。

 杖を探している。右脚が酷く痛む。左手も異様に痒くて困っている。まだ山を下っているから良いのだが、登るには杖が必要だ。そしてもうすぐ麓へ辿り着く。
 勘でわかるんだ。細かく説明するのなら、風の流れや川の速度や空気の変容と景色の色彩変化など色々あるだろう。しかしそれら全てを説明しなくてもわかるのが勘だ。経過を観察する必要はもうなくて、結果がすぐに飛び込んでくる現象。勘とは知力の賜物で勘が冴えれば全て思い通りになるんだ。山を登るのに杖が必要だとすぐに閃くように、この先に麓があるとわかるように、幸せに満ち溢れているとわかるのも、勘が全て教えてくれる。
 貴方達はすぐに答えを求めてしまう。他人の絞り出した努力の結晶を盗人のように持ち去っていく。そして帰路の途中で、貴方の我が家への期待と高揚感からスキップして腕を振り回しながらいつのまにか結晶のことなど忘れてその辺に捨ててしまうんだ。確かに結晶は美しくて眼も心も奪われてしまう魔力を持っている。だけどどうしても貴方達は、貴方の我が家で昔から愛でて眺めている結晶を大事にするのだろう。いつしか盗んだ数多な結晶の美しさを真似て、我が家で育む結晶を自分好みに美しく完成させていくんだ。
 我が家の結晶が見つからない者は、一生懸命探したまえ。一生懸命探しながら、そもそも我が家にあるモノが結晶なのかどうかもわからないのなら、一度盗んで眺めて観察して捨てて帰り、我が家のモノと見比べての繰り返しの中で、君だけの結晶を確かめるのだ。結晶の美しさというものは決して簡単には手に入らない。だからこそ、簡単に答えはでないと本当はわかっているから、自分自身でしか出会えない美しさを知っているから、盗み得た結晶に価値など見当たらずに一度見れば忘れて今一度我が家の結晶を見つめ祈り、美しく素敵な出会いを叶えていくのだろう。
 貴方達は既に勘で舵をとりながら自分だけの物語を描いて幸福への道を歩んでいる。そんな自由を知っている。そして自由意志も心得ている。その意志に気づかずとも足は一歩一歩いつのまにか進んでいて、出会い別れを繰り返しいつのまにか新たな好きを発見し、気づき、感動する流れに心を任せることの術も楽も心得ている。意思などと言語化することがまず謎で、そんな心の奥底の揺蕩いを、今更再び見つめ直し分析する必要性など皆無で、流れに身を任せ、流行に住み着き、長閑な時を満喫しているかと思えば残酷な結末も受け入れて生きていける程の余白を知っている。君達のような人達は心の赴くままに既知している自由意志の基から踊り狂う好奇心を爆発させて、人様の結晶を眺め持ち去り捨て忘れ先へと進むのだ。
 自分の為に。自分の礎を築いた歴史などには目もくれず、罪悪感など辞書になく突き進む。それが普遍の世界で、既に知るも知らぬも無く産まれ落ちた時から、言うならば十月十日の腹の中で沸騰する羊水に煮立てられながら、この世に産まれることを挑み戦う心意気を蓄えることのできる防壁の中で、恐怖と意思と戦いを産声で示し、この世に産まれた君達は、海賊のように盗み得て選び捨てて蓄えて増幅し拡大して侵略して、自由に心の赴くままに舵をとりながら旅に彩りをつけながらも、凹凸のない真っ平らな平和を、真っ白な無の空を目指すのだ。知らない自分を知る旅の中で、一生懸命自分と向き合い、そして誰しもが幸福に包まれる権利を持っていることを知っているからこそ、生まれ落ちる以前を目指して進みゆき、ぐるぐると揉まれ流され歌い踊り笑っているのだ。いつしか死ぬと知っているからこそ生きていけるんだ。
 そして我が家がそもそもない者は、旅立つ自由があるのだ。誰かが言った。死ぬことは帰ることだと。誰かが言った。この世は偽りの世界だと。あの世へ逝くことは命の日と書き命日と読む。この世へ産まれることは言を延ばし生まれる日と書き誕生日と読む。我々は何かを伝えに来たのだろうか。その何かを伝える為に生を引き延ばして紡いでゆくのだろうか。
 知恵の実を喰い楽園を通報されてまで、伝えて守り発展させてゆく世界があるのだろうか。宿る宿命を見つける旅があり、その旅路の中で平和を目指し、知恵の実という名の言葉を、喰い、排泄して、また喰い進めて生きてゆき、再び一つになる日を、光そのものになることを夢見て希望を抱き、愛の螺旋を龍の御影と共に循環させる使命があるのだろうか。貴方だけの言の葉を見つけて、この世に色をつけ着飾り華やかに美しく咲き誇るんだ。あの世からの貴方だけの物語をもってして、この世がいつの日か諦め見限り棄てた我が子を、今一度一緒に咲かせましょうか。美しさはもうすぐ。既に得ているのだから。
 既に得ている未知の世界。持ち合わせていない愛を探すのか、既にある愛を育むのか。育みの中で出逢うべくして出逢う奇跡を信じてみることにした。無知を恥じず認めて、既知にしがみつかずに、回る回る森羅万象へ飛び込む勇気を得ることで、愛を探す旅へと漸く出られるのでしょう。さらさらと、清らかに、美しくと理想を抱きながら、息もできない程の嵐と大洪水に見舞われることもあるのが人生だろう。生きることが苦しくなることもある。だけど楽しいと言える術を探す。しかしそれは嘘なのではないかと真面目な君は悩みに打ち拉ぐだろう。
 誰かは言った。世界は真実に溢れている。朝があれば夜があり、止まない雨はなく、移り変わらぬ季節も、進まない時間も、朽ち果て滅びる想念はない。しかしこの真実溢れる世界の中で、圧倒的具体の太陽が放つ光によって、眼を閉じ闇へと逃げた者達が闇の中で生き抜く為の処世術として嘘を発明した。嘘なんてものは人間特有の術で言わばある種の個性である。それはつまり人間は嘘でもあると。嘘だらけの醜い世界で、気高く美しく生きていくのは孤独極まりないだろう。しかし、嘘を持ってして眼を見開き、真実との出会いに果敢に挑む姿にこそ、人間の生き様が映し出されるのではないか。影を恐れていては生きるという只それだけのことすら苦難である。夜に逃げても朝は来るのだから。眼を見開きそこに立ち、太陽を目指し歩き進む。影と一緒に太陽の全貌を味わいにゆこう。素敵な出会いが沢山ある。そしてもう出会っている。背後を少しだけ覗いてご覧なさい。影は常に貴方といる。
 陰と陽が愛でる我が子の、旅路での出逢い別れが生む摩擦の中で、貴方が僕を大好きなように、僕も貴方が大好きで。貴方の大好きが僕に伝わらないように、僕の大好きも貴方に伝わらない。だから私は喋ることをやめて、言葉を諦めて、思いに身を任せて、動き出すことにしたの。愛するということは実に静かで、だけど確実に漂い彷徨いながら熱を帯びる。貴方との摩擦の中で熱を得て、歩き進める活力を得たんだ。そして歩き続けた結果、僕はこうして麓に降り立った。陽射しが僕を照らし讃えてくれていて、おかえりなさいと言っている。広がる大地に甘え抱かれるように拡張してゆく川の水が、陽射しを得て喜びながら小さな虹を彩っている。小鳥が小気味よく鳴きながら空と踊り、蝶は魂の赴くままにこの世界を謳歌している。いつの日か、心の舵をとりながら、摘み蓄えた沢山の好きな花々が、蜜蜂と愛し愛され微笑んで野に咲きこぼれていた。こんなに綺麗な世界を僕は初めて目の当たりにした。僕は天国に来てしまったのだろうか。今はとりあえず、この世で少し休むことにした。僕は右足を引き摺りながら前へ前へと進んで行き、麓の中央に聳え立つ大きな木を目指し歩いてゆく。


 中学三年の頃、俺は学校というものが心底嫌いになっていた。退屈でくだらなくて破壊的な何かを常に待っていた気がする。只待ちながら呆然と呼吸をしながら暇を持て余していた。
 この頃には停学を数回経験していた。停学となった際、俺以外にも捕まった人間はいたのだが俺だけ罪状を追加されて停学期間を延ばされていた。そして一人だけで停学を開けた日が体育祭の当日であった。鬼畜極まりない学校だと思った。体育祭には集団競技が決まってある。この学校ではクラス対抗の百足競走と言うものがあった。十人程で縦に繋がり足を布で縛り付け合って前方の人間の肩を掴みみんなで掛け声と共に百足のようにグランドを駆け回りゴールを目指す競技だ。恐らくみんなは俺が停学期間中のニヶ月間で練習を費やして、どのクラスよりも早い百足になろうと努力してきたのだろう。そこに停学中も大して反省してたわけでもなくて、家の近所をふらふらと彷徨いながら途方に暮れて退屈な惰性を揺蕩いぼけーっと空を見上げて鼻をほじり欠伸をしながらケツを掻いていた奴がいきなり参加して彼等の努力に釘を打つようなものだった。そしてこの学校は、俺は停学では反省をしないと予想してこうなるように仕向けている。恥をかかして輪を乱さして停学を明けてこれから進学する最中でも尚、反省をさせる為に仕向けた、作りやがった物語だとわかったんだ。そうわかってしまう程に彼等は彼女等は異分子を嫌っていた。しかし俺からすると君達の方が異分子なんだ。君達とは生徒達だけではなく教師も保護者も値する。君達は蟻と変わらない。自らの翼に目を向けない君達は蝶にもなれず蜂にもなれず、手を取り合って秩序を作り秩序に護られて秩序に従い傷の舐め合いをしている。その傷とは何か。それは翼を躍動させない現実に静かな絶望を抱いた君達の心が、裏切り者の君達自身に対して働いた報復そのものだろう。盗人な君達は盗み得た物を忘れて自分だけの結晶を愛でればいいものを、盗むという行為に優越感を憶えてしまったが為にいつのまにか我が結晶を育てることを放棄して、盗みに盗みを働き盗みに生き甲斐を見出して喰い繋いだ結果、君達の好奇心は略奪へと走り空を目指すことを忘れて陸続きを経て海へと渡りバイキングとなり、翼は鎧となり自由を失い無責任を愛し無責任同士で争い犯し奪い怯えて業を背負い、隣人に背負われ励ましあって輪になって踊ることを覚えて蟻のようにせっせと働き勤勉を美徳とする術を得て、創造を、旅を放棄したんだ。何故に君達は持ち合わせている翼を使わない。何故に君達は翼を広げずに留まり続ける。俺が求めるそれを持ち得ながら惰性を満喫しているのかが俺にはわからない。持ち得てしまっているからこその惰性なのだろうか。俺にはまだ翼を失った痕跡が残っていた。ずきずきと痛み傷口を触れてみれば何かを思い出して、空を見上げて空白の記憶に想いを馳せて黄昏れ待ち望んでいたのだ。俺の居場所はここではない。そして探し物はここにはないとわかっていたから、抜け出したかった。
 皆が百足になっている頃、俺は学校を抜け出していた。この日はもう学校に戻る気をなかったので普段行ったことのない場所まで散歩することにした。学校へ来る際に乗っている電車で、制服を着た別の中学校の奴等の学校を見つけた。同じお寄り駅だから近いとは思っていたのだが、案外離れたところにあった。制服を着た人達が沢山いる。なんだかとても楽しそうに見えた。記憶の蓋を閉め直す。そのまま向かうんだ。何処へ辿り着くのかはもう知らない。ここではない。それがわかっているだけで十分過ぎる程の燃料ではないか。
 歩き煙草をしながら誰もいない道を歩いていく。知らない道を歩くのが好きだった。誰かと共に歩くのではなくて、一人で歩くのが好きだ。自分のリズムと歩幅と気まぐれで知らないを開拓するのが好きだ。変わり者だとか気狂いだとかよく言われるが、別に嫌な気分ではなかった。だってみんなそうだろうと思っていたから。つもりみんなそうだから、俺は嫌な気分にはならなかったのだろう。自分の理解が及ばない者や物やことを、自分とは違うと差別化することによって生じてしまう孤独感に堪えられなくなったその末に見つけた処世術が、自分以外を、なんなら自分すらも理解しようとすることが傲慢なことで、わからないはわからなくて良くて知りたいのかどうでもいいか、只それだけを指標に生きていたからだろう。俺は入学当初からこの惰性な生き物達を知りたかった。彼等を彼女等を知ることは自分を知ることに繋がるかもしれないと思ったからだ。好きになることはなかったが嫌いを知ることによって俺は俺自身の輪郭を確認していた。輪郭を知りようやく歩けるようになったのだ。だからもう、なんと言われてもどうでもよくなっていた。だって俺は知っているのだから。生まれながらにして持っている自分の歪んだ輪郭を。
 翌日学校へ向かうと直ぐに担任の先生に呼ばれた。昨日はどこに行っていたのかと問われた気がするが適当にあしらって教室へと向かった。教室の扉を開けた瞬間こちらを見遣り止まってしまった会話を必死に続けようとする女達がいた。自分の席へ座りバックを机の上に置き枕にして寝た。相変わらず五月蝿い教室であった。ここから昼休みまでこの騒音の中居続けることが苦痛であったのだが、授業が始まると静かになるので俺は一限から昼休みまでぶっ通しで寝続ける毎日だった。
 昼休みに入り教室を出る。甲高い声がうじゃうじゃと沢山の教室から聞こえてくる。階段を降りて校庭を通る。校庭のベンチ。売店横の食事スペース。花壇の縁。体育館前の段差。色んなところで色んな男女が犇めきあっている。校庭を通り過ぎて校門へと向かう。しれっと校門を出ていき路地を歩いていく。歩き煙草をしながらアパートへと向かう。階段に腰を掛けて壁に痰を吐き痰の付いた箇所で煙草を消す。黒い消し跡が斑にコンクリートを彩っている。誰かがこちらにやってくる。
「お疲れ様です」
 龍樹が来た。俺の一個下の後輩だ。中三になり遊び相手のいない俺と遊んでくれる後輩。しかし後輩と言っても同級生となんら変わりない付き合いをしている。彼は中ニの夏に転校してきた。地元が相当荒れていて、それを心配した親父さんがこの学校に転入させたらしい。本人は全く来る気がなかったが、なんとなく流れでテストを受けたら受かてしまったものだからこの学校に通うことになった。元々いた学校では制服だったがこの学校では私服のため何を着たらいいかわからなく、寅一のドカンを履いている。転入初日からそうだった。俺もドカンではないが親父の作業着を履いていて、どこか親近感が湧きそこから仲良くなった。
 彼は悪知恵を沢山知っていた。勿論煙草は吸っていたし酒も多少は呑める。何よりも原付の盗み方を知っていた。直結と言い、フロント部分をドライバーを使い開けて鍵の裏側にあたる数本のコードをハサミで切りゴムの部分を切り捨て金属だけにする。その金属を捏ねくり回して接続を繰り返しているとテールランプが光り、光った状態でキックスタートをするとエンジンがかかるのだ。この方法で学校周辺のアパートの原付を夜な夜な盗んでは人気のない場所へ移動させて直結させて乗り回しては捨てを繰り返していた。ある日の昼休み、いつものように周辺のアパートへ今夜盗む原付を探していると、全てのアパートと言っても過言ではない程に貼り紙が貼られていた。内容は、窃盗が流行ってます。監視カメラをつけました。見つけ次第警察に通報します。などの貼り紙が貼り出されていた。もう盗める原付は無くなってしまったとニ人でしょぼくれながら歩いていると、目の前に区民館前で停車しているオレンジ色のトゥデイがあった。龍樹は俺に目配せするとニヤニヤしながらトゥデイの方へ足早に向かって行く。よく見ると鍵がつけっぱなしの状態で停まっている。龍樹はトゥデイのバイクスタンドを外しそのまま前方へ流れるように進み鍵を回しセルスタートを切り、そのまま遠くへと行ってしまった。俺は笑いが止まらなかった。あいつはどこか捻子が飛んでいると思った。ポケットに手を突っ込み笑いを堪えながら区民館前を通過する。中を覗いても誰もいない。自動扉に反射する俺の顔は生き生きとしていた。そのまま同じリズムで龍樹が消えていった道をなぞり向かった。
 電話が鳴る。龍樹からだ。丁度いいアパートがあったからそこに停めているということだった。俺はそのアパートを探した。学校から数十メートル先のアパートだった。俺はこんな近くに停めて大丈夫なのかと不安に思ったが、龍樹は一切そんな素振りを見せない。むしろ駐車場が近くにあって丁度良いと言わんばかりに堂々とトゥデイに跨り煙草を吸いながらニコニコと笑っていた。その笑顔が移り笑みをこぼす俺がいた。その日からこのアパートが俺たちの溜まり場になった。毎朝学校の最寄駅に着くと龍樹がトゥデイで迎えに来る。後ろに乗り時には俺が運転してこのアパートに停めて通学していた。あまり学校の連中に見られないような道を選んではいたが、それよりも運転するのが楽しくて異様に遠回りをしながら通学していた。明らかに遅刻が減り、高揚しながら通学する俺に驚く教師達を覚えている。
 数日経った頃、龍樹が地元からカラースプレーを持ってきた。そのスプレーでオレンジ色のトゥデイを真っ黒に塗装した。そして俺が持っていたスケボーのステッカーを貼り見たこともない支離滅裂な姿に変貌を遂げたトゥデイで吉祥寺の街を乗り回していた。俺は昔から暴走族に憧れを抱いていた。父と母の昔話には決まって暴走族が出てきていたからだ。美化された話に心を踊らしいつしか憧れを抱くようになったのだ。しかし今だからわかるのだが、暴走族に憧れていたのではなくて、誰かと、心から楽しめる誰かと一緒に、秘密な世界を求めていただけなのかもしれない。淋しく苦しく侘しく怖く切なく笑えない世界では誰かが必要だったのかもしれない。残酷な現実に蓋をして、閉じ籠り暗闇に隠れることしかできなかった。記憶に蓋をすることで目を閉じ眠り、夢と妄想に縋り居座りあぐらをかいて、歩み進める人達を小馬鹿にしていた。歩み進めるより手前の産まれ落ちた瞬間に俺は大きな怪我をしている。ならばいっそ始めるよりも、一から始まる旅よりも、孤独の零で居続けようと、自らを護り逃げて幻想を創り自分は達観していると斜に構え、歩き進める者達とは戦わずに耳で眺めていた。だけどやっぱり自分の居場所は探していた。安らぎと平和を欲して木に登り、空を眺めて黄昏ていた。不恰好なトゥデイが吉祥寺の街を走る。不良にもなれず優等生にもなれず、夢も追えず真実は隠されて未だ自分のことなど知らずに、謎と矛盾と理不尽に抗うことすらも諦め認めて負けて逃げて逃げて逃げて、それでも消えない灯火を糧に俺は只彷徨い生きていた。吉祥寺の街。確か吉祥寺だった気がする。僕にとってあの街は監獄か、養鶏場のようなものだ。それでも俺は空を飛べるはずだと、バタバタと無様に滑稽に翼の残穢を動かし続けていたのだ。真実は、時間は、刻一刻と迫ってきていた。逃げきれはしないのだ。

 中学三年の仲秋。
 昼休み。いつものように学校を抜けてアパートへ向かう。何か甘いものが食べたかったのでコンビニに寄った。まだ外は暑かったがアイスを食べたい気分でもなく、お菓子売り場を物色していた。
 自慢ではないが俺は万引きをしては来なかった。同じ学校の騒がしい連中で万引きを常習的に行う輩が蔓延したことがある。なぜか知らないが俺までも万引きを行なっているのではないかと疑いをかけられたことがある。遺憾極まりなかった。万引きをしたということではなくて、その連中と同じ類にされたことが異様に嫌だった。吐き気を催す程嫌悪していた連中と同じにされたと思った俺は疑いをかけてきた教師に異常な反感をみせた。この糞教師は人を区別する能力のない馬鹿なんだと思うことで心を落ち着かせる。白か黒でしか人を見れない酷い色弱持ちの脂眼鏡。普段から紙と文字ばかり見ているせいで眼が機能しなくなったのか心から色が抜けたのかそもそも連中と同じで個性の乏しい単色一辺倒な量産型ザクなのだろう。その違いは旧型か新型かでしかなくて要するに渋谷や新宿に転がる大量のごみ袋だ。しかしここは吉祥寺。渋谷新宿へ行けばお仲間が沢山いるのになぜに行かないのか、それは渋谷新宿のごみ袋が吉祥寺に転がることである種の輝きを保てるからなのだろうか。一様な猿。ここで施される食事という学びは味気の無い質素なものばかりで俺を突き動かす程の刺激物は含まれていなかった。空腹と渇きの道中で添加物でも良いからとコンビニで毒を物色していた。
 その時、コンビニの自動扉が開いて何かが素早く入ってきた。そこには誰もいないが開いた扉と鳴っている入店音。何が来たと思った俺はコンビニの中を探した。1人の男がしゃがみながらカップ麺コーナーを眺めていた。そしてその男は俺に気づきこちらを振り向く。元太だった。
「なにしてんの」
「お腹すいちゃってさ〜。弁当だけじゃ足りないよ」
 元太はスーパーカップのカップ麺を手に取りどこかで一緒に食べようと言う。俺も適当なカップ麺を買いお湯を入れていつもいるアパートへと一緒に向かった。向かう道中、元太はキョロキョロと周りを気にしていた。誰かに見られたらどうしようと言いながらも明らかに楽しそうにニヤニヤしていた。
 アパートにつきカップ麺の蓋を剥がす。いただきますと手合わせすごい勢いで麺啜る元太。熱いのだろう。涙目でハフハフとしながら麺を頬張る。
「うんめぇぇ〜」
 そんなに美味いものなのかと思いながらも隣で共に麺を啜る。確かにいつもより美味かった。特に喋る必要もなく、一心不乱に麺を食す。この時間帯で誰かと久しぶりに飯を食べた。場所や食べ物は適切ではないのかもしれないが、共に飯を頬張ること。それだけで満たされる何かに触れた気がした。食べ終わり煙草を吸う。元太はスープを呑んでいる。真上を向きカップを最大限傾けてスープを呑み干す。ご馳走様でしたと手を合わせ、満足気に息を吐く。
「一本くれない?」
 いつもの流れのように俺から煙草をもらおうとする。自然過ぎていつも俺は元太と煙草を吸っていたのかと疑問に思ったがそんなことはどうでもよくて鼻で笑いながら箱ごと元太に煙草を渡す。セッタースフトの開け口に指をほじくり入れながら一本取り口に咥えて俺の方に煙草の先を突き出す。火をつける。慎重に肺へと煙を入れていく。今回は咳をしなかった。
 一息つきながらテレビで元太を観たことを告げだ。話すことがそれ位しか見当たらないからだ。溌剌とした表情で「ありがとう」と言われた。意味がわからなかった。共演者の女とはやったのか、気合いの入った男はいるのか、そんなことしか聞けない自分の言葉の引き出しに沸々と嫌気がさす。
 アパートの駐車場に向かいトゥデイを持ってくる。元太は「そのバイクはどうしたの?」と興味深く聞いてきた。自分のものだと言わんばかりにエンジンを吹かし一緒に乗ろうと伝える。流石に怖気付いているように見えたが、好奇心に駆られてその好奇心の赴くままに、流れに身を任せることを自分自身に許した君は、瞳を輝かせて僕の背後に移動してバイクに跨った。手の置き場所を探している。どこを掴むのが安全なのか正解なのかを手探り探している。僕の腰を掴む。スロットルを回し走り出す。
 アパートを抜けて街へと向かう。徐々にスピードは上がっていき、腰を掴んでいた手は俺の腹まで覆い腕で抱き締めている。住宅街を無心に走り抜ける。視野は狭く鮮明になり、まるでトンネルを走っている感覚だった。井の頭公園の香りが僕を唆しスロットルを手前へと捻り込ませ風を切り街へ街へと急がせる。もうすぐだ。もうすぐで俺の日常へこいつを連れて行ける。もうすぐで、同じ歳の心を許せる人間とあの街で共に時間を過ごせるんだ。その刹那
「こわい」
 重い。重い言葉が背後から、消えそうに震えながら凭れ掛かる。俺はブレーキをかける。身体は前のめりになり元太が凭れ掛かってくる。停車する。停車したことに気づいていないのかまだ俺の腹を抱き締めている。沈黙。トゥデイのエンジン音と雑念が彷徨い混じり失望が覆い被さってくる。俺は、僕は、またしでかしたのか。何をしでかしたのかはわからないのだが、どこかの過去で同じ過ちを犯している。
「こわい」
 この一言はよく聞くし聞いてもないが聞こえてくる毎日であり最早そう言われてることにより言葉の意味は機能しなくなり普遍化してきていたここ数年である。俺は自分ではわからない程に目つきが悪いらしく人相が暴力的で関わることを躊躇されてしまう。しかし時にその凶暴性が好きだとか言ってくるマゾ気質な女も男もいる。そして時に見せる笑顔や無邪気さがギャップだとかなんだとかごちゃごちゃと吐かされることもある。自ら選べない見てくれと環境に翻弄されることに惨めさを覚えた俺は他人からの評価や物差しに対抗すべくこちらからも見つめ威嚇し口もきけない程に空気で圧迫することにして、環境からは逃げられないとわかりつつも常に好奇を探りながら沸々と脱却の準備をしている。瞳を機械化し耳を閉じ勝機を探り続けている俺は常に自己との対峙の毎日で負ければ外側に支障をきたすがそんなことどうでも良いと腹を括り生きている。母への痛みも然り人など産まれながらにして人様に迷惑をかけて生きているものだろうと諦め自らに説き伏せてきた僕は外側に溢れる喜怒哀楽など普遍的なことであった。故に誰からの言葉も思いも知らないしどうでも良く迷惑極まりないと思っていた俺が、元太の発する声に呑まれた。「ごめん」などという謝罪ではなくて、彼の潜在的に秘める純粋無垢な何かを傷つけてしまったのかもしれない罪悪感が即座に俺そのものになった。
 罪悪感というものは知っていた。幼少期の一言一言が罪悪を纏う一言二言だった。自由に思うがままに話したことはない。一度だけ挑戦で晩飯を作った父に、少し味が薄いかもと言ったことがある。それは只の好奇心でいつも美味しくて幸せな毎日とする幻想に退屈してきていた俺は、傷口に塩を塗り痛みと引き換えに幻想を終わらすことを望んでいたのだろう。ではもう作らないと言われた俺は酷く哀しくなった。では感想を聞くなとも思ったのだが、ごめんなさいと謝罪をするのと同時に自分の無力さを呪った。物心が着く前から他人と喋らない子供であった僕が、小学ニ年になり父が家族三人の家を買い婆ちゃんを一人暮らしに追いやり、やりたくもない水泳と喘息治しでサッカーに通わされて怪物達に揉まれて水泳教室では虐められてサッカーでは必然的に怪物と対峙せざるを得ない毎日の中で哀しみと憎しみを思い出し、闘争心と好奇心を覚えた俺が初めて家族に向けて放った答えだった。外で練習を重ねて家で答え合わせをする日常。そもそも家が外で、では外とはなんなのかを探る運命なのだろう。
 周囲は画一した二元論を有しており短絡的な判断と余すことのない直感そのもので日々を謳歌し楽しいを知り快楽へと昇華している。発情周期に達した植物達が辺り一面に花粉をばら撒くように、時期になると貴方達は僕の苦手な香りを僕の周りに纏わせ、嫌な湿り気で悉く僕を溶かしてゆく。その時期とはいつかと聞かれれば明確には答えられないのだが、集団的な地鳴りと呼応するように放たれる空気が僕には見えるんだ。花粉と違いそれらは年間何百回も起こり街そのものがまるで一つの地球に思える程に発生している。世の繁盛気とされる時期とよく呼応している。その空気を僕は嫌な程に感じて呑まれてしまうのだ。爛れた身体を引き摺りながら漂流した家族の中で今も尚消えない痛みを忘れたくて更なる痛みを重ねて覆い隠しながら生きていていた。そして漸く傷を受け入れて初めて治すことを目指して僕も混ざり合い楽しく踊ろうと思い新しく歩き出そうと決めた小さい芽吹きを、それを否定された気がしたんだ。愛でて育み共に旅へと出掛けたい。初めてこれから出逢えるのかもしれない美しさらしき万象に一喜一憂したのだ。頑張ろうと思ったのだ。たかが小学ニ年生に味の巧妙さなど語ってほしくなかった。五月蝿かったんだ。その五月蝿さと馴染もうとしたんだ。風情の一員になりたかったんだ。
 その日から家族三人で飯を食べる時間が嫌になってしまった。成長したい自分の首を絞められている感覚が常にあった。しかも呼吸はできる程度に。今も尚、これを読まれたら首を絞めているその手を一気に強く締め上げて俺は殺されてしまうのだろうかとすら思えてしまう。感謝と大事な人ということは揺るがない。だがトラウマが多いに蘇るし僕も付いてきてしまってごめんなさいと、どうしてもまだ思ってしまうんだ。それは父だけでなくて世界そのものであり僕自身の思い込みでもあり思い込ませた栄養と添加物だらけの幻想だろう。くだらない。俺はなんてくだらないのか。こんな馬鹿はどうにでもなれと未だに世界を拒絶していたから罪悪感など知っているだけで呑まれたこともなかったのだ。
 しかし元太の言葉は違った。俺は運動神経が良く体力測定でも常に上位だった。反射神経が良く意識をしていなくても身体が勝手に反応してくれる。脱力をして呼吸を整えて構えていれば見えて反応できるし反撃もできる。只この状態を保つ為の度合いがこの当時は今よりもわからなくて、常に多感で緊張している毎日だった。だから一人の時間がなければ休むことができないので単独行動を好んでいたのだろう。そして龍樹や元太のように脱力した状態で一緒に時間を過ごせる人間との時間を好んでいた。そんな時に放たれた元太の畏怖を纏う言葉に反応ができなかったのだ。君との時間では多感で居る必要もないし緊張など存在しないから、僕は君の緊張を受け止めきれずに呑まれたのだ。時が止まる。初めて昼休みの時間帯に駐輪場で君と会った時もそうだった。君は僕の時を止めることができる。あの時はまだ思考を働かせることができたのだが、今回に限ってはもう何もできなかった。
 トゥデイのエンジン音。アスファルトと擦れる枯葉の音。震える君。やるせない心。俺はそのままUターンをしてアパートまで戻っていく。昼休みを少し過ぎてしまった頃だろうか。バイクから降りた君は笑顔で僕に手を振る。
「ありがとう」
 そう言い残し、学校へと還ってゆく。

 大きな桜の木下で貴方とわたし、楽しく遊びましょう。大きな桜の木下で、楽しく一緒に靡きましょう。大きな桜の木下で、貴方と私は手を繋いで眠りましょう。時がきたら目を覚まし、貴方が眠っているのなら、起こさずそのまま黄昏ましょう。
 鳥の鳴き声。ゆっくりと眼を開ける。僕は胸に手をあてた。穏やかな心臓の律動。せせらぎに抱かれる。踊る風に靡く髪の毛と、僕も混ぜてと靡く長い睫毛。安らぐ心がここにはあった。真っ白な空ばかりを見ていたんだ。通り過ぎた者、引き返した者、恐らく僕に呼びかけていた者。僕の周りには彼等の、彼女達の足跡が残っている。思い出せないしそもそも思いを受け取ることもできなかったのかもしれない。彼等彼女達を抱きしめられなかったのかもしれない。僕よりも私を知る貴方達の愛を拒み蓋をして隠れて近づくものならば攻撃するようになってしまったのかもしれない。過去の経過に感謝と揺蕩いを引き連れて、山を登ることにしたんだ。
 眼を閉じ空気を味わいゆっくりと息を吐く。ゆっくりと眼を開ける。頭を上げる。首が座り空を見上げた。夕焼けの残り日が迎え入れるオレンジ色の空を、一匹の烏が西の山を目指して飛んでゆく。優雅に迷いのない姿で自由にあるがままに突き進むのだ。近くで見るには生々しい黒を纏い聡明な瞳でこちらを覗く凛とした闇が、空と夕陽の中へと飛び込むこの世界そのものが、只々美しかった。僕も行こうと思った。立ち上がるんだ。立ち上がり、全てを背負い歩き続けるのだ。君はもう進める。痛みも後悔も歪みも忘れられる程に君は強く生き続けてきたのだから大丈夫だ。そしてもう君は一人じゃない。君は逃げずに向き合い続けてきたから、誰も出逢えない唯一の美しさを纏っている。上を向いて歩こう。山々が歓喜している。眼を瞑ろう。僕もいるから大丈夫。深く呼吸をしてみよう。君は大地と繋がっている。


 晩夏。

 昇る。何を書こうか。何を物語ろうか。僕は何も知らない。知らないことが、余白が空白が、僕に愉しみと微笑みを授けてくれる。どんな色でも良くてどんなことでも描いてみたい。そしてこれからの出逢いにまだ少しだけ緊張を隠せないけど楽しみだ。なんならその緊張すらも僕の背中を押してくれる。少し前の僕が持つ緊張は僕の後ろ首を引っ張り首を締め付け息苦しかったものだが、今共にいる緊張君は背中を支えてくれていて、いってこいと優しく押し出してくれる。僕はわかったと了承しながら笑顔を溢すのだ。
 空気が美味い。木々と木々を支える大地と空と、木々に甘える万象の彩りと香りが、今僕がもう既に山道にいることを忘れさせてくれて、只ひたすらに道中を楽しませてくれる。冬景色の山とは違い、靄は晴れ希望の手招きに身を委ねることができている。
 あの頃は、記憶がない。無我夢中に逃げていた。しかし、今この瞬間の甘美滴る一歩を踏み出す為に僕は逃げ続けて来たのだ。逃げなければ死んでいた。只それだけのことではないか。人間は逃げることを躊躇う生き物だ。動物は本能で逃げることを躊躇わず行うが、人間だけが躊躇を覚えて闘おうとするという。しかしそれで良いのだと僕は思う。その躊躇から生じる間と葛藤と思考停止の渦中で繰り広げられる自我との対話が人を人間へと向かわせる術と僕は捉える。
 旅立つ。自我との対話。鏡よ鏡よ鏡さん。世界で一番美しいのは誰。鏡に写る貴方こそが、世界の望む姿なのだよ。鏡を眺める貴方は自我の主張を介入させない。仮にさせるのならば、間と葛藤の枯渇と情緒の波を恐れて飛び込めない貴方の弱さを浮き彫りにさせる世界に対して日頃から助けを乞う貴方の甘えそのものだろう。あるがままの姿で鏡に写ること。勇気と降伏と願いと共に、映し出される覚悟と諦めを。君はとても疲れている。そして酷く汚れている。蝿もたかり蛆まで湧いている。しかし懸命に生きている。生き様を君が愛さずして誰が愛する。常識に施されて護られて生かされても埋まることのない穴があるのだろう。虚空を見つめ続ける勇気と飛び込む覚悟が君には備わっているのだろう。活かすんだ、備えている肝を。何かを得るには何かを捨てなければならない。何かを捨てたのならば何かを得ることができるのだから、蓄えた嘘も涙も嘆きも辛さも憧れも棄て去り、真実そのものとして存在しよう。常識に呆れ果てた先に待つ感動という果実を食べたいと思わないかい。世は夜は余は冒険する。愛も憎しみも浴びて纏って祈り落として歩き続けるんだ。必ず切り開き煌めき閃きの連続が貴方を自由にしてくれるよ。カガミの我を取り除く。神様がいるのなら、心の中にもいるはずだ。鏡に写ろう。神様に映し出されよう。我のない君は神様そのものだよ。昇ってゆく。昇華されてゆく穢れと闇が光そのものへと戻ってゆく。僕達は元々は光そのものだったんだ。神々しく照らし与える愛そのものだった。この世を愛する光だった。何も求めず有償も無償も善悪も何もない空であった。この世で歎き悲しみながらも挑み笑い生きぬく者達へ愛を伝えにやってきたのだ。それは決して人だけではなく、君が愛した動物も歴史に淘汰された文明も、間伐した湖も砂漠も、穢れながらも耐え忍ぶ海も山も地球も全てに愛を伝えに来たんだよ。その旅路の途中で天使となり、この世に生まれ降り立った神様なんだ。
 僕の中には天使がいた。だけどいつのまにか悪魔になっていた。神様のことは天使よりも知っている悪魔であった。光そのものであった自分を知ることができたからだ。なぜか。悪魔になれたからだ。だから神様がいることがわかるんだ。天使を妬み恨み羨ましかった。許せなかったんだ。母の痛みは僕の痛みだ。恨みを蓄えて生きる旅路の中で僕は我が子を悪魔にしてしまった。苦しかった。身体は成長していく。心は荒んでゆく。荒々しく吹き乱れる嵐の中に僕は我が子を置き去りにしていたんだ。この子はなにも悪くないのに、僕が悪魔としてしまったんだ。我が子を置いて物質に逃げて装飾し現実から逃げて逃げて言い訳を探して探して見つからずに、酒と女と金に顔を埋めて、虚栄心をぶくぶくと育てて、好き嫌い良い悪い有るだの無いだのと瞬きすれば移り変わる、忙しなく迫り来る終わりと始まりの破壊と創造の渦中で、脚を進めればぐるぐると回り続ける歯車の中で、どうにか満たそうと頑張ったんだ。
 何故。只生きたいという欲求だけだった。あまりの谷の深さで我が子を見るのが怖かった。だけど一人は淋しくて、魂は背後に隠しきれなくて、崖から谷の向こうの我が子を眺めていた。そして僕は飛び込んだんだ。欲深さに呑まれて深淵に育てられて僕だけの奈落へと潜り旅立ち今は山を登っている。
 おい。最も近しい血縁の男よ。お前この子に何を言った。耳元で何を囁いた。お前は、お前は、 俺を呼んだ。うん。それで良い。それで良いです。ありがとうございます。僕をこの世に呼んでくれて。お母さん。僕をこの世に産んでくれてありがとう。お父さん。僕を愛してくれてありがとう。僕は創造に眼を向けた。そしてこの愛の結晶を紡ぎたい。だから僕は、ご縁と因果を、運命を宿命を、そして今ある愛の螺旋に乗れたことに心から感謝しています。愛しております。登るんだ。今はそれでいい。空は近い。

 中学三年。冬。
 雪が降っている。雪が降り積もる井の頭公園を一人歩いている。滑り転ばないように、確実に一歩一歩進む為に、歩幅は狭いが降り積もる雪をしっかりと踏みつけて歩いている。
 もうすぐで中学が終わる。寂しさはない。やっと報われる気がしていた。親父からは高校だけは卒業しろと言われていた。なぜかを聞く気力はもうこの頃はなかった。どうでもいい。それだけだった。やっと解放される思いだった。停学が明けて、次何かをしたら退学処分が決定していながら、俺は同学年で政治家系の息子の顔面を引っ叩いた。その時俺は指輪をしていたから、指輪で人を殴るとどの程度の効果があるのか気になった。只それだけの動機だった。しかし殴りたい奴ではあった。彼の母は僕の母を傷つけた。今まで仲良くしていたにも関わらず複数人で母を除け者にしたんだ。何故そんなことをしたのかはわかっていた。別のドラ息子も俺は手をかけたからだ。生意気に反発してきたから呼び出して引っ叩いた。そしてそいつの彼女が親に言い、連中は徒党を組み母を孤立させた。即ち俺が母を孤立させたのだ。俺はその罪を擦りつけるように彼までも殴ってしまったのだ。鼻血が止まらなくなり周りが騒ぎ出した。学校側にバレると思った俺はそいつの襟首を掴み話しが有るとだけ伝えてトイレに連れ込んだ。その場で思いを組み立て物語を創り旨を伝えた。物語の創造が容易かった。すると彼は、親と自分は関係ないと言うのだ。しかし親からすれば関係のあることとしたいと思っているから俺の母を除け者にしたのだろうと思ったが、兎に角学校に告げ口されると困るので彼の思いを尊重して、このことは俺達ニ人だけの話として纏めた。
 トイレから出ると騒ぎを駆けつけた教師が俺を呼びつけた。何があったと聞かれたが手がぶつかり鼻血が出てしまったから一緒にトイレで血を洗ったと伝えた。彼も事情聴取されたみたいだが口を割らなかったのだろう。俺はなにも罪を問われなかった。教師に唆されて口を割らない人間を初めて目の当たりにした。大抵の奴等はちんころ野郎ばかりだったが、彼は約束を守ってくれた。俺は彼に赦された。そんな強い彼に手をかけてしまったことを後悔しながら井の頭公園を一人で歩いている。
 心の穴が確実に深くなってゆく。真っ暗な景色。それと相反する雪景色を否定するように一歩一歩強く深く踏みしめてどこかへ向かう。この頃龍樹は腹を割って話せる同級生ができたらしくその子達と連んでいた。元太は別の高校に行くらしく受験勉強で忙しかった。そして僕にも、数人だけたまに一緒に居てくれる友達のような人達ができていた。しかし彼等は僕との時間とは別の時間を共にする仲間もいた。息抜き程度にたまに一緒にいてくれる。それだけでも嬉しかった。
 真っ白な井の頭公園を歩く。歩く度に雪に埋もれる靴の感触が面白い。煙草に火をつける。煙を肺へ運び身体に馴染ませてから吐き出す。寒気で吐息は白くなり、煙が無限に口から出てくる。寒波が鼻腔を突き刺して頭が痛くなりぼやける視界。耳鳴りに包まれる。意識が真空を彷徨い始める。真っ白い景色。真っ直ぐに真下へと、僕の頭上へと、鈍く煩わしく接触してくる重い大粒な雪が僕を堕とす。停滞した流れへの抗いを諦めて、首筋をこの世へと差し出す大きな池が、僕の一太刀を待ち侘びている気がした。このまま飛び込んでしまおうか。この大きな首を断ち切れるのかわからないが、飛び込み楽にしてあげたかった。一緒に楽になりたかった。膝から崩れ落ちて跪いてしまった。膝から上が地面へ落ちるのを僕の腕は止めるのだ。
 真っ白な空ばかり見ている。憂いが虚無へ縋り項垂れてる。無に色があるとするならば、それは今降り積もり続けている雪の色ではないだろうか。ここから始まるのか終わるのか、はたまた眠り目覚めるのか。何をどうすれば僕は心が笑うのか。雪が重くてもう土へ還りたい。だけど僕はまだ、真っ白な空を見続けている。
 俺はどうしたいんだ。言葉も視線も想いも好きも常にあべこべになってしまう。死にたいけど生きたい。泣きたいけど泣きたくない。朝に眠り夜を眺める。忌み嫌う事象に向き合ってしまう。逃げるべき時に逃げずに逃げては駄目な敵から逃げている。弱さを強さと信じている。真っ直ぐに真下へと、渋味のある泪が、真っ白な空に穴を開ける。僕は穴を深く深く掘り続けている。溶けろ、無くなれ切り開けと果敢に当てもなく途方に縋りながらも闘い生き永らえている。僕は遠い昔に疲れなど忘れてしまった。疲れたなど思うだけ無駄なことを心得ている。黙って生き続けることを遠い昔に決めたのだ。嘆いても変わらない現実を味わって来たのだ。頑張るから出逢いたい貴方を抱きしめたい。それだけを指標に歩き続けている。だけどもう、流石に棄て去りたい。身も心も投げ捨てたい。その筈なのに、抗い続ける身と心がある。もう疲れてしまったのだろうか。
 辺り一面が煩わしい。諦めた世界がぶつぶつと話しかけてくる。停滞していながらもぶつぶつと話しかけてくる。なにを求めているのだろうか。動かない、何もしない、歩かない、進まない、そのくせに口だけは達者で感情までも露わにして御託を並べて冬に埋もれて眠っている。なにを求めている。そして求めるのなら行動しろ。そう伝えれば泣き喚き、愬え混じりの眼差しを放ちながらだんまりを決め込む。面倒極まりない。本当に五月蝿い。静かにしてても騒がしい。
 ああ。うん。わかりました。貴方達は、そして私達は、僕は、ああ、うん。
 僕は春を待ち焦がれている。春を、始まりを欲している。心の踊る春を、楽しみ香る春を、聴こえる春の微笑みを、始まり終わり、咲いて散りゆく諸行無常の彩りを待ち焦がれている。だから世界と私は、冬の終わりを祈っている。そうですか。わかりました。それでは共に行きましょうか。桜の花を、咲かせましょうか。
 僕は雪を握りしめて立ち上がる。

 お母さん。元気ですか?希望を抱けていますでしょうか。まだ傷は癒えませんでしょうか。痛みはまだあるのでしょうか。僕は相変わらず幸せです。
 お母さん。あまりお父さんを傷つけないでくださいね。強い父ですが耐え難い時もあるでしょう。ニ人に手を繋がれていた頃の温かい笑顔が大好きです。
 お母さん。花はまだ好きですか?まだ好きであってほしいものです。僕は今、世界に一つだけの花を探しています。その花を見つけたら真っ先に渡したい人がお母さんです。その時に笑ってくれたら嬉しいです。待っててくださいね。
 お母さん。お父さん。お婆ちゃん、お爺ちゃん。見ててくださいね。笑顔で待っててくださいね。楽しい旅へ行ってきます。僕もずっと愛しています。


 山滴る旅景色。
 うんざりする程に近い蝉の声に、なにも視させない日照りの毎日である。矢の如くふり注ぐ陽射しが、僕の身も心も射抜いていく。歩くことすら止めたくなる日々の中で僕は、貴方を求め続けるのであった。
 いったいどのくらい歩いただろうか。今にも剥ぎ落ちそうなこの喉の渇きからして、これまで経験したことのない距離を歩いているのは確かなのだが、この馬鹿みたいな天候のせいで、実は体感より距離は進んでいないのかもしれない。なにより目の前に広がる終わりの見えない壁の様な道を見れば、歩いてきた距離などどうでもよくなる。もう進むしかないのだ。進む為には歩くしかない。地べたにへばり付くこの脚を、無理矢理にでも動かし続ける。慣れ親しんだ場所を棄ててでも、そこに居場所はないのだから、探して見つけ出す。後ろを振り返る必要はない。振り返らなければ思い出せない記憶などない。振り返らずとも嫌という程思い出すものばかりだ。あの場所での記憶が僕の血肉になっている。血を巡らし肉を得た僕は、あの場所に居続けたが故に一人になることができた。けれども孤独になることはできなかった。一人から気付きを憶えたが、孤独という旅には出れなかった。だから僕は進むのです。この壁の様な道も、今迄の僕が目を背き挑戦してこなかったのです。少しずつでも登ることができていたのならば、今頃は登りきっていたのかもしれない。しかしどうでしょうね。この歩みを始める前の僕だったら、天候やら体調のせいにして登ろうともせず、なにより一人という地位の旨みを知り、あぐらをかいて、歩み進める人達を小馬鹿にしていた。利己的幻想を創りあげ、自分は達観していると斜に構え、戦わずに逃げながらも自分の居場所は探していた。そんな虫のいい話はないですよ。欲しいのならば進むしかない。僕は遅かった。だから僕は進み続ける。
 それにしてもわからない。僕をこんなにも衝き動かす、こんなにも会いたいと思わせる貴方の正体が。どんな形をしているのだろうどんな顔をしているのだろう。貴方を想えば想う程に僕の脚は軽くなり、前へと進むことができます。貴方が恋しいです。
 気がつけば、蝉の声は消えていた。照り返しもなくなり地面を見れていた。太陽は沈んではいないが、雲が母のように寄り添い陽射しを隠してくれていて、程よい光が差し込んでいる。そして壁の様な道はもうそこにはなく、目の前には香り豊かな木々と色鮮やかな鳥の鳴き声が小気味よく澄んだ川のよう流れていた。
 初めは自分の勘違いだと思っていた。自分の思いとは裏腹に脳味噌が判断して身体が反応し行動を起こしてしまうことはある。この現象が起きなければ僕は、問題という種を見つけることができなかった。間違い。間違いから産み落とされた種を、世俗という太陽の中で、思考という雨を降らし、月を輝かせる夜空のように根を張り巡らせ、吹雪いて踊り舞いながら、愛でて信じて笑を咲かして、ようやく生を受けた小さくも不屈なその芽吹きに、感謝を抱くか絶望を抱くか。それは、間違いを目撃した瞬間に、既に決まっているのだろう。僕は歩みを止めなかった。
 ポツポツと、雨が降り出していた。

 三ツ矢サイダーのペットボトルにいいちこを入れて、真昼間から呑まれている。喉が渇いたと言う君に僕は三ツ矢サイダーとしてボトルを渡す。口に含んだ瞬間にいいちこを吹き出す君をみて笑い散らかす呑まれた僕。君が誰だったかは憶えていない。
 楽しい毎日であった。テスト、赤点、大学、勉強、何もかもどうでもいい毎日だった。峠を越えた。そんな感覚が既にあったのだ。よくやったよ俺は。よくここまで来れたものだ。そう自分を労り褒めて惚ける日々が心地よくて、ぷかぷかと浮かび流れていく毎日を満喫していた。耐え忍んだ先の景色を目の当たりにした時に覚えた感動で、頭も心も満たされ尽くし、記憶に誰も介入させなかった。
 瞳を閉じる。快晴。世界と饗宴する自由。気持ちがいい。包まれている。有難い旅であった。そう思いながらもまだ通い詰めている学校という鬱屈した世界の中で、僕は君に一目惚れをした。
 君は緊張しながらも確かに踊る心に戸惑いながら、静寂と憂いを宿して佇んでいた。君に魅了されてしまった。美しかった。僕は話しかけざるを得なかった。そのまま赤裸々に、目で見て感じたありのままの感動を僕は君に伝えた。君は僕の目を見てはくれなかったけど、喜ぶ君が可愛くて伝えることをやめられなかった。鬱屈した世界を抜け出せる兆しを感じた。僕は毎日君へ会いに行く。なんなら君に会う為に学校を目指すのだ。勉強する君が好きだった。友達と話す君が好きだった。君の笑顔が好きだった。僕と向き合ってくれる君が好きだった。どれ程の時を過ごしただろうか。君は僕のことを好きになってくれたんだ。嬉しくて幸せで愛してやまない世界、という存在が君なんだ。
 君は少し遠くに住んでいたね。毎週水曜日だけがお休みの君は、その日だけ僕と二人になれる時間を作ってくれた。僕もその日以外はアルバイトをして、君に会える日を楽しみに生きていた。そして水曜日を迎えると、少し離れた君の住む場所で、僕と君の二人だけの時間の中で、愛を咲かせて見惚れあった。君の手が大好きだった。大きな背丈も大好きだった。抱きしめるのが大好きだった。愛してやまない毎日だった。君のことを考えない日はなかった。
 幸福が、想念が、渦を巻きながら空へと昇り駆け抜ける。雲が退き雷鳴を轟かせ光を放ち、愛の恵みを世界に降らせる。気持ちの良い雨だった。僕を濡らし穢れを落として宥め生まれ変わらせてくれた。そして雨が止み、涙が終わりを迎えた刹那、世界は照らされ光そのものが降り注ぎ、潤い帯びる自然と空が虹を彩り僕を祝福してくれるのだ。そんな存在が、君が、大好きだった。
 けれども終わりは突然やってきた。僕は学校を辞めることになってしまった。何故か。間違いを犯したからだ。間違ったのだ。しかしその間違いから気づきを頂いた。そして旅へ出る時がきた。別れを告げた。謎、矛盾、理不尽が籠り蔓延る別れが、僕と君との間で揺蕩う想念に歪みを生じさせる。その歪みが淀みとぼやけと靄を創り出す。僕は創り出されたばかりの世界へ、土足で足を踏み入れた。離れたならば進む。僕はずっと愛している。
 霧がかりの世界で子供のように一人遊びに耽る日々。意識深くの泉との出逢いに、渇望に渇望を重ねて潜りながら、数多な世界の表情豊かな風情と旋律に触発されながら、かつて皆に混ざり造れなかった砂の城を遅れを取り戻すようにせっせと造っては場所を変え造っての繰り返しに明け暮れていた。そして遂に限界を迎えたんだ。造るだけ造り面倒はみなかったから呪われたのだろうか。脱力が訪れ視線が土へと這いつくばる。背中が丸まり首が痛む。何かに寄り掛かりたくて虚ろな意識に呑まれながらも手探り求める。そしてまた求めては離れてを繰り返し、強欲が探究心を加速させながら、かつての温もりとの再会を願い続けていた。やっと限界を迎えれた。暮れてた途方は閉じてゆく。白が濁る。灰色が空を満たしている。僕は新たな山の麓へと堕ちた。
 彷徨い辿り着いた山の頂で、僕は確かに龍を見たんだ。産まれ落ちたその土地で、僕は夜もすがら夢と戯れていた。寒空の中で、必死にしがみつき確かな温もりを感じたことを憶えている。寒気を切り裂き雲を退け、青天の海空を突き進むあの光景を確かに憶えているんだ。自由。これが自由だと知り、眼差しは未来へと駆け巡り、悠々自適に流れる龍と戯れながら飛んでゆく。眼差しは遥か遠くへ、水平線を超えてゆく。貴方はどこへ向かうのだろうか。なにを目指しているのだろうか。君が望む景色はどんな世界なのだろうか。好奇心が僕の歩みを止めることはなかった。だから僕は、山を登ることにしたんだ。


 季節が温もりを帯び始め、冬服を仕舞い押し入れから春服を出していた。姿見の前で衣替えをする。
 お洒落には疎い僕ではあるが、その日の気分と直感で服を決めている。彩りを纏い出掛ける準備をしている。とは言っても毎年決まって、黒のパンツと白いシャツに恩師から譲ってもらった青いジージャンというシンプルな衣装なのだが、これが一番しっくりくる。そして祖父の形見である祖父の名前が刻まれた金色のブレスレットと、バレンタインの日に母からもらったVUITTONの金色のピアスを付ける。最近になってなんとなく金色のネックレスが欲しくなっていた。いい出会いがあれば買おうかなんて思いながら、父に買ってもらった緑のスニーカーを履き外へと出かけた。
 仕事へ向かう。山笑ういい天気だ。緑道公園を歩いている。今日も楽しみだ。今日の出逢いにまだ少しだけ緊張を隠せないけど楽しみだ。今ある僕の全てを曝け出す。どんな反応が待っているのだろうか。どんな出逢いが待つのだろうか。今日も変わらず愛して生きようと心も変わらず踊っている。
 その時、陽射しを呑み込む真っ暗な塊が目に映る。公園のベンチで一人座りながら項垂れる青年がいた。僕は彼に見覚えがあった。中学の頃、恐らく最低でも一度は同じクラスになったことがある同級生だった。名前が合っているのか不安ではあったのだが名前を言ってみる。するとゆっくりと顔を上げてゆっくりと瞬きをしながら僕を捉える。名前は合っていた。不器用にはにかみながら僕の名を呼ぶ。あまりにも生気がないので取り敢えず隣に座ってみることにした。君は僕の活動をいつも見ているよと言ってくれた。嬉しかった。僕は君に近況を話した。そして君の近況を聞いてみた。瞳に潮が満ちはじめる。瞳から溢さぬように上を向きながらも君は僕に近況を話してくれた。
 うん。悲しみの世界に、今君はいることがわかった。有難いお話を聞かせて頂いた。僕は背中に左手を当てて、彼と一緒に空を見上げた。よく喋ったこともないけど、同じ場所で同じ時を過ごした君は友達で、君が失意の底に項垂れていれば僕は手を差し伸べたくなる。こんなこと昔はしなかったけど今はできるようになった。
 僕が手を差し伸べると君は、僕達は友達じゃないのにありがとうと言った。その姿はまるで、あの頃の僕そのものだった。数分間時を交えて僕は仕事へ行くと伝える。またいつでも話を聞かせてとだけ伝えて、握手を交わし仕事へと向かう。君に再び笑顔が帰ってきますようにと願いながら緑道公園を歩いている。公園の緑達に甘酸っぱい情緒を授ける為に、梅の花がほころび始めていた。
 もうすぐ春が訪れる。一緒に花見に行きましょう。空が綺麗だ。青天の海空の中を、三本の雲が連なり遠くへ駆け抜ける。世界は今日も咲っている。どこかで桜も咲き始めたらしい。もうすぐこの街も、桜の花に包まれるのだろう。ある人生の黄昏。四季の流転を歩みはじめる。僕は冬を抱きしめる。冬の黄昏。桜まつ春へ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?